12
身体が重い。
ベッドの上でゆっくりと眠ったのは、もう何日前のことになろうか。
「お前も…お疲れだったな。ゆっくり休めよ」
一晩中飛び続けて、ようやくねぐらに辿り着いた翼竜の長い首を撫でながら、シキは本心から労いの言葉をかけた。
遠出する際には必ず共となる心優しい翼竜は不満げな様子もなく、むしろ疲れているのはそちらだと言わんばかりのおおらかさで、大きな顔をシキの肩に押し付けた。
ゴツゴツとした、しかし暖かい頭を撫でてやりながら、周りに人気のない気軽さについついため息が零れる。
ここのところの、この忙殺ぶりときたら、一体何なのだ。
夏頃から横行し始めた、徒党を組む魔獣達。
これが、帝国キリングシークの綻びの象徴かと俄かに活気づく反勢力。
それらを排するため、制するために奔走する日々は、何も考えずに戦場を駆け巡っていた頃と比べてさえも、よほどシキを疲弊させる。
魔獣相手はまだ良い。
単独から集団へと姿を変えたことに少しばかりの…いや、多大なる違和感はあっても、剣を振るって絶てば良いだけの存在は身体の疲れをもたらすだけだ。
休めば、元にも戻ろう。
だが、人が相手となると疲れさせられるのは、むしろ精神なのだ。
敵と定めて殺すだけなら、今更心を痛めることもないのに。
本意を探り合い、妥協点を見出そうとし、その駆け引きの結果としての抹殺は、虚しさを伴うのだと思い知らされる。
虚しさは心に鬱積していき、重いしこりとなってシキに消し去りようもない疲労感をもたらしていた。
現状打破に繋がらない、ただ危機を排除するだけの闇での殺戮。
いつまで、それを繰り返すのか。
終わりが見えないだけに、疲労感は解放のしようもない。
それでも、まだ、マシなのかもしれない。
まだ、世界は平和へと向かおうという意思を持っている。
漆黒の軍神は自国に在り、微動だにせず。
未だ、キリングシークの権威は揺ぎない。
他国にそう知らしめることには成功している筈だ。
それは救いだ。
もっとも、いつまでもつかは分からない。
いずれ、その存在に頼るときは来るのかもしれない。
「シキ様」
名前を呼ぶ声に、疲れと薄暗い方角へ進んでいた思考を隠して振り返る。
カノンが立っていた。
侍女のものではない衣装を身につけて、小さなカバンを一つ携えている。
「長い間、大変お世話になりました」
にこりと微笑み、静かに頭を下げる女性の言葉に、ふと思い出す。
「…ああ…今日が最後か」
そういえば、一か月程前から勤め始めたあのマツリという少女は、辞めるカノンの代りだった。
カノンがいつ辞めるのかまでは把握していなかったが、この忙しない日々の中、少なからず縁のある女性に、どうやら最後の挨拶ぐらいはできるようだ。
「何時頃産まれるんだ?身体には気を付けて…」
無難な別れの言葉を口にしようとするシキを、カノンは笑みを消した険しい表情で見ている。
気づいてシキが言葉を止めると、カノンは静かに歩み寄ってくる。
「大丈夫…なのですか?」
気遣わしげな言葉と共にカノンの手が上がり、少し遠慮がちながらシキに伸びる。
シキは身を引いて、それを拒んだ。
「触らない方が良い」
向けられていた指先が、ピタリと動きを止める。
「昨日は…人を殺したから」
かろうじて返り血は洗い流した。
しかし、あの独特のまとわりつく生温かさはまだ肌に残るようだ。
「シキ様」
カノンは手を下ろさない。
その手を掴んで引き寄せたのは、もう随分と昔な気がする。
染みつくような血の匂いと滑りの感触を、甘い芳香と肌の滑らかさで消すために。
柔らかな身体で、疲れた心身を癒すために。
僅かな迷いもなく、ただ闇雲に抱いたのは確かにこの女性だった。
なのに、不思議なものだ。
母になったその瞬間から、穢れた身体では触れることさえもできない存在になるのだ。
「触れたら汚れる」
お腹の中にあるまっさらな命に、ほんの僅かな穢れも与えたくないと。
こうして向き合うことにさえ罪悪感を伴う程。
その存在は神聖なものに、姿を変える。
「…何をおっしゃってるんですか…」
カノンは華やかな顔立ちに母の笑みを浮かべて、シキの言葉を易々と否定した。
「それがこの子たちのために流す血だと存じておりますのに…どうして、穢れなどと申しましょうか?」
そして、手は再び動き、最近は伸び放題にせざるを得ない髪に触れる。
額にかかる幾筋かの金髪を指先で払う仕草は、過去の情人というよりは、やはり母親のそれに近い。
「お疲れですね…男っぷりが上がってますよ」
軽い口調の中に、多大な心配が含まれている。
優しい指先が髪を耳にかけてくれるのに任せながら、なるべく疲れを見せないようにと気を使いつつ微笑んで見せた。
そして、彼女が囁いた過去の睦言を思い出す。
『怠惰な男なんて御免です。男は何かに打ち込んで、少々やつれているくらいの方が魅力的なんですよ』
戦場帰りの疲れた身体を優しく受け止めて、年上の情人はそんな風に言った。
『でも、それも命あればこそです。
だから、何があっても貴方は戻らなければならないのです。
戻れば…いくらでも、こうして抱きしめて差し上げることができるのですから』
実際に、カノンは戦いに疲れたシキを、無条件に抱きしめてくれた。
多分、今のシキにもそういう存在が必要だ。
だが、それはもちろん目の前のカノンではない。
そして、数多くいる筈の情人でもない。
それは、たった一人。
「それで、カノンの旦那は仕事漬けの日々なんだな」
思い浮かぶ幻影を振り払い、シキは軽い言葉を返した。
その存在を今思い出すことは、あまりにシキには切ない。
「あの人は仕事が好きなんです」
カノンはクスクスと笑いを零してシキから手を引いた。
夫のことを話すとき、カノンの表情は妻のそれに変わる。
「…シキ様」
母であり、妻である、元情人は、ふと表情を固くした。
「お体にはくれぐれもお気を付け下さいませ」
一瞬だけ、ベッドから出るシキを見送る時に見せた貌が、そこに浮かんだ気がした。
それとも。
母も、妻も、情人も。
心配する時の表情は似通っているのか。
そういえば。
振り払った筈なのに、また、思い出す。
一度だけ送り出してくれたあの侍女も、そんな貌をしていた、と。
型どおりの言葉と教え込まれた優雅な礼をしながらも、その表情は心からシキの無事を祈っているのだと告白していた。
だから、頬への口付けを止められなかった。
「シキ様?」
黙りこくったシキを、母の表情に戻ったカノンが覗きこむ。
「…分かってるよ」
振り払うことを諦めて娘の存在を胸にとどめる。
「カノンも大事に」
カノンは頷き、だが、少しだけ何かに迷うように唇が動いた。
やがて
「ところで、今日で最後なのでご無礼を承知で申し上げたいことが」
改まって言う。
シキは思わず、小さく笑い声を洩らした。
「今更だろう」
促すように言えば、カノンはふと真面目な顔をする。
今度のそれは、何の表情か。
「ホタルへのお戯れ、おやめ下さいませんか」
いきなりといえば、いきなりだ。
だが、察しが良いものであれば、シキのホタルに対する態度に気がついても不思議ではない。
「ホタルは…シキ様の…いえ、お相手がどなたであってもですが…遊び相手には向いておりません」
そんなこと、言われるまでもない。
改めて思い出すまでもなく、胸にとどまる娘。
あれほど遊び相手に似つかわしくない者もいないだろう。
「珍しいな…カノンがこういうことに口を出してくるのは」
シキは軽く返した。
だが。
「仕事に支障が出てる?」
カノンの心配する所以が、そこにあるならば問題だ。
それは、きっとホタル自身を一番追いつめる。
「いえ、真面目な子ですから」
カノンは眉を潜めた。
「でも、だからこそ…お戯れはおやめ頂きたいのです」
言い淀むように唇を舐めて。
覚悟を決めたように、きっぱりと言う。
「シキ様に戸惑うホタルの姿は、見ていて可哀想です」
まっすぐに振り落とされる剣のように容赦ない言葉。
ホタルがシキに戸惑っている。
そんなことは分かっている。
シキの態度に。言葉に。
本心を知りたいと思っている風もなく、ただ、どうして良いのか分からず困惑している。
それは承知だ。
だが、その姿は他人から見ると。
「…可哀想…か」
そう言われても仕方ないのだろう。
確かに、己は誠実な男ではない。
もの慣れない娘を、戯れで手折ろうとしているように見えて当然だろう。
だから、そのことに怒りや悔しさはない。
「でも…無理…なんだな」
カノンに応えるというよりも、自分自身でそれを確認するように。
「無理?」
シキは頷いた。
「遊びじゃない。カノンの言うとおり、ホタルは遊び相手には向いていない。遊びなら…あんな面倒な娘、相手にしない」
言ってから、まったくその通りだと思った。
こちらが歩み寄れば、心を開いたようにも見えるのに。
少しでも手を伸ばせば、スルリと逃げる。
本気の言葉さえも、サラリと流される。
心の中は、女主のことでいっぱいで。
笑うのも、泣くのも、かの女性のためだけ。
「…カノン…笑いたい時には笑った方が良いよ」
ふと見やった元侍女に、ため息をつきながら言ってやる。
カノンは口元をヒクヒクとさせていたが、すぐに堪え切れないように吹き出すと、声を立てて笑いだした。
身体を折り曲げるようにしておかしくて堪らないように笑うカノンを怒る気にもなれない。
何故なら…カノンが今の夫と結婚すると、本気で愛しているのだと聞いた時に、シキも同じように笑ったからだ。
あの時のシキの笑いはなんだったのだろう。
無愛想で無口な職人気質の男に恋する女を笑ったのは、嘲るためではなかった。
恋に落ちた者の不器用さが愛しかった。
手慣れた筈の女の、その滑稽さがどうしてか羨ましく思えた。
だから、なんだか、笑わずにはいられなかったのだ。
多分、カノンも同じだろう。
「…シキ様が…ホタルを…ですか…」
ひとしきり笑い、まだ呼吸が整わない中、カノンは呟いた。
「意外?」
尋ねれば、どうしてか、ひどく優しく微笑んだ。
「…いいえ…なんとなく納得、です」
年上の元情人の口調は、穏やかさで満たされていた。
「手強いでしょう?」
尋ねるそれも、嘲笑を含むものではない。
「うん…手強いね」
シキは頷き
「しかも…強敵がいるし」
続ける。
もちろんシキにとっての強敵は、かの寵妃以外に他ならない。
ところが。
「ああ…ジンですか」
カノンからは思いがけない人物の名が出てきた。
「ジン?」
あまりに想定外。
シキの反応に、カノンは形の良い眉を右だけ器用に上げた。
「あら?」
対するシキは、眉間に深い皺を寄せる。
「ジンって…あのジンか?」
「あらら…私、余計なことを言ってしまったのかしら」
カノンは焦ったように、誤魔化す微笑みを浮かべていたが、シキがじっと見つめると、諦めたように肩を竦めた。
「マアサさんは、ホタルをジンに嫁がせたいと望んでます」
確かにマアサはホタルを気に入っている。
以前、レンがそんなようなことを言っていたような記憶もある。
「近くカイ様やサクラ様にも正式にお話があると思います」
それは、随分と真実味のある話ではないか。
だが、正直なところ、想定外。
ホタルがあまりにその手の話に無縁な雰囲気をまとっているから。
しかし、考えてみれば年頃の娘だ。
器量も悪くないし、何より気立てが良く、働き者。
とくれば、そんな話の一つや二つあっても不思議ではない。
しかも、マアサが絡んでいるとなると、それは急に現実感を帯びてくる。
「…シキ様…顔、怖いですよ」
カノンの声に、存在を忘れていた女性に目を向けた。
既に笑いも焦りも消えて、ただただ柔らかな笑みでシキを眺めている。
「本気なんですねえ」
しみじみと呟く姿が、少々癪に障る。
本気だとも。
そう言っているではないか。
「…そう言ってるだろう」
カノンはピンと来たようだ。
「あ、ホタルにも疑われてるんですか?」
嫌な言葉だ。
だが、疑われるなら、まだ良い方だとも言える。
「…疑われてる、というよりも…そもそも分かってない」
あの娘には分からないのだ。
シキが、ホタルを好きだということが理解できていない。
まるっきり、あり得ないことだとでも言うように。
直截的な言葉までもが、曲解される。
『好き』という言葉に『恐れ入ります』という返事をもらったのは、初めての経験だ。
それに何ら返すことできずに、大人げなく突き放してしまったのは何日前のことか。
「自業自得…ですねえ」
カノンは呟いた。
そんな単語、もう何度も呟いている。
だが、今までのことをとやかく言われても、それは過去だと言うしかない。
事実、今のシキはホタル以外はいらないのだから。
どんなに疲れても。
どんなに欲していても。
他にはいらない。
思い出すのは、無理やり奪った口付け。
一瞬触れた頬の柔らかさ。
慰めるために引き寄せた筈の身体の細さ。
それだけ。
たった、それだけの記憶だけが、現実にあるどんな柔らかな存在よりもシキを煽り、そして癒す。
「本気なら…私は応援します」
カノンは、やけにはっきりと言いきった。
「貴方も見つけたのなら」
続けたそれに、今もカノンがシキを想っていてくれるのだと知る。
過去とは違う想いだったとしても、カノンは確かにシキを想ってくれているのだろう。
「だから、ホタルの花嫁道具を揃える時にはぜひうちの旦那にお願いしますね」
いきなりカノンは家具職人の女房の顔をして見せた。
「…まだ…あの旦那を働かせる気なのか」
シキは呆れたように呟いた。
だがその言葉に含まれる、シキの想いがホタルに届けば良いというカノンの願いを、シキは決して聞き逃しはしない。
だから。
「いいよ」
カノンの願いに、約束する。
「思い切り腕を振るうよう旦那に言ってくれ」
そして、ふと気が付いて付けくわえた。
「ジンに同じこと言うなよ」
冗談交じりに、だが、かなりの本気を込めて言えばカノンは、再度大爆笑して
「承知しました」
と、力強く請け負った。
「…公爵家からのご吉報をお待ちしております」
いつになるか分からないけど。
あの娘に、己の本気を分からせてみせる。
手に入れてみせる。
その時こそ、シキはこの身体と精神を癒すことができるだろう。