11
何やら騒がしい。
サクラの髪を梳いていたホタルは、一瞬だけその手を止めた。
季節は冬の入り口ではあるけれど、今日は日差しが差して暖かい。
外の空気を部屋へ誘い込むことを好むサクラのために、中庭に面した窓は開け放たれている。
しかし、騒がしいのはそこではない。
長い髪に櫛を通す作業を再開しながら、ホタルはもう少し聞き耳を立ててみた。
閉め切った扉の向こうから聞こえてくる声や音の出所は、どうやら正門だ。
パタパタと忙しない足音が響いている。
どうしろ、こうしろと指示するマアサの声や、それに答えるカノンやマツリ。
このお屋敷にしては、珍しく落ち着きのない模様が聞き取れた。
しかし、その騒ぎは、まだ、遠い。
ホタルを呼ぶ声も、サクラを伺おうとする気配もない。
ならば、ホタルとしては、気にするまでもない。
サクラと二人で過ごすこの状況は、ホタル自らが進んで壊したいものでは決してないのだから。
「さすがに…少し切った方が良いかもしれないですね」
騒ぎを無視して、ホタルはサクラに話しかけた。
サクラが頷くと、それに合わせて髪が揺れる。
その髪は、女性としても類を見ない長さに達していた。
立てばサクラの背を覆うのはもちろん、膝をかすめて床に届くまであと僅か。
ホタルが精魂込めて手入れしているから、そこには少しのささくれもなく、優しい色合いを湛えて流れる様は、ため息が出るほどに美しい。
年頃の娘、しかも既に人の妻となった女性が、長い髪を結わずに背中に垂らしておくということに、最初は違和感を感じもした。
それが主の命だと知って反感を持ちもした。
主が当たり前のように流れを指に取り、口付けを与える姿に胸が痛んだことも一度や二度ではないが、それも今では心が温かいもので満たされるばかりの光景。
それどころか、主の指先で揺れる髪の美しさに惹かれ、手入れをする気合も以前とは段違いだ。
とは言え、この長さは結わないからこそのものだった。
近頃のサクラはカイに伴われ、公の場に出ることが増えている。
そうなれば、結わずにはおけず、この長さはどうしても障害となってしまうのだ。
「切っても構わない…というか、ずっと切りたいって言ってるのに…」
サクラが、いくらかの非難を込めてながらも、柔らかく言葉を零す。
確かに、夏あたりから、サクラは折にふれては、髪を切りたいと言っていた。
だが、ホタルはそのたびに、頷きながらもそれを先延ばしにしてきたのだ。
だって、本当にきれいなのだ。
それに。
「カイ様はこのままで良いとおっしゃるんですよね」
髪を切らない最大の原因は、やはりそこだと思う。
カイが切ることを許せば、それはあっけないほどに実現するのだろうが。
尋ねれば、必ず「このままで構わない」と返事が返るのだ。
「…少しくらい切っても、良いと思うけど…」
そう言いながらも、サクラにもやはり迷いが見える。
想いが叶う前から、髪だけは常にカイの指先に触れられてきた。
想いが叶った今となっては、敢えて髪にこだわることもないのだろうに。
それでも、主の気に入っているものを、その許しなく切り落とすことに潔くはなれないのだろう。
結局今日も髪を切ることはなさそうだ、とホタルは確信する。
それに、そんな余裕もなくなりそうだった。
遠くにあった騒ぎが、徐々に近づいてきていた。
正門あたりから中庭に移動してきたざわめきは、やがてサクラの耳にも届くだろう。
「なにかしら?」
ほどなく、ホタルの予想通り、サクラの意識が騒ぎに向けられる。
ホタルは手を止め、中庭が見下ろせる窓に近付くと、そっと様子を窺った。
一目で、近衛兵だろうと知れる騎士が数人。
それに護られて、中庭を歩くのは。
「女の子がいます」
目に入った姿をサクラに伝えながら、少しばかり耳を澄ます。
甲高い少女の声が
「カイ!」
恐れ多くも、家の主を敬称なく呼ぶ。
呼ばれたカイは、苦笑いを浮かべながらも、駆け寄る少女を抱き上げた。
「また、大きくなったな」
耳に届いたのは、そんな言葉。
「アヤメ様だわ」
ホタルの横に立ち、同じように庭を見やったサクラは、少女の名らしきものを呟いた。
聞いたことのあるような、ないような名前。
「皇太子様のご息女」
思い出せない答えを、サクラが教えてくれる。
「ああ」
どうりで、聞いたことはあるけれど、ピンとは来ないはずだ。
カイの兄である皇太子には、ホタルの記憶が正しければ、ご子息が一人、姫君が二人。
確か、ご子息の名前はトワ様。
ご息女は…そう、アヤメ様とツバキ様だ。
思い出して、すっきりしたところで、はっとする。
「お出迎えしなくてもよろしいのですか!?」
隣で、のんびりと眺めているだけのサクラに尋ねた。
どこもかしこも姫君の来訪に、てんやわんやとなっているのが聞こえてくる。
このお屋敷でいつもの平穏を保っているのは、もはやこの部屋だけだろう。
「いい…と思う。私、嫌われているから」
サクラは少し困ったような、それでいて恥じらいを含ませたような、言葉の内容にそぐわない表情を浮かべる。
「珍しいですね。サクラ様、お子様には好かれる方なのに」
控えめな言い方をしたが、実のところ、サクラの穏やかな雰囲気を嫌う子供には、今までお目にかかったことがない。
オードルにいた頃も、親族や客人が集まる機会があれば、気が付くとサクラの周りには子供達が集まっているというのが常だったくらいだ。
「アヤメ様はね。カイ様のお妃様になりたかったんですって」
サクラは庭から、ホタルに視線を移した。
「初対面ではっきり大嫌いって言われて、泣かれて…その後はご挨拶もして下さらないの」
穏やかな口調と微笑みで告げる姿に、怒りや嘆きはない。
少女の嫉妬と、それから生まれる不条理な態度を、受け止めて静観する余裕が今のサクラにはあるのだ。
「今はシキ様にお輿入れなさりたいんですって」
冗談っぽく続いたサクラのそれに、ホタルはつい笑ってしまった。
なんというか。
「アヤメ様って…」
サクラが言わんとしていることに気が付き
「面食いよね」
「面食いでいらっしゃるんですね」
声が揃う。
サクラとホタルは顔を見合わせて、同じタイミングで吹き出した。
クスクスと笑いを続けながら、サクラはもう一度庭に視線を向ける。
「最近はカイ様もシキ様もお忙しくて、お城から足が遠のきがちでしょう?きっと、我慢できずに飛び出していらっしゃったんでしょうね」
ホタルも、サクラに視線の先を合わせた。
カイの腕から滑り出て、現れた笑顔の騎士に抱き着く少女が目に入る。
今日は、屋敷にいらっしゃったのか。
そんな風に思うほど、サクラの言葉通りにシキは忙しい。
その姿を見るのも、数日ぶりだと思う。
シキは柔らかな笑顔で姫君を抱きあげている。
「お久しぶりですね。お元気でしたか?」
優しげな声を聞こえてくる。
姫君は嬉しそうに頷いて、シキの首にしがみつく。
カイと同じ黒髪が、ゆらゆらと揺れた。
異国の美姫と誉れ高い母君の血を色濃く引き継いだのであろう目鼻立ちは、遠目にもはっきり見て取れる神秘的な美しさに輝いている。
そして、身分は最強の帝国の姫君。
恵まれ過ぎるほど恵まれた姫君の輿入れ先が、公爵家であることは、なんの不都合もない気がする。
幼子の戯れ…で済ますには、庭先で睦ましく語らう二人は、あまりにお似合いだった。
「確か…10歳でいらっしゃいましたっけ?…あと5年もすれば、とても美しい女性におなりでしょうね」
ホタルは呟いた。
「ホタル?」
サクラに呼びかけられて、ホタルは微笑み合う姫君と騎士から目を離した。
サクラを見れば、先ほどの楽しげな様子はどこに行ってしまったのか。
心配そうにホタルを見ている。
なぜ、こんな表情をするのか。
「5年くらいなら…待てる気がしません?」
訳の分からないサクラの様子に、意図して明るい声で言ってみる。
「そうしたらサクラ様、晴れて仲良くなれるかもしれませんね」
サクラの表情は晴れない。
そして、ホタルも。
意図しなければ、声に感情が出そうだ。
感情とは?
なんだろう。
この気分は。
一体?
「…ホタル」
サクラの手がホタルに触れようとする。
慰めだろうか。
どうしてか、そう思い。
だが、慰めを受けることなんてない筈だ。
だから、手を避けて。
「お茶をお持ちしますね」
適当な言い訳を口にしながら、部屋を出た。
サクラから逃げたのは…多分これが初めて。
長い廊下を、厨房に向かう。
サクラの表情が、心にひっかかる。
私の何が、サクラ様にあんな表情をさせてしまったのだろう。
眉を寄せて。
辛そうな。
切ないような。
カイに一方通行な想いを抱いていた時に、ほど近い表情。
「ちょっと!」
突然、物思いを吹き飛ばさんばかりに勢いよく呼び止められ、ホタルは振り返った。
少し離れたところで、騒ぎの中心である姫君が、マアサと数人の共を連れて立っている。
ホタルが慌てて膝を折り、頭を下げると、姫君が一人でホタルに近付いてくる気配がする。
そして、ホタルの視界には、華やかなドレスの裾が入ってきた。
「…貴女がホタル?」
まずは、名前を呼ばれたことに驚いた。
だが、それよりもそこにある感情になお驚かされた。
何故だろう。
ひどくトゲを感じた。
「…はい…」
素直に答えながらそっと伺い見れば、近くで見てもやはりとても美しい姫君は、じっとホタルを見つめていた。
見なければ良かった、と後悔するほどに。
黒耀石のように輝く瞳は、声に含まれてるものを裏付けるように、あからさまな敵意を湛えている。
どうして、こんな風に睨まれるのか。
あまりにも激しいそれに、ホタルはただ頭を下げ続けた。
余計な荒波を立てたくはない。
何が姫君の不興を買ったかは知らないが、ここはひたすらに伏しておくべきだろう。
しばらく物言わずホタルを睨みつけていた姫君は、やがて
「…なんでもないわ…行きなさい」
子供らしい声で、不遜に言い放った。
そしてホタルが顔を上げるよりも早く、背を向けて去って行く。
皆が唖然と姫君の行動を見ている。
それを無視して、ずんずん進んでいく姫君の背を、ホタルもまた呆然と眺めていた。
共の中にいたマアサが心配げにホタルを見やったのに、大丈夫ですと頷いて。
それでも、一体なんだったのかという疑問は残る。
訳が分からないまま、深刻だった筈の物思いも吹っ飛んで、ひとまず足は厨房に向かう。
「…ホタルさん!私、どうすれば良いですか!?」
厨房に入った途端、あたふたと落ち着きのなマツリが近付いてきた。
まだ、お勤めに入って数日。
そこに突如現れた大物に、かなり動揺してるようだ。
「ここでお袋が何か言って来るのを待てば良いと言ってるんだがね」
奥では、何の動揺も見せない新しい料理人が、茶菓子を皿に準備している。
のんびりした動きにも見えるが実に手際良く、そして盛られていく菓子達はとてもきれいだ。
「…ここでおとなしくしていれば良いと思うわ…何かあれば、マアサさんかカノンさんから指示があると思うから」
ジンの意見に賛成の意を示したホタルの言葉に、マツリは頷きはしたが、やはり落ち着かないように厨房の入り口付近をウロウロとしている。
気持ちは分からなくもない。
勤め始めて数日とは言え、このお屋敷の平素の静かさはマツリも分かっているだろうから。
それを知っている者にしてみれば、今日は尋常ではない。
しかしながら、特にできることもないのが事実。
「ホタル、こちらをサクラ様に」
一方のまったくもっていつも通りのジンから、ホタルはサクラにと準備されたお茶と菓子を受け取った。
それをワゴンに乗せていると、ジンが
「マツリ、こっちに来て、そこに座んなさい」
落ち着かない少女を呼ぶ。
マツリはこれに素直に従って、ジンの示した椅子に座る。
「…ここで、これでも食べて大人しくしてなさい」
マツリの前に出されたのは、茶菓子。
サクラのもののように、きれいに盛り付けられてはいないが、同じものなのは明らかだ。
マツリは驚いてジンを見上げ、次にホタルを見やる。
「ジンさんのお菓子はサクラ様も大好きよ」
食べて良いという意味を込めて言うと、大人びた顔立ちに子供の笑顔が浮かんだ。
「ありがとうございます」
お行儀良く手を合わせて、お菓子を口に運ぶ姿にホッとして、ホタルは厨房からワゴンを運びだした。
サクラの部屋へと向かう足取りが、重い。
こんなこと、今までのホタルにはあり得ない。
戻ったら、サクラ様はどんな顔をなさっているのだろう。
もう、何もないように微笑んで下さるだろうか。
あの表情はきっと私のせいに違いない。
だとしたら、私が先に元に戻らなければ。
でも、私は先ほど、どんな風だったのだろう。
それはもうなくなって、今はいつも通りなのだろうか。
自分自身を探るホタルの耳に、今までの気分はともかく、それを決して浮上させるものではない足音が響く。
できれば、今は顔を合わせたくない方のそれなのはすぐにも分かったが、残念ながらどこにも隠れ場所はなかった。
結局、先程姫君に呼び止められた辺りで
「やあ、ホタル」
にっこりと笑うシキに出くわした。
窓越しではない近さ。
遠耳ではなく、目の前の口元から零れる声。
「ご用でしょうか?」
いつものとおりに答えたつもりなのに。
「おや、不機嫌だね」
そんな風に言われて、やっぱり自分は不機嫌なのだろうかと考える。
だが、不機嫌になる理由は見当たらない。
身分ある方の気まぐれな態度など、気にするまでもないはず。
サクラの表情は、ホタルに不安を与え、心配させるものだが、これも不機嫌とは別の筈だ。
久しぶりのシキは、どうしてかホタルの気分を下降気味にさせたが、これまた不機嫌とは違う。
「そんなことは、ありません」
だから、そう答えた。
シキはじっとホタルを眺めてくる。
つい、つられるようにホタルも、目の前の騎士を見つめた。
幾らか痩せたように見える。
切る間もないのか、少し伸びた髪が顔を隠しがちだった。
なのに、隙間から覗く碧い瞳が、ホタルを凝視していることははっきりと分かった。
言葉と同じように、多くを語りながらもが本心を明かさない瞳だ。
それが、どことなく荒ぶっているようも見えて、ホタルはなんとも言えない居心地の悪さを感じた。
「あの…シキ様?」
用向きはなんだろう。
先ほどまで打って変わって、今は早くサクラの元に戻りたい。
それに、耳を澄まさなくても、少し離れた扉の内から、シキを呼ぶ姫君の声が聞こえてきて、なお、ホタルを急かす。
「…あちらの姫君にもね…お茶を差し上げて欲しいんだけど…」
シキはようやくそう口にした。
ホタルは頷いた。
「承知致しました」
とは、請け負ったものの。
ふと先程の姫君の敵意に満ちた視線を思い出す。
「…マツリでも大丈夫でしょうか?」
あのきれいな瞳に睨みつけられるのは、正直避けたいし。
姫君にしても、ホタルなどにお茶を準備されたくもないだろう。
しかし、言ってから、マツリの様子を思い出し。
「すぐお持ちします」
言いなおして、ひとまずサクラの元へと向かおうとすれば。
「ホタル」
腕を捕えられる。
これも随分と久しぶりではないか?
「…何かあった?」
ひと際近付いたシキが、心配を含んだ声で尋ねてくる。
ホタルは慌てて首を振った。
しまった。
余計なことを、口走ってしまった。
どうやら、シキが何かとホタルを案じてくれているのは、本心からのようだ。
それには感謝をしなくてはいけないのだろう。実際に、何度も助けてもらっているのだから。
でも、ホタルことなど二の次、三の次で良い。
というか、本当は気にしてくれなくて良いのだ。
たかだか一侍女だ。多少のことがあっても、このお屋敷が揺らぐこともない。
シキにはもっと大事なことがいくらだってある。
ホタルなどに関わっていられる余裕などないほどに、忙しい筈だろう。
「申し訳ありません」
つい口をついたのはお詫びの言葉だった。
これでは、シキへの問いに答えていないと
「何もありません」
急いで付け加える。
だが、シキの眉間に刻まれた皺はなくならない。
「ホタル」
ぐっと腕を掴む力が強まって、引いてくれないようだと悟る。
どうしてだろう。
本当に、ホタルのことなど放っておいてくれ良いのに。
ホタルは迷いながら
「…何故か…姫様には嫌われているようなので」
俯き、呟く。
甘えている、と自覚しながら。
シキが何らかの答えをくれること。
そして、宥められること。
それを、多分どこかで期待していて、そしてそんな自分が嫌になりながら。
「…お茶をご用意するのは私ではない方が宜しいかと…」
もっともらしいことも口にする。
「子供は正直だな」
シキからは、そんな呟きが返ってきた。
そして、意外にも小さな笑い。
ホタルは、つい顔を上げて、首を傾げた。
シキはホタルの腕を引いて、廊下の真ん中から人が滅多に通らない脇の細い廊下に移動する。
ワゴンが置き去りにされてしまってホタルは焦ったが、腕を掴むシキの力は揺るがず、引きずられるしかない。
「アヤメ様は奥方もお嫌いだ」
足を止めるなり、唐突にもシキはそう言った。
それはサクラ自身にも聞いたことだった。
「はい。そのようにお聞きしました」
だから頷く。
「それはカイ様が奥方を寵愛していらっしゃるが故の…まあヤキモチな訳だけど」
確かに。
それはそのとおりなのだろう。
ホタルは、もう一度頷いた。
「はい」
不意にシキの声から、笑いが消える。
「…君が嫌われる理由はなんだろう?」
突然の質問に、ホタルは少し考えた。
私自身が嫌われる理由?
もちろん、過去に会ったことがある筈もない。
あの姫君にとって、私は何だろう。
一介の侍女。
本来なら歯牙にもかけぬ存在。
だけど、そう私は。
「サクラ様の侍女だから、でしょうか?」
出した答えは唯一だ。
だが、シキは首を振った。
「不正解」
でも、それ以外には何も思いつかない。
他の理由?
例えば、遠耳が忌み嫌われる、とか?
そんなことを、姫君がご存じの筈がない。
「…分かりません」
ホタルは首を振った。
すると、シキは少し身を屈めるようにして、ホタルに囁いた。
そんなことをしなくても、ホタルの耳はどんな言葉も聞き取るのに。
「君が嫌われるのはね…俺が君を好きだからだ」
それは…。
ホタルは一瞬頭に浮かんだ、その単語の意味を押しやった。
そんな訳がない。
だから、この場合
「恐れ入ります」
これが、模範解答だろう。
侍女として、上の方に気に入られていると言われたら、褒められたのなら、これで正解の筈だ。
しかしながら、予想外にシキは妙な顔をした。
「そう返してくるか」
再び、眉間に皺が寄った。
少しの間を置いて、何か言おうとしている唇に、気がつかない振りをして
「シキ様、姫君がお呼びです」
聞こえることを口にする。
いくつか向こうの扉の内で、姫君は忙しなくシキをお召しだ。
お伴の方々の戸惑いまでが、ホタルの耳に届くようだ。
「…お茶を頼む」
やがて、シキはそう言った。
「マツリに運ばせてくれればいい」
その声は、はっきりとした感情に縁どられていて、ホタルを驚かせた。
いわゆる、これは不機嫌。
「…承知致しました」
今度はシキが不機嫌らしい。
だが、知らないふりをして、厨房に向かう。
まずは戻って、姫君にお茶を運ぶようにマツリに言おう。
そして、サクラ様のお茶を淹れなおそう。
きっと冷めてしまったから。
そんな段取りを頭に作り上げながらも。
考えてしまう。
何か間違えただろうか。
よく分からない。
サクラの表情も。
シキの不機嫌も。
なにより、自分のこの重い気分。
分からないことばかりだ。