黒い影
「ひゃっうぃ、ひゃっうぃ~。(心太の売り声)」
飴、
甘酒、
心太、
七味唐辛子、
稲荷寿司、
煎餅、
大福餅、
|玉薬、(しゃぼん玉)
その他諸々、
ありとあらゆる物売りの売り声が四方八方に飛び交う浅草の賑わいの中を歩きながら、
「はあぁ、投剣も見事ぢゃったが手妻にはたまげたのう。あの離れた舞台からどうやってわしの懐の財布を消したんぢゃろ?」
サギはあどけなく首を傾げた。
すっかり児雷也の手妻と真に受けているのである。
「なんと、うつけ者ぢゃ。あれは――」
シメが呆れて言い掛けたが、
「まあ、よせ。サギの夢を壊さんでもよかろう」
ハトがボソッと小声で窘める。
「ハトは甘いのう。富羅鳥の忍びが掏摸ごときに懐から財布を抜かれようとは、まっこと情けない」
シメは嘆かわしげに眉根を寄せた。
「まあ、今日はサギも江戸へ来たばかりで見るもの聞くもの珍しゅうて浮かれとっただけなんぢゃから」
ハトは殊更にサギを庇う。
我蛇丸が江戸へ出て蕎麦屋を始めてからこの三年、盆と正月の年二度しかサギとは逢えぬのだから些細なことは大目に見ようというのであった。
「はぁ~」
サギはフワフワと雲を踏むような足取りでまだ夢から覚めやらぬといった風。
その後ろに黒い影がひっそりと足音もなく付き添っていたが、夢心地のサギは気付きもしない。
「――おや?そういえば我蛇丸はどうした?」
「あ、忘れとった」
ふいにハトとシメが思い出し、後ろを振り返った。
「……」
なんということか。
サギばかりか我蛇丸までもが惚けたようにフワフワと締まりなく歩いているではないか。
しかも、
ズルッ。
「――あっ」
声を上げたのはハトとシメ。
ドテンッ。
心此処にあらずの我蛇丸は地べたに落っこちていた心太を踏んで滑ってスッテンコロリ、無様にもひっくり返った。
「――っ」
尻餅を突いたとたん、さすがに我蛇丸はハッと正気に戻り、疾風のように立ち上がる。
決まりの悪さか踏んだ心太を草鞋でグニグニと八つ当たり気味に地べたに擦り付けている。
「なんとしたことぢゃ。富羅鳥の忍びの若頭ともあろうものが心太を踏んで転げようとは――」
「う~ん、我蛇丸ならば児雷也の見せた投剣の技くらいお茶の子さいさいで出来ようのう。ということは技に魅せられて惚けた訳でもあるまいに」
シメとハトは日頃、泰然自若たる我蛇丸には不似合いな体たらくに首を傾げた。
二人が我蛇丸に気を取られているうちにサギは依然としてフワフワと先へ先へと歩いていく。
「ああっ、サギ。そっちへ行くと川ぢゃ。日本橋へ戻る道とはあべこべぢゃあ」
慌ててハトが呼び止めてもサギの耳には入らぬらしい。
サギは渡し船の船着場へ向かう人々の流れにフワフワと身を任せて歩いているのだが、忍びたるもの浅草から日本橋までの一里くらいは歩いて帰るのだ。
ハトは人混みを掻き分けてサギを追い掛けていく。
人隠れにしてサギの後に付いていた黒い影もサッと引き返す。
豆をついばんでいた鳩が黒い影に蹴散らされたかのように一斉にバサバサと飛び立った。