デグド・ドグデ
『鏡像体』というものが存在をします。
これは、簡単に言えば、左右が逆になったものの事です。つまり、鏡に映して見た場合のその姿を取るものをそう言うんです。
左右が逆って事は、もちろん、左右の区別ってものがなければ、鏡像体は存在できない事になるのですが、これを言及していくと、「じゃあ『左右』って何なのか?」って問題になってきてしまいます。だけども、これはちょっと難しい話になってしまうので、ここではちょっと説明仕切れません。それで、軽くだけ触れておくと…
……左右というのは、二次元においては上下が決定をされれば存在できます。ただし、それでも左右が対称な場合は、鏡像体は存在しません。 “A”って文字は、鏡に映しても同じ様に“A”ですね。これは、左右対称だからです。ところが左右非対称な“B”って文字になると、ちゃんと左右の区別ができるので、鏡像体が存在できるのです。Bは、鏡に映せば左右が逆転してしまいますね。
これが三次元になると、もう少しだけ厄介になってしまいます。何故なら、縦横の他に前後という概念も登場するからです。ですから、『左右』が存在する為には、上下の他に前後ろが決定をされてなくてはなりません。
右手が右手なのは、顔がある面を“前”と考えているからなんですね。もし、後頭部が前だったならば、右手は左手になってしまいます。
さて、
ならば、上下と前後を決定できて、しかも左右非対称だったならば、『鏡像体』は存在できるのだ、という事になるのですが、それは逆を言えば、これらの条件が揃わなければその物体には鏡像体がない。という事を意味してもいます。だから“原子”においては、『鏡像体』は今のところ、存在しない事になっています。原子には前後上下の区別がない。ですが、しかし、この原子が結びついて出来上がる“分子”には、この鏡像体が存在をするものもあるのです。
そして、その鏡像関係にある分子どうしを、『光学異性体』と呼びます。
この光学異性体の左右は、それぞれD型L型と言うのですが、実は生命の体を構成している物質にも、このD型L型の区別があるのです。そして、一部の例外を除く地球上の全ての生命達は、このどちらか一方の型でのみ身体が構成されている…… 事になっています。例えば、アミノ酸はD型。糖はL型、というように。
では、異なった型のそれを、人間が食べたらどうなるでしょうか? ……実は、それを『食べ物ではない』と感じてしまうのです。つまり、不味くて、とても食えたものではないのですね。もちろん、それを栄養分やエネルギーとして活用する事もできません(因みに、物語で時折、鏡の中の世界の食べ物を食べる、というシーンが出てきますが、もし、仮に、鏡の中の世界の食べ物があったとしても、こういった理由からそれらを食べる事はできません)。
薬などもこの型が違うと、それぞれ違った薬効を示すそうです(一方は毒になり、一方は薬になる、とか)。
因みに、地球の生命を形作る全ての物質で、この型は統一されている(もちろん、今のとこの見解です)ので、地球上の全ての生命は同じ起源を持っているのではないか? と推測されています。
……では、もし、仮に、それぞれ別の型を持つ生物達が、同じ惑星に生息していたなら、一体、どうなるのでしょうか?
惑星 デグド・ドグデ
それが、この物語の舞台です。
……まだ、火の塊だった惑星が徐々に冷え、外側から、ゆっくりと、気体と液体と固体に分かれていきます。
大気に包まれて海があり、その海に包まれて大地がある。大地は堅く殻のようになり、その下にあるマグマを封じます。だけれども、その殻は絶対の強度を持っている訳じゃありませんから、頻繁に、マグマを噴出させてしまいます。
そして、何かの圧力の不均衡。ある一時、その一点に漏れたマグマ塊は、止め処もなく流出を続けてしまったのです。大量に溢れ出たマグマは空気にさらされ、雨に当たり、徐々に熱を失って、やがては固層を形成します。
とても広い大地。つまりは“大陸”の形成です。
大きく育ったその陸地は、海に囲まれ、浸食され、その境界線において、奇妙な場所を発生させてしまいました。
水素、アンモニア、メタン、水蒸気、リン、イオウ。そういった数々の物質が、電気反応によっって結びつき、アミノ酸を生成します。陸と海との境界線の中で、それらは更にタンパク質にまで育っていきました。
つまりは、生命の誕生です。
もちろん、この誕生をした生命は、D型かL型かのどちらか一方の型のみしか持っていません。そして、これが一カ所で起こったのならば、この惑星上において存在する生命の型は一つだけ、という事になってしまいます。
……ですが、この惑星においては、偶然にも、この現象がほぼ同時に二カ所で起こってしまったのです。
遠く離れた海岸、陸地の反対側と反対側。奇しくも左右対称の場所で…… 鏡像関係にある生命達の誕生です。
それぞれ別の型の生命達は、それぞれの場所で繁殖と衰退、進化の過程をしばらくの間は繰り返しました。そして、海の中でその生存域を徐々に広げていきます。やがて、真核生物を経て動物と植物の違いが現れる段階にまで進化すると、この二つの異なった生命達の生存域は急速に拡大し、頻繁に遭遇するようになってしまいました。
従属栄養生物…… つまり、動物や菌類は当初、自分とは異なった型を持つ生命を捕食しようとしてしまっていましたが、そのタンパク質や糖類はもちろん、活用する事ができません。だから、その作業は当然無駄になってしまいます。この無駄を省く為に、やがて彼らは“型の区別”を識別する機能を得るようになっていきました。
一方、独立栄養生物…… つまり、植物達ですが、彼らにとって異なった型を持つ生命達は、より積極的に“敵”でした。
何故ならば、植物達が栄養やエネルギーを作り出す為に用いる物質には、D型L型の区別がないからです。だから、自分達とは異なった型の生命と物質の“奪い合い”をしなければならなかったのです。もちろん、それは同じ型の生命の間でも言える事でしたが、物質の循環を考える場合、型の違いはより困った事態をもたらすのでした。
物質の循環。
死滅した生命の身体を分解する、分解者の存在によってタンパク質などは、細かく分解をされるのです。それを再度吸収する事によって、植物は更なる繁殖を繰り返します。 ……しかし、周囲に自分とは異なった型を持つ生命のみしか存在しない場合、それが行われない……、 つまり、循環が断たれてしまう。そのままでは、死滅した生命は、いつまでも死滅したままの形で漂う事になってしまうのです。
物質の循環が成立しなければ、生態系は成り立ちません。
これでは、生産者である植物達は生命活動を繰り返す事ができません。都合が悪い。もちろん、独立栄養生物たちにもこの影響は波及をします。彼らにとっても、(それは食料がない事を意味しているのですから)自分達と同じ型を持つ植物が繁殖してくれないのは困った事態であるのです。
これは、『光学異性体』の生命の、それぞれ、お互いがお互いにとってそうなのです。彼らが同じ場所に住むのは、どちらの型の生物群にとっても利点がない。だから、自然と彼らは“棲み分け”を行う道を選択していくようになりました。
D型タンパク質、生物群の生息域。
L型タンパク質、生物群の生息域。
……というように、その生存域を分けたのです。
異型の生物たちが混ざり合っていた混沌の時代から、二つにくっきりと分かれた秩序の時代へ、とそう展開していったのですね。
そして、また状態は原始に戻ったかのように思えました。二つの世界に隔たりが生じてしまった。 ……ですが、しかし、それはそれでも、原始の状態に何もかもが戻ってしまった訳ではなかったのです。そうです。彼らは“異型”の存在を学習していた。更に言うのならば、彼らの世界は完全に隔たりができてしまったのでもなかった。
彼らは同じ惑星で暮らしている。例え、その生存域を分けようとも、『影響の与え合い』は、確実に起こります。
――境界線
それは、その場所ではより顕著でした。
二つの生存域を分ける、境界線。
異型の生物達は、基本的には、それぞれの場所でそれぞれの進化を遂げていきましたが、やがて、その中から変種も現れました。
機能が分化された多細胞生物。
その段階にまで、お互いの生命達は進化に成功をしていました。弱肉強食の食物連鎖、生態系が形成をされ、その中で生物のヒエラルキーもより顕著に生まれると、それぞれの段階での役割も明確に形成されます。その、下層。弱者達。生態系での弱者達の一部は、自分の身を守る為、次第に異型の生物達の生存域へと逃げる手段を執るようになっていったのです。
肉食動物達は、そこに逃げられては深追いができません。何かに危害を加えられる危険はありませんでしたが、食料の少ない場所に飛び込んでいくのには“飢え”というリスクが存在をします。もちろん、弱者達にとってもそれは同様でしたが、プランクトンやゴミなどを摂取できる生物たちならば、他の生存域に入り込んでも、ある程度は、海流がそれらを運んでくれる為、生きていく事ができたのです。
また、植物になると、この現象はより顕著に現れました。
異型の生存域で自分達のみが繁殖をした場合、捕食者がいない為、遮るものなく旺盛に繁殖活動が行える……
先の理屈と矛盾するようですが、周囲に栄養分が既に豊かにある場合、物質の循環がなくても、その栄養分が尽きるまでのしばらくの間は繁殖が可能なのです。そして、繁殖活動を抑える生物の欠如は短期的な繁栄に結びつきます。 ……ただし、もちろん、これは短期間でのみ有利なだけです。やがて、ある程度まで活動領域が拡大すれば負荷を受け、繁殖速度は鈍っていきます。
ただ、そうして異型の生存域内部に発生したコロニーには、やがて他の従属生物達も訪れるようになりました。先に説明した、異型の生存域にまで入り込むもの達の存在もあったからです。時期が経過をすれば、それは普通の生態系と同じモノになりました。
コロニーは、異型の生存域の中に水玉模様で発生します。その幾つものコロニーは、徐々に大きくなっていくと、その過程で結びつき、そして、一つの大きな生存域にまで成長する事もありました。これはお互いの生存域で見られる現象でしたから、生存域の支配が入れ替わる、といった事象でもありました。
もしも、『光学異性体』のそれぞれの型に色を付けてその様を観察したならば、ダイナミックに模様が変化していくように見える事でしょう。
お互いの生存域において、異型の生存域の粒々が発生拡大、結びつき、やがては支配色が全て変わり、落ち着いた時代を迎えてしばらくが過ぎると、またそこに粒々が現れる………、 というように。
そんな現象を繰り返す内、生命の中に、D型とL型の隔たり、それを壊す存在が現れ始めたのです。
例えば、体表面に自分とは異なった型の生命を纏い、それをカモフラージュ…… つまり、防御に用いるといった種が。 身体に毒を持って身を護るのと、似たような発想ですね。もちろん、彼らは生存域の境界線において、威力を発揮する種でした。
やがて、時が経てば、より積極的に協力し合う種も誕生しました。体内に、異型の生命…… (主に細菌類でしたが)を棲まわせ、彼らにそれらを吸収可能な形にしてもらい、異型の栄養素の摂取も可能にするといった種が現れたのです。
(……現実世界の、人間や、他の生物でも、実はこういった事は行われています。腸内細菌や口内細菌と協力し合う事によって、僕らは生活する事ができているのですね)
ただ、それで全ての栄養素を分解吸収できる訳ではありませんから、異なった生存域のみで彼らは生息し続ける事はできませんでした。やはり彼らも、その境界線において、威力を発揮する種だったのです。
さて。
その内に、生命達はやがては陸上に進出するようになりました。まず、始めは植物達。もちろん、細菌類も。続いて、無脊椎動物。やがては、脊椎動物たちもそこに加わります。
そして、海中と同じように、生存域を別にして繁殖をし、それぞれで生態系を形成するようになりました。ただ、陸の生態系は海中のそれとは事情が少しばかり異なります。海中の場合は、“海流”という要素がありましたが、陸にはそれがありません。だから、生存域と生存域を隔てる境界線は、陸上ではより強固になってしまったのです。海中ほどには生存域の変遷は見られませんでした。
しかし、変遷が激しくないからこそ、その境界線において、型の隔たりを超えた生物達の存在も手伝って、異なった二つの生存域が混じり合った生態系が広く構築されるようになっていったのです。やがて、空を長距離飛ぶ種が誕生をし、それらが珍しくなくなると、その混じり合いは、境界線以外の場所でも起こるようになっていきました。
もちろん、空を飛ぶ種が、種や細菌などを遠くへ運んでくれるからです。
生命は、それからも更に進化を繰り返します。様々な隆盛を体験し、「社会」を持った種が高度に発達をしていくと、やがて知的生命体が誕生をするまでに至りました。
“ヒト”
と、便宜上、ここで彼らの事をそう呼びましょう。
D型L型。時期に少々の差はあったものの、それぞれの型で、その“ヒト”は誕生をしました。
………そして、それは、幸運な事でもあり、同時に不幸な事でもあったのです。
D型、L型の“ヒト”達は、その黎明期においては、ぶつかり合う事はありませんでした。
まだ、ほとんど接触する機会がなかったのです。また、例え接触したとしても、同じ食べ物を奪い合う訳でもない彼らの間で、争い事は起こりませんでした。稀に接触する事があっても、それは単なる珍しい体験でしかなく、まるで妖怪か何かのような存在として捉えられるのみでした。
しかし、やがて彼らの文化が発展をし、農耕や畜産を行うようになると、その状態に変化がありました。
彼らの社会が巨大になってくると、当然、農地の確保の為に“土地”が必要になって来てしまいます。そして“土地”は、彼らの間で共通に“欲しいもの”であったのです。だから、そこに争いが生じました。それは、互いの生態系が混ざり合った場所で、より顕著に起こりました。
彼らは言語を持ちます。だから、争いあう経緯の中で彼らは“会話”の手段を得るようになっていきました。
そして、彼らはお互いを、『デグド』と『ドグデ』と呼ぶようになったのです。
デグドとドグデ、彼らは長きの歴史の中でほとんど常に争い合いました。混じり合った生態系。“土地”の奪い合いが続きます。どちらか一方が負け、混じり合った場所から、追いやられる事もありました。例えば、ドグデが負け、『ドグデだけの森』へ追いやられる、といった事だとか。もちろん、時には停戦や、話し合いで、無事に問題が解決する事もありましたが、基本的にはこの二つは憎しみ合っていました。
しかし、
その中で、少しずつですが文化の交流も起こりました。先にも述べましたが、体内に異型の細菌を棲まわせる事によって化学反応させ、限定された種類ならば、異型の栄養素の摂取も可能だったからです。また、自分達にとっては何でもない食物、或いは毒になる食物でも、相手にとってみれば薬になるといったモノもありました。それで、互いが必要なものを交換するといった事も行われ出したのです。
つまりは“貿易”の誕生です。
どちらかが、どちらかを支配する、といった事ももちろん起こりました。
ドグデ人が、デグド人を支配し、奴隷として扱う……
奴隷の数が少量の場合は、それが悲劇をもたらす事は少なかったのですが、これが大規模になると、悲惨な事態が度々起こりました。
もちろん、食糧不足です。
奴隷が少ない場合は、異型の地でも、なんとか食糧を確保する事ができたのです。むしろ、同じ食糧を共有していないのですから、奪われる事も少なく、調達は容易でした。ですが、それが大人数になれば、話が違います。異型の地で、大量の食糧を手に入れる事は至極困難だったのです。
ドグデ人に奴隷として捕らえられたデグド人…… ドグデの土地に連れて行かれ、無理矢理に働かされる。しかし、その土地にもデグドの生き物たちはわずかばかりには存在している…… それらを食糧として、生きていく事ができた。しかし、奴隷の数が多くなれば、その事情は違ってくる。わずかばかりの食糧では不足する。“飢え”が彼らを襲い、それは反乱に至る事もあったが、その怒りの矛先が自分達自身に向かう事もあった。つまり、その少ない食糧を巡っての奪い合いが、奴隷同士の間で起こったのだ。
これは、ドグデ人がデグド人を奴隷にする場合でも起こりましたし、デグド人がドグデ人を奴隷にする場合でも起こりました。そして、もちろん、こんな悲惨な事態は互いにとって望ましくありません。ですから、互いに協定を結んで、『食糧の確保が充分でない場合の奴隷の禁止』をルールとしたりしました。
やがて、時代は流れ、更に社会は進歩をします。互いにとって戦争には利点がないことを悟ると、少しずつですが、戦争は少なくなっていきました。また、社会が進歩をしていけば、食糧以外でも貿易によって交換できるモノは増えていきます。そして、その中には、自分達では生産できず、相手には生産できるモノの存在もあったのです。
デグド人の持つ機械を生産する技術を、ドグデ人達は持っていなかった。また、ドグデの土地で手にいれる事のできるエネルギー源となる物質を、デグド人たちは産出する事ができなかった。
そして、それらはお互いにとって必要なものでもあった。
彼らは足りないものを、貿易によって互いに交換し合い、互いの欠点を補い合った。
嘗ての発想では、お互いに“奪う”という行為によってそれを為そうとしていた。しかし“協力し合い”によっても、それと同様の… 否、或いはそれ以上の効果を得る事ができるのを思い知ったからだった。
……それは、『経済』というものの一つの正体であるのかもしれません。
その“協力し合い”の関係が進展をすれば、より複雑に、密接に二つは結びつくようになっていきました。互いが互いを、必要とするようになっていったからです。その流れの中で、当然、ますます争い事は減っていきました。
互いが互いを必要とする。
それは、一つの主体になる… 同じ存在になる事を意味してもいました。
二つのものが混じり合い、反発と同化の混沌を繰り返しながら、徐々に徐々に、一つの主体になっていく……
世界は一つに…… (陳腐な理想、と笑われるかもしれません。しかし、それはある側面では真実であるのかもしれないのです)
相手の存在を許容する為には、自分を否定しなければならない。相手と自分とでは違っている部分がある。それは“他者”であるのならば、当たり前の事です。そして、その異なっている“他者”を許容するというのは、ある意味では自分自身を傷つけるという事であるのかもしれません。だから、人はそれを拒絶しようとします。
……でも。
惑星 デグド・ドグデ
二つの世界は、そうして結びつく事ができたのです。
(ぼくは、これを“希望”であると、そう仮定します)