ただの女子高生
「ただいまー」
手術を終わらせた俺は、颯太にそれを報告した後、陽がまだ沈み切っていない時間帯に家に帰ってきていた。
ただいまと言ったはものの、返事はない。
要するに、今家には誰もいないということだ。
まあ、緋色は塾だし、陽和は図書館で調べ物をすると事前に聞いている。
だが、アキは何も言っていなかったので居ると思ったのだが……。
「……って、それは俺の思い上がりか」
アキだって一人でいたい時間ぐらいあるだろう。
常に俺の家にいると思うのはあまり良くない。
「とりま、疲れたし寝よ」
俺はそう呟いて部屋に入る。
そして、入って最初に目に入ったのは我が愛しきベッド!
おお、寂しくなかったか?よし、飛び込んでやるからしっかり受け止めろ!
そう思いながらベッドに近づくと、ベッドの上にあった布団から手が——!
「ぎゃあああああああああああ!!」
「きゃあああああああああああ!!」
ぎゃあああああ………って、あれ、今の悲鳴、聞き覚えがあるような……。
俺は恐る恐るベッドの上の布団をめくり返すと、そこには銀髪を乱しに乱したアキが泣きながら膝を抱えて横になっていた。
「……お前何やってんの」
俺がそう問いかけると、アキはビクッと肩を震わせた後、物凄い勢いでこちらに振り向いて抱きついてきた。
「フユく〜ん!驚かせ、ないでよお!うわあああ!!」
「むぐっ!むぐぐ〜!」
解説しよう。
俺は今、息が出来ない代わりに、経験したことのないような快感を味わっている。
具体的には、何がとは言わないが、とても柔らかいモノが俺の顔面全体を包み込み、強く当たっている。
うおおお!息できねえ!だがそれ以上に、これ以上ないほどの悦感!
医者は邪な思考は捨て去らなければいけないが、それを容易く打ち破るほどの破壊力!
ああ、意識が遠のく……。我が人生に、一片の——
「大丈夫ですか!?悲鳴が聞こえ……て……」
俺がまさに昇天しかけていたその時、この光景を一番見てはいけない人物、陽和が俺の部屋へと勢いよく入ってきた。
それに伴い、アキは一気に力が抜けたかのように、俺への柔らかさの暴力を解いた。
うん、このタイミングで解かないで?余計に怪しく見えちゃうよ?
「………」
「………」
「………」
俺の部屋に何十秒もの沈黙が走る。
俺は何となく本能で分かっていた。
ここで俺が喋ったら、社会的に殺されると。
なので俺は、冷や汗をダラダラと垂らしながら陽和がどう出るかをただ待っていた。
「……………はあ」
しばらくすると、陽和が小さくため息をつき、呆れた様子で俺を見た。
「……涼くんの言いたいことは分かりました。先程の絵面から察するに、秋穂さんが涼くんに抱きつき、涼くんはそれに対抗がしきれなかった。というところでしょうか」
「おお、陽和、探偵いけんじゃね?」
「機会があれば考えときます。そしてその反応から見て正解のようですね。まあ、動機は分かりませんが」
なにしろ、メンタリストではないもので、とうっすらと微笑む陽和。
やだ、カッコいい。一生ついていきます陽和様!
俺が心の中で自身の彼女を敬いまくっていると、陽和はそんなことには一切気づかずにアキの方へと向き直る。
「……動機は分かりません。ですが、言及はしません。二度とやらないように」
「…………」
アキはその言葉に対してただ沈黙を貫いていた。
ただ、何か言いたいようで、口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返している。
俺から見てそれは、とても見苦しく見えた。
まるで、反抗期の子供のような、そんな感覚。
通常なら、放っておいてもいいモノだが——。
「何ですか。言いたいことがあるならちゃんと言ってください」
放っておかないのが我らが陽和さんです。
相変わらず容赦ないっすね。
陽和のその追求に身体を一瞬震わせるアキ。
それでも、アキはまだ何も言ってくれない。
「……だんまりですか。つまり貴方は人の恋人に簡単に手を出すような人だと」
「……っ!」
陽和は見下すように言い放った。
おいおい、それは流石に……。
「陽和、それは——」
流石に言い過ぎだ。
そう言おうとしたその瞬間、何かが俺の横を通り過ぎ、数秒後には玄関から誰かが出ていったような音がした。
ふと陽和とアキのいる方を向くと、アキの姿がいなかった。
「いま出てったヤツって、もしかして……アキか?」
「それ以外誰がいるんですか?」
陽和は何の悪気もなさそうに淡々と言う。
陽和は恐らく、浮気が極端に嫌いな人なのだろう。
いや、浮気は皆嫌いなモノだが、陽和は人一倍嫌いなんだと思う。
だとしても、あれは言い過ぎだった。
何たって、非があるのはアキだけじゃない。
欲に負けてしまった俺だって悪いのだ。
全部が全部、アキが悪いわけじゃない。
だから———。
「陽和」
「はい?l
「俺はお前のことが好きだ」
「……へ?」
陽和は呆けたように言う。だが、俺はそれには構わずに続けた。
「だからこそ、お前があそこまでアキに対して怒るのはよく分かる。俺が陽和の立場だったら絶対に陽和と同じことを言う。けど……けど——」
けど、そうだとしても——。
「たとえ酷いことをされても、まずはきちんと話を聞いてあげるのが”一番“なんじゃないか?」
「っ!」
陽和はハッとした表情で俺を見た。
この世にちゃんとした『正解』なんてものはない。
あのときああするのが正解だってのではないかと後悔する者が多いが、もし正解というのを名詞として使うのであれば、そう言ったことは大抵、何万通りもの正解があると言える。
ただ、正解というものは必ず一つだ。だとすると、何万通りの正解は間違っている。
だとすると、一番という単純な言葉が一番成り立ちやすいのだ。
まあ、ただの持論だが。
「いいか陽和。人の心は一文字だろうが二文字だろうが、簡単に壊れる。それを俺たちは糸を紡いでくみたいに繊細に、相手を包み込む必要があるんだ」
「……」
陽和は俺にもう、何も言わなかった。
恐らく分かってくれたのだろう。
さて、それじゃ最後にもう一押ししてあげますかね。
「陽和、もう一つ言わなきゃいけないことがあるんだ」
「……言わなきゃいけないこと?」
俺はこくりと頷くと、それを口にした。
それはあの夜、アキと約束した約束。
それを言い終わった後、陽和はクスリと笑っていた。
「ふふっ、何ですか。その約束」
「だろ?俺も思わずそう言ったよ」
俺も釣られるように笑ってしまった。
ああ、そうだ。
あの時もこんな表情だったっけ。
「……さて、それじゃあ」
「ええ、迎えにいきますね」
お互いに微笑みながらそう言い、陽和は玄関へと向かっていった。
そして、しばらくして、玄関から陽和が出ていった音を聞いた俺は、キッチンでホットミルクでも作っていようとそのままキッチンへと向かった。
52
「寒い……」
猛烈な雪が降る中、私はマンションの近くの公園のベンチに座っていた。
雪は、冷め切った私の心にも容赦無く降り注ぎ、それはまるで私にとっての世の中だった。
寒い。辛い。痛い。
あの人のことを思い出すたびに、それが無限に輪廻する。
ああ、なんて無情な世界のだろう。
もう、私は既にこの世界に悲観しか残っていなかった。
誰か、私の王子様……。
「……助けに来て。私の王子様……」
叶いもしないと分かり切った願いを呟きながらとうとう俯いてしまった。
ああ、寒い。
そう思った次の瞬間、
「王子様ではありませんが、普通の女子高生ならここにいますよ」
その声が聞こえた瞬間、私にずっと降りかかっていた冷たい感覚がなくなった。
ふと、俯いていた顔を上へ向けると——。
「さっきぶりですね。アキさん」
不敵に微笑む栗色の髪をたなびかせた少女、櫻井陽和が傘を私に差し出しながら佇んでいた。




