白い境界線
薄れ行く意識の中、無数の痕跡。アタシは今、宇宙にいる。
星が集まって行き、輝きが一つに。これは幻覚かしら、それとも私の心が移す虚像。太陽、今その近くにいる。その傍らにおいて、繭に包まっている。温かい、アタシの熱がアタシじゃないみたいに熱い。苦しい。アタシはもうここから出られないのだろうか。全てが拡がり、そして一箇所へと集まって行く。さっきから、そればかりが繰り返し続いて行く。
息苦しくなり、アタシは目を覚ました。ここは見知らぬ部屋の中。
夜、部屋の中も窓の外も暗い。アタシ、まだ生きている。けれど、目覚めた時の方が現実味はない。あの時、何もかもが終わってくれれば良かったのに。
この世界で一人ぼっちなのだから、今も昔もこれからも……。
後藤と云う男について、
幼いころから、後藤は母親というものを知らなかった。
小さな弟と一緒だった。父親はいつも不在にしていた。夜に家に戻ってきて
適当に冷蔵庫に食料を詰めていく。出来合いの物だったり、レトルトが多かった。父親はすぐに家を出て行き、朝方になると戻って来て、またすぐに出掛ける。後藤は弟を気に掛けた。自分はどんなに不幸になろうと構わない。
ただ、弟にだけは不自由な暮らしをさせるのが嫌だった。ご飯を食べさせ、いけないことはいけないと教えた。弟はよく泣いた。弟と後藤はよく父親に虐待を受けていた。後藤は強く父親を怨んでいたが、弟はそれでもよく、父親が何処へ行ってしまったのか、後藤に尋ね、それから長い時間泣いていた。二人はいつも一緒に過した。後藤は弟を守れるのは自分しかいないと思っていた。
だから死ぬほど辛いこと。弟の死は後藤には耐えられるものではなかった。
いつからか、弟は学校から帰ると体に無数のアザを作って来た。どうしたのか弟に尋ねても、ちゃんと答えようとしない。弟は酷いイジメにあっていた。何度か後藤は仕返しに出向いた。しかし、イジメはなくならずエスカレートする一方だった。弟はやせ細っていった。着る服も、遊ぶ金も、ノートを買う金すらない。学校でお金がなくなる度に、後藤と弟は真っ先に疑われた。兄弟は大人からも蔑んだ目で見られていた。弟は14歳の誕生日を迎えた夏。家から近い場所、昔からよく一緒に遊んだ湖の中に進み、帰らなくなった。入水自殺だった。弟は苦しみから逃れられたのか、どちらにせよ、後藤はそこで感情と云うものを失った。それと同時に育った家を離れ、一人で生きて行くことを選んだ。
葦島について、
後藤が撃たれた七ヶ月後。
頭の望月が殺された。何者かに自宅マンションにて蜂の巣にされたらしい。
そして、後釜についたのは、後藤だった。俺たちの上に立ったという訳だが、
ほとんど、本部の山崎と供に動いているらしく、滅多にお目に掛かることはない存在になってしまった。望月の死が引き金になり、あちこちで内部抗争が起き始めた。望月の息の掛かったものは次々に殺されていった。一体何が起こっているのか。
そして、今夜俺は後藤に呼び出されていた。とある高級ホテルの一室だ。
ひょっとしたら俺も消されるのかも知れないな。後藤の秘密を俺は知っている。それは、後藤が犯した組織への裏切り行為。消されるくらいなら刺し違る覚悟だ。
指定されたナンバーのルームに入ると、後藤はすでにそこにいた。
「久しぶりだな」後藤はそう云うと薄暗い部屋の中、グラスに何かを注いで飲んでいた。
「ずいぶん偉くなったもんだよな」俺はそう云うとビルの最上階のスウィートルームの信じられないくらい深く沈むソファーにその身を任せた。
「これくらい、始まったばかりだよ」と後藤は云う。
「用件はなんだ」俺は単刀直入に尋ねた。
「例の件は誰にも話していないぜ」
「ああ、知っている。それとあの件では色々と世話になった。とても感謝している。そして、あの時云ったことを忘れてはいないんだ。借りは返すってね。」
「驚いた。俺を消すつもりではないのか。頭がやられたのもお前の差し金ではないのか」
後藤は黙っている。
「望月か、ヤツは古い人間だった。いずれは誰かに落とされていたよ。早いか遅いかだけの話だ」後藤はそう云うと、ガラスで出来たやけに長いテーブルにグラスを置き、続けた。
「お前の望みは何だ、金か?地位か?」
俺は、少し呼吸を整えてから、そこに置いてある新しいグラスと、ボトルに入っている酒をもらう。随分濃い酒だが、全然酔う気はしなかった。
「俺の望みは一つだけさ」
「何だ?」
「ボスの命。あいつを殺したい」
「………」
「っと云ったら、やっぱり俺を消すかい?」
「この世界にいたら、人に命を狙われることは、ざらにあるな。だから驚きもしないが、またやっかいな望みだな」
「つまらねぇ、ささいな理由。まあ私事の話だ。ヤツを消さないと気がすまない事情がある」
「………」
「俺みたいな下っ端じゃあ、顔すらも知らねえ。何とかならないか」
「………一度だけチャンスをやろう。ボスの居場所は分からないが、
定期的に顔を出す場所がある。それは、静岡の方にある港に、クルージングをする為に利用しているらしいのだが、おそらくその日であろうという日を掴んである。それは山崎がケータリングを依頼していたことから推測出来るのだが、
ボスの護衛がどれ程いるのか、果たして本当に現れるのか、確証は出来ない。
ただ、日にちと場所だけ提供しよう。」
「充分だ」俺はただちに準備に飛んだ。
再び、後藤と云う男について、
後藤は組織に属すようになっていたが、そこに至るまでは特殊なケースだった。後藤はとある高級クラブのボーイをしていた。
そこで、客として来ていた男にえらく気に入られてスカウトされた。
その客がボスだった。ボスは山崎ともう一人の男、望月を連れていた。
ボスたちはバックヤードまで入り込み、クラブのママに気にいった女を持ち帰りたいと提案した。店のナンバー1の女だった。ママは金をいくら積まれようと首を縦に振らなかった。
激高したのは望月で、ママに銃口を突きつけていた。
後藤はこう云った。
「撃つなら俺を撃ちな」三人が後藤に注目した。
事前にママから、この三人がここら一体を取り仕切っていること。
逆らえば、この店などあっという間に無くなってしまうと聞かされていた。
「一つ撃つ前に俺の提案を聞いてくれないか、一つ賭けをしないか?次にこの店に来た奴が、もし
ネクタイを締めたサラリーマンであった場合、ここは堅気の遊び場だ。あんたらは何も云わずに帰ってくれないか。そして、もし次にこの店に入って来る奴が女であったり、男でもネクタイを締めていなければ、俺を撃って女を連れていけばいい」後藤はそう云い放った後も、動じている様子は微塵もなかった。
望月が云う「そんな提案に乗るわけねぇーだろ」そう云うと銃口を後藤の眉間にくっつけて、死ねと云う。
「待て、望月」山崎が止めて云う。
「おい、小僧。この次に入る者がネクタイを締めている確率なのだが、これは極めて低い。なぜなら、フロアの客だが、こんな高い店に通えるサラリーマンなどいるものか、ほとんどがネクタイを締めていない者ばかりではないか」
「そうだ。だからいい提案だろ?」後藤は言い切る。
「ボス、こいつの提案に乗ってみたく思うのですが、もしネクタイをしてないものなら、無償で女が手に入るそうです」山崎はそうボスに投げ掛ける。
ボスは静かに頷いた。
次に入って来た者はネクタイを締めたサラリーマンだった。
「お引取り願おう」後藤は勝利した。
望月は納得していない様子でいる。山崎の方は深く考え込んでいる様子だった。しかし、ボスは云った。
「一度決めたことは守る。それを破ると云うことは死ぬことより恥ずかしい行為だ。俺は確かに頷いた。つまり賭けを認めたということだ」
そう云って彼らは去って行った。それから数日後、山崎から連絡が有り、ボスの
直属護衛を頼まれるようになる。もちろん報酬は法外な額だった。
ボスは組織のトップにいるが、組織とは表向きは関わらない。顔を知っているものはごく少数だ。
後藤は何故ネクタイ姿が来ることを云い当てられたのか、もちろん後藤に物事を預言する力などない。ただ、頭を働かせただけだ。普段、後藤たちは道でキャッチをしている者と、店内のホールの者でやりとり用に無線のトランシーバー、インカムという物を使っている。それを使って下の者にずっと聞いておけと伝えておいただけ。下の者が空気を読んでくれるだろうか、後藤には不安はあったが、とにかく後藤が勝ったのだ。
その後、後藤は組織に属するようになったのだが、やることと云えばほとんどが、ボスの車の運転手だとかボスの女の子守だった。女たちはボスの組織での存在を知らない者がほとんどだったが、秘密を知り過ぎた者は往々にして消されて行った。マチルダと始めて会ったとき、大勢いる中の一人だと思っていた。そのうちに消されてしまうのだろうと。マチルダの始めの印象はどこぞのお嬢様だとか、どこか品のようなものを感じられた。話をしてみると印象とは全く違った。マチルダには自分に似て色々なものに対する怒りと妬みが存在
した。マチルダはそうやすやすとは消されなかった。マチルダには普通の者にはない力があった。ボスもそれを認めていた。後藤はマチルダにいっぱい手を焼かされたが、その分長い時間を共有することになった。ボスは月の半分を海外で過ごす。大概にして後藤とマチルダを連れていった。後藤はいろんな国の朝の光景を見て過ごすのが好きだった。自分が如何に小さい世界で生きていたのかと云うことを思い知らされた。
再び、葦島について、
後藤とのやり取りの一週間後。
静かな夜の海だ。港には何艘もの船が浮かべられている。まるでこれから成仏して天に召されていく魂のように、揺ら揺らと所在なさげに揺れていた。
情報通りの船に潜り込み、船内を詮索する。厳重に警戒されていると思っていたが監視は全くいなかった。というより人の気配すら感じられなかった。
船内には明かりがついていて、操縦席の他に部屋がいくつか別れていた。
一番奥深くまで進むと恐らく一番大きい部屋があると思われるドアを開けてみた。
そこにいたのは山崎と後藤だった。二人は驚いた様子が無かった。
俺はごくりと唾を飲み込み、その状況を理解しようとしたが意味は分からなかった。そして何が起きるか分からないと思い、銃を強く握り直した。
「一体何が起きたんだ、あんたら此処で何をやっているんで?」
「葦島。待っていたぞ」後藤はそう云った。
「ボスは何処だ」
山崎はいつも通りのスーツ姿でいて、難しい顔で黙っている。
俺の投げ掛けた問いに答えたのは後藤だった。
「何から話そうか…、結論から云うとボスはいないよ。と云うよりもう存在しないと云った方がいいか…。いや、ボスと呼ばれていた男はもう死んでいる。
まあ、これは事故なんだがね、よくある話さ。そうボスは死んだ。すると組織はどうなってしまう?無くなる?答えは簡単だ、無くならない。ボスなんざ、他の誰かがやればいい。組織はここにいる山崎のお陰ですでに完全なるシステム化されている。金が金を産み、ある一点に貯まる。そう俺たちに入る。
ボスが死んで俺がボスの代わりを引き継いだ。望月は相変わらずごちゃごちゃとうるさかったから、消した。ここにいる山崎が事実上のトップか?いや違う。
山崎は望んでいない。山崎は金を動かすシステムを継続させる。トップは別に必要。それが、山崎が出した結論だそうだ。さあ、ここからがお前に対する提案なのだが………、ボスはお前がやれ」
「はっ!?」俺は後藤の云うことを一つ一つ自分の中に消化していくのに苦労した。
「ボスはもういない?吹かしてんじゃねぇ。信じられるかそんな話」
俺は後藤に銃を突きつけた。
「怨みか、ボスに対する。もうボスはいないし、そんなのはどっちでもいい。
お前がやるのかやらねぇのか、論点はそこ。ハナからお前の私怨など、どうでもいい。俺はもう疲れた。お前がやらないのなら残念だがここでお前を消す。
さあ、どうする?」
そこで山崎が喋り出した。
「ボスと云ってもやることは大したことは無い。実務は全て私が行う。シンボルみたいな物と思って頂いて結構。金は好きなだけ使っていい。ただ少し顔を弄らせてもらうがね」
「葦島、俺はもう疲れた。だから後はお前がやれ」
「後藤よ、借りが返されてねえなぁ、これじゃあよう」
俺は船室の壁を叩いた。
「すまんな葦島。ボスは俺が殺した。一歩この世界に踏み入れた時から、いつでも命を奪われる覚悟をしなければならない。俺じゃなくとも、いづれこうなってたさ。早いか遅いかだけの話。いつ死ぬかなんて、覚悟の上だ。覚悟の上だが………………、……あの女だけは見逃してやって欲しい。半歩、間違って踏み入ってしまっただけなんだ。本当は違う。葦島よ。いつでも俺の命取りに来い。俺はいつ死んだっていい。ただ、あの女だけは見逃してくれ。だから俺はあの女と消えるよ。そう簡単にお前らが届かないとこへね」
「アンタも逃げるのか」
「ああ、逃げる。一つしかねぇ命。使い方は各人の自由って聞くぜ……、……じゃな」
そう云って後藤は去ろうとする。俺は少し迷い、そして云う。
「後藤っ!!!!借りは二つ目だ。借りはきっちり返すのが世間様じゃ礼儀って聞くぜ」
後藤は最後少し微笑んで見せた。俺も後藤も命は長くないのかも知れない。
きっとこの先もこんなことの繰り返しだ。それが分かったから後藤は変わろうとしたのかも知れない。
「山崎、これからは俺がボスだ。後藤は俺たちの頭だったが…、
アイツはここで消した。遺体は魚達が食った。それだけだ」
そしてその後、それっきり後藤の姿を見ることはなかった。
ある日、組織に差出し人不明の大きな箱が送られて来たらしい。
そこには不恰好な南国の果物が敷き詰められていたらしい。
それを俺が見る間もなく、下の者が怪しんで処分したらしい。
どの道食えたもんじゃないだろう。だが、俺はその不恰好な果物が見てみたかった。後悔と云えばそれくらいだ。