狂想のメシア
全身に打ち鳴る耐え難い衝撃——それらは水に沈む感覚と少しだけ似ていた。
吐く息の泡が水面に浮かび、心臓の鼓動がそれに合わせて耳打ちする。
生暖かい血塊に凍りつく手足が呑まれ、撃たれた足首がごぼごぼと白い液体をふんして再生していく。直後、風を切る豪剣が再生したばかりの弱々しい上半身を容赦なく吹き飛ばした。
再生、再生、再生。我等に「死」など存在し得ない。
「——、——っ」
微かに残る手先から、灰色の微粒がまとい命の象徴である脳が造られていく。
それらが化物と呼び戒められたのは今は昔。不死の血族を持つ我等は『クレシア』、そう呼ばれ拝められる。
教会で生まれた赤ん坊は、神父の手により首元をナイフで切られ、クレシアの血筋を持たぬものは路地裏に捨てられる。運良くクレシアに選ばれたものは、十五を迎えると首元に印字を焼かれ、戦場へと送られ一生戦いを強いられた。
「————っ」
打撃にあばらが軋み、肩上の再生に一人遅れをとる。短時間で再生を促したからか、右腕の先はもはや人間とも言えぬ異形に達していた。撃たれた痛みなど、身体を吹き飛ばされた痛みに比べれば怪我のうちにも入らない。床を転げ回っていればいつのまにか“痛み“であることすらも忘れてしまう。
——いつしか戦場は私の生きる糧となり変わってしまった。
常識という縛りから外れたこの世界でも、未だ胸の痛みが私を縛りつけている。
肥大化した腕をさらし、鋭い手先を相手の胸元に突き上げ、頭上から大量の液体をあびる。口角にあふれたその液体を舌で舐めると、花の蜜のような微かに甘い味がした。
泡が割れるかのように簡易に割れたその心臓は、血溜まりの中で微動だにしていない——すでに息絶えている。
「——素晴らしい出来だ、十八番。——む、何故そのような表情をする」
胸元に十字の金塊を差した、白着の女。——否、メシアだ。
「——いえ、私の方からは何も」
「つれないじゃないか。部下の談義の相手をするのも上司の仕事なのだよ」
「怒れる異形巨人に救いの一手を与えただけですよ。——それ以上でも以下でもない」
彼女は長い髪を束ねる糸を柔らかく外し、己の華奢な手のひらに収める。
暖かな温もりを掴む手首に優しく唇をあずけると、キスをした甲に手を重ねた。
「貴様は美しい。故に幸福を知らぬのだな」
血生臭い手のひらを撫でつけるように、彼女は己の指をからめ云う。
「私は——」
喉の奥が微かに鳴った。
「——私は、メシアが嫌いです」
「あぁ」
「大切な友人の命を奪った、メシアが憎いです。多分、世界で一番」
私の言葉を心待ちにしていたかのように、彼女は襟を立てて口角を吊り上げた。
「——あぁ、知っているぞ」
彼女の強く跳ねる声に、下唇を強く噛む。
ふと、空からの轟音に彼女の声がかき消された。十字の金塊が貼り付けられたクレシアの救助船。血生臭い爪の先に詰まった硝子片を床に叩きつけると、くるくるとまとわりつく黒片に両腕をからめ上空に引き上げられる。
——今日の任務が、終わった。
*
メシアの最優秀教育班の一員であり、訓練学校を首席で卒業したいわゆる秀才、ヴィアニス・クローデット。彼女がクレシアでないことを、私だけが知っている。
当時路地裏に捨てられていた彼女を拾い育てたのが、メシアの長である『マザー』。そのマザーこそが、一般人を残酷に戦場へと引き入れた張本人である。
何の力を持たない者は、異形の喰い物とされた。罪のない者が沢山身体を裂かれるのを幼い私は目の前で見せ物にされ続け、腕に、腹に、胸に、突き上げる異形の化物を目に焼けつけさせた。
そこで治癒能力に目覚めたのが、彼女——ヴィアニスだ。
彼女は唇を重ね息を吹き込むことで能力を発揮する。故に、何度も私は彼女と唇を重ね続けた。成長するごとに大きくなる感情に、重ねた手のひらに、微かな想いを乗せて馳せる。
血の匂いが、胸の鼓動を想起させるかのように胸を高鳴らせ、彼女への想いを微かな嫌悪感と共にうえつけた。
「——十八番、目覚めたか」
馬乗りになる小柄なヴィアニスが顔を覗かせる。
顔を顰め、彼女の肩を押してしぶしぶと身体を起こした。
「えぇ。誰かが話しかけたせいで重傷は負いましたがね」
「——っ、すまない。彼等に次の手はないと完全に油断していたがための失態だ。上司として、謝らなければならない」
彼女は、腰を下げて頭を垂れた。
その様子に私はため息をつき、指先で空中を切る。
「ヴィアニス上官、貴女も人を従える御身分にふさわしくなりましたね」
「君にそれを言われると、なんともむず痒いな」
「上官、貴女は——」
そこまで言うと、思わず口を噤んだ。囁くように、自分の物言いを復唱する。
噛みちぎった下唇の皮が、喉元に絡まった。
「貴女は、人を好くことがあるのですか」
淡々とした物言いに、ヴィアニスが首を傾ける。
「何故」
「私が知りたいのです。何故貴女が皆平等に治癒を受けさせているのかを」
「——」
生きとし生ける命もあれば、落とされていく哀れな命もある。それらにはそれぞれ順番付けられた価値が存在した。初めこそは皆平等であるが、生きる功績によってそれらは違える。
訴えける声は、叫び声は、彼等の内側で全てが異なるのだから。
「皆平等に大切、だからかな」
息が詰まる。言葉が、続かない。
気がつくと、私は上官の胸ぐらを強く握っていた。
感情が高ぶり、それに耐えきれず吠える声は震える。
「大切な人が死んだ時も、貴女はそうやって皆のせいにするのですか」
「——」
心拍が早まるのを感じる。胸ぐらから、右腕を伝って布越しに体温が熱くなる。
色白な彼女の肌が青白く染まり、色素の薄い瞳は驚いたように瞳孔が細まった。
「貴女は、誰も愛さない。故に、一人の少女でさえも救えない。そうでしょう? ヴィアニス上官」
声は重苦しく、憎念さえ湧き出るほどに。
「十八番、お前は一つ間違っているぞ」
「——っ、何が…」
「私は、誰も愛せない。愛というものを、知らない。故、皆を救うために戦うのだ。戦いの中で生まれる愛しさをそう呼ぶのなら、それが私にとって愛と呼ぶに同然だ」
微笑と共に告げられた言葉に、息を呑む。
愛し合う故に戦うのではなく、戦う故に愛すると——。
彼女の背を見つめ惚けるように息を吐くと、自然と頬の力が抜けた。
私は何欲しさに今まで戦っていたのだろう。愛や勇士などという形なき物に甘えて、唯、ヴィアニス——彼女に愛されたいがために。
長く艶やかな黒髪、白く美しいなでやかな肌、この世の全てを見切ったかのような閉じ込んだ蒼青の瞳。それらは全て戦いのために向けられた道具だとしたら——あまりに残酷すぎる。
美しい相貌に見合わない長剣と、相応の覚悟を背負って、彼女は今日も戦場に立つ。
それがあまりに哀れなことだとしても、私は彼女の覚悟を呑み込んで、彼女と同じ戦場で唇を重ねなければならない。
愛する者から向けられた鋭角に、黒色の双眸が凶悪に染まるのを感じた。
私はベッドの横に倒されたままの長剣を抜き扉を開く。
今宵、メシアに巨大な異形が襲いに来ることなど知らずに。
*
——満月の宵、緋色の剣と大量の血塊が交わされることとなった。
美しく並べられた床石が血に汚れ、赤黒い擦り跡が街の方まで続いている。
「——十八番、起きなさい」
暁を拝める刻となるまでたった一人で戦場にいた私は、夢を見た。
ヴィアニスに抱かれながら朝日を迎える、幸せな夢を。
時計の秒針が、薄暗く光る。まだ、宵は明けていないのだろうか。
「——ヴィアニス上官」
「あぁ」
疲れ切った瞳で、彼女のぼやけた輪郭をなぞる。
「——何故人は人を愛しく思うのでしょうか」
眼球の裏から、熱が溢れる。
暁に照らされて、頬が白く光った。
「私には分かりません。分かりません——」
涙を拭くこともせずに、溢れた液体が血塊を流しあふれる。
言葉を失ったヴィアニスの方に触れると、弱々しい吐息が混ざった。
昏睡状態にある身体を無理に起こし、下唇を噛み切ることで意識を続かせる。こほ、と手のひらに血液を吐き出させ、服の袖を乱雑に赤紅色に染めた。
彼女は治癒を試みない——否、手遅れであることを悟ったのだろう。白く美しい頬が暁に染まり、不様に戦死してゆく己の姿を瞳にうつした。
「——敵対し、戦をし、我等は共に戦う皆を愛する」
無感情に揺れる瞳に、暁が差し込む。
あふれんばかりの光が、彼女の泥から生でた双眸を優しく包みこんだ。
「家人に向ける愛しさと、仲間に向ける信頼、愛する人に向けた渾身の愛情、敵対する故に生でる愛。その全てを失ってなお、私は無性に人を愛する。その見返りが明日でも、来年でも来世でも、私は君と剣を組み交わしたい」
「——えぇ。上官」
血濡れた指先を彼女の頬に這わせ、口角を引き上げる。
死を拝むことのない我等の、最後の絶頂だった。
「私は貴女を愛しています。無性に続く愛ではない、期限のある儚くも短い愛です。故に私は、相応の——私の生涯をかけます」
かつての友は言った。我等一族にも終わりが来るのだと。いつか来たるその刻に愛する者を護り死に行くのが我等クレシアの唯一の幸福であると。
——護り征く覚悟はあるか?
あぁ、あるさ。十分すぎるほどに。
震える関節を押さえつけ、溢れ出る液体に目もくれず私は立った。
視界がちらつく。暴れ狂う異形の巨人を前に、私は両腕を広げ歯を食いしばる。
刹那、異形と化した腕先が己の心臓を突き上げた。
「——あぁぁ、ぁアア」
喉の奥からまろび出る叫びに抗い、猟犬のように吠え鳴らす。
肉をさらした胸元は、再生を試みない。遠くにあった意識は、血塊の果てに落ちてゆく。血が散り、肉が爆ぜ、脳細胞が死を示唆する。それでもなお、異形の攻撃は止まらない。
死の残党がこの場から消え去るとき、彼女の冷えた手が私の身体に触れた。
もはや痛みを感じない身体は、その冷たさに眼球を上に向け瞼を閉じる。治癒能力はもはや効き目を示さない。それ故彼女は血に汚れた唇に己の唇を重ねた。
「——私も貴女を愛している、十八番。——いや、リナリア」
凍えた身体をほうむいて、彼女は、私の腰と膝の裏に手を回し抱きかかえる。
朝日が差す街は、以前の面影があまり残ってはいない。それでも彼女は歩みを進めた。
足取りは軽やかではない。空いた身体を抱えながら、唯ゆっくりと一歩をつむぎ出す。
「行きましょう——」
呟く口元は涙で濡れ、舌で舐めそれをごまかす。
朝日に輝く目元は光に溢れていて、拳で頬を拭うと赤く跡を残した。
某日——ヴィアニス・クローデットは己のために歩き出した。