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Moratorium  作者: ちか
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五話





 千寿が再び早朝に桐枝の部屋から出てくる姿を目撃され、校内は雰囲気を変えた。

 猫と鼠が仲良く喧嘩する様子を眺めるような気持ちで桐枝と千寿を見ていた生徒たちが、その眼差しを僅かに眇め始めたのだ。

 閉鎖空間における娯楽。

 手が届かなくて、でも本当は届くところにいる、絶妙な存在。

 誰にとっても特別で、けれども誰かが特別なわけではない。

 都合のいい存在といえばそれまでとは、誰もが分かっていることだろう。

 だが、期限付きであることが、余計に拍車をかける。

 学園を卒業すれば、なかったことになるという暗黙の了解が背中を押してしまう。

 それは、よくよく見れば千寿が桐枝との距離を変えたことにも気づかぬほど、対応できぬほどの盲目さと速度で以って転がり出すのだ。


「どうしてですか?」

「なにがかしらー?」


 問われた内容を訊き返しながらも、千寿は問いを寄越した生徒に興味などは持っていない。

 手にクリームを擦り込む様子から、言われずとも分かることであった。


「会長は委員長と……委員長で遊ぶのが好きなだけだと思っていました。それは、ぼくだけではないでしょう。大半の生徒がそのように認識しています。だからこそ、どうしてですか?」

「そのどうしてっていうのは、なににかかっているわけ?」


 艶々とした手を目の前へかざして確認する千寿に、彼の親衛隊に属する生徒はいっそ冷淡な声で答えた。


「どうしてぼくたちを裏切るのですか?」


 千寿は失笑する。


「裏切る? 裏切るとは大きく出たわね! アンタ、アタシになにを期待したっていうの? アタシがいつその期待に応えるっていったの? 馬鹿も休みやすみ言いなさいよ!」

「会長が誰かを特別扱いするなんておかしいじゃないですかッ」


 冷たいながらも単調な話し方をしていた生徒が荒げた声に、千寿の唇が歪む。

 日直である千寿は勿論、彼を待っていた生徒以外に教室へ残るものはいないけれど、校内に残っている生徒は多くはないが少なくもないだろう。

 つまらない話を始めて欲しくない、と千寿は尊大な調子で腕を組んで机の上に座った。


「アンタの言う特別ってなに? アタシがアイツの部屋へ泊まったこと? 確かにアタシが誰かの部屋へ、なんてアイツ以外にはないでしょうよ。でも、誰かがアタシの部屋へ泊まったのなんて数えきれないほどあることじゃない。アイツがアタシの部屋へ泊まると思うの? それでアタシが出向いたから特別? 笑わせるんじゃないわよ。そんなもの、どこにもない!」


 嘲りすら見せる千寿に気圧されたように後ずさりした生徒が、噛んだ唇を解いて歪な笑みを見せる。


「では、会長にとっては委員長も学園のなかだけの存在なんですね。いまを楽しむだけの玩具なんですね」

「……品性を疑う質問だこと」


 吐き捨てる千寿を気にもせず、生徒は安堵にも似た気持ちを胸に満たしてほっと息を吐いていた。




「会長と喧嘩でもしたか」


 校内で起きた騒ぎをまとめた書類とともに大鳥から投げ渡された問いは、桐枝にとって両眉を上げる程度には意図を掴みかねるものであった。

 ツーカーの精度に問題が生じたわけではないだろう。

 単純に、大鳥が踏み込んでくる話題であるとは思わなかったのだ。


「似たようなもんなら日常的にしてるじゃねえか。主にあいつがろくでもないせいで」

「分かっていてはぐらかすのは時間の無駄だ。二度目の朝帰りからこちら、避けられているだろう」

「……喧嘩じゃねえさ」


 桐枝は床を蹴って机から椅子を離すと、そのまま無意味に回転させて僅かな遠心力を楽しむ。

 こども染みた動作に大鳥が呆れているのには気づいているが、なんとなく遠心力が余計なものを振り落としてくれるような気がして回転を強める足が止まらない。


「俺のスタンスはなんら変わっちゃいねえが……」

「話す気があるなら回転を止めろ。聞き取り難い」


 桐枝は渋々足ブレーキをかける。ぴったりと膝を合わせて横へ足を流すというエレガントな姿勢になってしまった。


「俺からあいつへの接し方というものの根本は、なんら変わっちゃいねえんだよ。あいつがやらかしゃ俺は叱るし、あいつが大人しくしてりゃ放っておく」

「そして、会長が物言いたげに裾を引っ張ってきたら振り向いてやる、と」


 実に日本人らしい曖昧な笑顔になる桐枝は、いつだって千寿が自分に向けてきたものに相応しい態度で接してきた。

 それは勢いのまま打ち返すだけではなくて、相手の期待をそっと汲んでやるのにも似たやさしさ混じりの誠実さであり、また桐枝自身の感情を曖昧に見せる不誠実でもあった。


「会長が嫌いか?」

「それこそ分かりきった答えじゃねえの? 仕事増やされて面倒臭えは面倒臭えと思うがな」

「今だけだろう?」


 学園を卒業すれば失われるなにもかもと思えば、許せてしまうもの、正面から受け取らずにいられるものがある。

 けれど、桐枝は少しだけ眉を寄せてから「いや……」と言葉を濁した。


「そうだな、確かに委員長のスタンスは変わっていないようだ」

「通じすぎってのも困りもんだな」


 答えを出すより早く結論に行き着く大鳥に、桐枝は落ち着かなさから足を組み替える。

 僅かな揺れにきい、と軋んだ音を立てる椅子は、桐枝が卒業した後に新しく交換されるのかもしれない。


「どうするんだ?」

「何事もなく卒業するさ」

「会長はどうするんだろうな」

「何事もなく卒業するんだろう」


 刻んだ時間は正しく何事もなかったように一新される。

 それが、桃城学園の常であった。




 自分と他人の区別がつかないものは愚かだけれど、自分と他人の共通項に目を向けることができないこともまた愚かなのだ。


「もうすぐ卒業ですね。ぼくたちとしては最後まで楽しみたいんですよ、この限られた時間を。なので、あんまりはみ出したことをされると嬉しくないなって思ってたんですけど、会長に伺ったら安心できました。

 会長は会長のままなんにも変わっていないんです。委員長は会長にとっていまこの時にだけ遊べる限定品みたいなもので、偶々ぼくたちとは違う仕掛けのある玩具だから目を惹いているに過ぎないんですよ。会長にとっては等しくその他大勢なんです。

 これで安心して今までどおり会長と委員長の鬼ごっをしているような姿を見ていられます。

 卒業式ではなにかするんですか? 最後の最後で大きな花火とか上がっちゃうのかな。楽しみですね。楽しませてください。

 だって、ぼくたちには今しかないんですから」


 芸のないことに校舎裏で喧嘩をしていた連中をまとめて捌いて、さあ校舎へ戻ろうと歩いていた桐枝は、ふらりと目の前に現れるなりべらべらと喋り出した生徒に引いた。

 風紀委員会なんてものに属していると校内の揉め事には大抵引っ張りだされ、なかにはこの手の「妄想型」とも「自己完結型」ともいえる相手と相対しなくてはならないこともあるのだが、経験を重ねたところで歓迎できるはずもない。

 生徒が話すごとに桐枝は彼から心の距離をどんどん広げていくのだが、それでも冷静であれと努めて内容を整理していく内に彼が生徒会長親衛隊の過激派であることを察して益々心の距離が開いていって、なんとか穏便にお引き取り願うべく苦行めいた時間に堪える。

 過激派はなるべくお触りしないほうがいいのだ。

 正論も道理も時に容赦なく振り捨てる過激派とまともに相対すれば、どれだけ勝利をもぎとろうとも疲労感から割に合わないと感じてしまうのが定石である。


「会長も仰っていましたから、委員長も勘違いしないでくださいね。ちゃんと、今までどおりのままでいて、卒業しましょうよ。それが、みんなのためなんですから」


 にこにこと笑顔で言う生徒はそれでようやく満足したのか、くるりと桐枝に背を向けて歩き出す。

 桐枝は重苦しい気持ちをそのまま吐き出してやりたくなったが、受け取る宛もないためつっかえそうになりながら飲み下すより他にない。


(ぼくたち、みんな……嫌な言葉だ)


 この国にはもう少し全体主義を改めるべき部分があるのではないだろうか。少なくとも、誰に許可や統計をとったわけでもないのに代表者を気取るのはやめるべきだ。

 なによりも、と桐枝は嫌悪に染まった顔で去りゆく生徒の背中を眇めた目で見つめる。


「どうしてあいつにはその『今』を許してやらないんだよ」


 生徒の足が止まる。

 ゆっくりと振り返った顔には笑みの名残もなく、若干色をなくした無表情であった。

 胃が重くなりそうな生徒の表情に目を逸らすこともせず、桐枝はさらに続ける。


「なんであいつは『今』を楽しんじゃならねえんだ?」

「……会長は既に好きなように生きているじゃないですか。最初から、そうだったでしょう? ぼくたちは会長になにも制限なんてしていません。変なことを言うのはよしてください」


 分からない、分かりたくないという様子を滲ませながら平坦な声で応える生徒に、桐枝は今度こそはっきりと顔を顰めた。

 生徒は桐枝の表情こそ心外だとばかりの様子で続ける。


「許される範囲と許されない範囲があるっていうのはぼくたちだって分かってます。会長の『あれ』は許容範囲内ですか? だとすれば、相当寛容な家ですよ。逸脱しているとしたら、会長はそこまで厳しく言われるほど目を向けられていない……どちらにしろ、あのひとはかなり身軽なはずだ。ぼくたちとは違う。

 ああ……それは委員長にも言えますね。あなたと会長の鬼ごっこを見るのは好きですけど、あなたの正しさには時々うんざりしますよ。なんで平気なんですか? 束の間であることが逆に堪えられないからですか? それとも、委員長も先のことなんて気にしなくていいほど、緩いお家で育ったんですか……」


 最後には確かな憎悪を滲ませて、生徒は深呼吸をした。

 眼差しに険を宿らせながら、表情だけはなんとか笑みを取り繕った生徒は今度こそ桐枝に背を向ける。

 桐枝はもう生徒の背中に言葉をかけようとは思わなかった。なにを言ったところで届くとは思わなかったし、最早届けたい言葉すらも存在しない。

 舌の一つも打ちたくなりながら、桐枝は生徒が歩いていった方向とは別の道を選んで歩き出す。

 たとえ、校舎に入るための遠回りだとしても構わなかった。




 校舎裏を歩く桐枝の姿を、校舎の窓から千寿がじっと見つめる。

 先日、自身のもとへもやってきた生徒となにか話していたようだが、その内容まで聞き取れたわけではない。けれど、何を話していたかを察するのは易い。

 酷く気分を害した様子の桐枝に手を伸ばすよう窓へ触れかけ、千寿の手はぴたりと止まる。

 磨かれた窓に、ショーケースに触れてはいけません。

 よみがえる声と、手の甲へぴしゃりと打ち据えられた竹定規の痛み。

 千寿を縛るもの。

 震える唇と瞼をきつく閉ざし、千寿はそっと窓から一歩後ずさってそのまま背を向けた。




 最後の最後まで、青春の一滴を絞り尽くすように門を出る直前までそう「在る」と思われていた千寿が、誰よりも早く卒業への「準備」を始めた。

 肌寒い日に羽織っていたレースで縁取られた薄衣のストールはただのニットカーディガンへ変わり、爪化粧がなくなった爪は短いまま。

 言葉遣いも気づかない内に変わって、ふとすれば「オネエ」と呼ばれるようなところがとんと見当たらなくなっている。

 なによりも顕著なのは、校内で千寿を中心とした騒ぎがぱたりと行われなくなったことだろう。

「寂しいですね」などと言ったのは風紀委員の誰であっただろうか。桐枝は「馬鹿が」と一言おいて、相手にデコピンを見舞った。

 大鳥に避けられている、と指摘されてから数日までは徐々に、と言える程度であった千寿の距離を置く段階速度。

 まさか、前触れもなく「風紀委員長」と「生徒会長」の関係のみを強いられることになるとは、と桐枝は千寿に呆れる。


「いや……元から、か」


 風紀委員長と生徒会長以外の関係を桐枝と千寿が結んだことは、きっとなかった。

 友人ではなかったし、だからと言ってただの他人でもなかった。

 接点多い肩書き持ち同士で括ればなるほど、その関係より先にも後にもふたりは並び合いなどしていない。

 肩書きを持つより以前のことを思い返しても今と……少し前と変わらないのであれば、最終到着点は同じことだ。

 ならば、と呟き、桐枝はお手本通りの微笑を浮かべ、様子を変えたことについて訊ねる周囲に書いていた筋を通すような説明をする千寿を遠目に見遣る。


「心底から貫いてみろよ、このド下手糞」


 仕方のないものを見るように眉を下げた笑みをひとつ浮かべるも、桐枝は着信を告げる携帯電話に表示された実家の番号を見て顔つきを硬質なものへと変えて、その場を離れた。




 主不在の委員会室で、シュンシュンと音を立てながら石油ストーブの上に置かれた薬缶が湯気を立てている。

 大鳥の淹れた梅昆布茶を啜る香月は、残念ながら絵になるとは言いがたい。これが紅茶や珈琲であれば問題なかったであろうが、灰釉薬を塗られてざらついた表面の大振りな湯のみは香月が持つには渋すぎた。

 されど、当人にこだわりはないらしく、香ばしくも梅の香り漂う湯のみへ息を吹きかけながら指先を温めるように湯のみを持っている。


「これで終わりというのは、意外な結末です」

「委員長と会長か?」

「他に誰がいるんですか」

「生憎とお前とはツーカーの仲になった覚えがない」


 香月が失笑した。


「あなたと委員長がそうだから、会長が嫉妬したんですよ」

「まさか、最初の朝帰りの件じゃないだろうな」

「そうだと言ったら? あのひとが爪に施していた化粧って存外時間と手間がかかるんですよ? それを、たったいち日……いや、ひと晩ですか。そのために落として、健気なことです」

「俺は市販のままかり煎餅を出しただけなんだがな……」

「ままかり煎餅は口実ですよ。で、委員長とツーカーのあなたはどうお考えですか?」


 結末へ既に至ったのか否か。

 香月の笑みに大鳥は露骨なほど顔を顰める。

 桐枝と千寿の関係に強い関心を持ち、まるで見守っているかのような体でいた香月であるが、その実は千寿への哀れみでしかない。

 千寿の好き勝手が奴隷の幸せ染みたものであることを知っているのは、桐枝に限った話ではないのだ。

 籠の中で幾ら飛び回ったところで、羽は傷ついていくだけ。

 香月はぼろぼろの自分を取り繕って学園の門を出て行くであろう千寿をとても、とても可哀想に思っている。

 哀れんで、幸いが降ればいいのにね、と他人事として願いながら見つめていた。

 悪趣味な男だと言いたいけれど、態々言ってやるほど大鳥は親切ではない。

 まして、卒業が近いのだ。

 香月の悪趣味もまた桃城学園のなかに限ったものであるならば、自分に関係ない限り黙認してやるくらい大鳥にはどうということもなかった。


「……終わりじゃないさ」

「そうなんですか?」


 香月の意外そうな顔に残念だという色がないことだけが、彼の悪趣味に悪意がない証だ。

 大鳥は繰り返す。


「終わりじゃない。まだ、まだ続く。続けるつもりだ、あいつは。あの、奇妙な律義者は」


 意味が分からないと香月は表情にも言葉にもするけれど、大鳥は説明してやろうとはしなかった。

 ただ、ツーカーの関係に慣れると、多くを語るのが面倒になってしまうものだ、と苦笑を浮かべるだけ。

 もっとも、大鳥は卒業後であっても、概ねこの面倒さに振り回されることはないのだが。

 換気のために薄っすら開けていた窓から風が吹き込んだ。

 ひゅるりと大鳥の項を撫でた風はそのまま壁へかけてあったカレンダーをも巻き上げ、何気なく注目した大鳥と香月の目に赤い丸で印付けされた日付までの時間を知らせる。


「もうすぐですね」

「あっという間だな」

「それでも、終わらないというんですね」

「だからこそ、終わらないんだ」

「楽しみに、というのは不謹慎ですか?」

「何処ぞの過激派どもよりはまともだろう」


 比べる対象が酷いですね、と呟いてから香月は湯のみから立ち上る湯気が目にでも沁みたのか、不意に滲んだ瞼を閉ざした。


「……そうなれば、私はようやく会長を、あのひとをなんの色眼鏡もなく見て、接することができるようになるのかもしれません」


 束の間の自由はなんのためにあったのだろう。

 少なくとも、香月が望んでいたものは、この学園のなかだからこそ得ることはできなかった。

 それが我儘だと、自分勝手だと知るからこそ、香月は大鳥の言葉に否定など返さない。

 大鳥も自罰する香月にそれ以上の言葉を重ねない。

 いよいよぽんぽんに沸いている薬缶のもとへ向かった大鳥は、持ち上げたときの軽さに思わず呟く。


「ああ、蒸発するところだった」

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