四話
自分に向けられる視線と、交わされる潜めた声によるうわさ話に気づかぬ桐枝ではない。
千寿が泊まっていった朝の出来事が随分と不愉快な方向で関心を買ってしまったようだ、と桐枝は胸が塞がるような重苦しい思いをため息へと変えて吐き出す。
視線を廊下の隅へと向ければ、桐枝を見て会話していた数人の生徒が蜘蛛の子散らすようにさっといなくなり、桐枝は思わず「根性ねえな」と呟く。
ちらちらと視線を向けてはひそひそと話をするという、気づいてしまえばいっそ虐めだろうかとすら感じられる周囲の態度は当然ながら向けられて気分の好いものではないため、桐枝の機嫌は下降の一途を辿った。
なにより、最ももの申し候いたいのは内容である。
「ねえ、桐枝。アタシ知らなかったわ。アタシたちって随分と熱い夜を過ごしていたし、アタシはアンタから熱烈に愛されていたのね……自分が鈍いだなんて思ったことはないけど、全っ然気づかなかったわあー」
放課後、委員会室を目指して廊下を歩く桐枝の後ろには、はふん、と熱のこもったため息を吐く馬鹿野郎もとい千寿。
ご自慢の顔面中央へ拳をめり込ませられたらどれだけ気分がスッとするだろうかと思うものの、この堪え性が利かなかったが故の現状と思えば桐枝の拳は指先が動くだけで握られることすらない。
衝動だけで動き続けられるほど、この学園において風紀委員長の肩書きは軽いものではなかった。
十代の双肩に見合った重責であるのかと問われれば、桐枝も含めて誰も黙して語らないけれど。
千寿は桐枝が意図して無反応を選んだことにつまらなさそうな顔をした。
噂やそれがもたらす今後の弊害を察せぬほどお粗末な頭をしているわけではないだろうに、千寿は快楽主義の嫌いが過ぎる、と桐枝は眉間を寄せながら視線を斜め下へと落とす。
窓から入り込む夕日が、落とした視線の先にある影のひとつが動かなくなったことを桐枝に教えた。
一秒分の距離を置き、二つの影がその場から動かなくなる。
「ねえ」
桐枝の背中へかけられる千寿の声。
落ち葉を重ねるのにも似た、乾いて寂しい音をしているように聞こえたのは、いよいよ自分の耳が腐ったせいなのかと桐枝は我が身を嘆いた。
そんな桐枝は千寿が僅かに笑う気配を感じて、立ち止まってしまったことを心底後悔する。
今からでも遅くない、と歩き出そうとした桐枝であるが、桐枝が足を出すよりも千寿が口を開くほうが何倍も早い。
千寿は「ねえ、桐枝」と呼びかけて、今度は間も置かぬままに続ける。
「そんなにアタシが嫌い?」
僅かに振り返った先で、立ち止まったままであろう体勢の千寿がいっそ不思議そうに首を傾げ、答えぬ桐枝を急かすようにもう一度「ねえ」と促した。
答えることは、きっと難しいことではないのだ。
けれど、答えられるからといって、答えたいとは限らない。
桐枝は自身を窺う千寿を真っ向から見つめ返して淡々と逆に問い返した。
「そうだって言ったとして、いまのお前のなかに響くもんがあんのか?」
千寿が固まった。
人間の我と己は自他が思う以上に頑なだ。
外界からの影響で違う人間になったかのように見えたとしても、それらはただ方針を、視点を、やり方を変えただけに過ぎない。
千寿の問いに桐枝が答えて、千寿の言動に変化があったとしても、千寿という人間の内には些かの変わりもない。
なればこそ、この問答に意味はなく、桐枝が肯定しても否定しても同じことだ。
桐枝は千寿から視線を外して、また歩き出す。
千寿の手が僅かに浮いて自身に向かって伸びたことには気づいていたけれど、結局は中途半端な位置で静止した手に桐枝は立ち止まらなかった。
千寿の嫌いな物の一つに、定規がある。
背筋をしゃんと伸ばしなさい。
少しでも背中を丸めようものなら、すぐに襟から鯨尺を突っ込まれた。
恥ずかしくないように行儀よくしなさい。
こどものすること、で許される特権を千寿が得たことはなく、みっともない真似をすればばしばしと竹定規で叩かれた。
定規のように真っ直ぐ立って、真っ直ぐな道を歩きなさい。
できなければ、などという質問は恐ろしくて飲み込んだ。
はい、と返事をして、指を突いて頭を下げて承知して、千寿は果ての見えない遠い先に本当の真っ直ぐなどないのだと内心で屁理屈をこねる。船の帆を例えに地球が丸いことを説明したものは優秀だ。
千寿にとって、桃城学園に入れられたことは幸いであった。
いや、不幸だったのかもしれない。
誰もが学園内のことは学園内のみのこと、と承知している閉鎖空間故に、千寿が家のものに知られれば鯨尺による容赦ない打擲では済まない奔放さで振る舞っても帰省の際には口を噤んで話さない。
ひょっとすれば卒業生である父は学園の風習を知っていたかもしれない。
仕事を中心に生活する父は家のこと、千寿のことを母と祖母に任せた結果、彼女たちが千寿にどういう教育方針を持っているかだけは把握しているようであるから、彼女たちの勧める学校ではなく自身の母校へ千寿を入れたのがなけなしの父親心と言われれば理解できなくはなかった。
束の間の自由に千寿は羽目を外したけれど、聡明さを失ったわけではない彼はすぐに気づいてしまう。
高等部を卒業した先の何年、何十年は無理やり箱に詰められ形成されるような息もできないほどの窮屈さに満ちているのだと。
両手を広げる開放感を知らなければ、膝を抱えている不自由さに実感などなかったはずだ。
人間の平均寿命の内のたった数年だけが、千寿に許された雅洒髑髏千寿自身のための時間であった。
まして、その時間を与えられたのは後の人生に多大な影響を及ぼすであろう年代であり、振り返っては眩しさに目を焼かれるようになる己が千寿には簡単に想像できた。
嫌だった。
嫌悪で胸が塞がってしまい、呼吸もままならない。
けれど、だからといって限られた時間をその後に備えて再び縮こまって過ごそうなどとはとても思えず、千寿の振る舞いは箍が外れかける。
なにもできなくなる前になんでもしてやろう。
なにをしても、なにを言っても許されるような自分というものを千寿は学園内で位置づける。
思い通りになる周囲と笑って、無闇に尽くしてくれる周囲に笑って、己の想像の域を出ない周囲に笑顔さえも強張りそうになったとき、いっそ後ろから蹴り飛ばす勢いで制止したのは、藤樫桐枝という……言ってしまえば後々の大きな面倒のために目の前の面倒を背負い込んで苦労しそうな同級生であった。
千寿だから、で周囲が許す間違いに、桐枝は真っ向から異を唱える。
それは正論で、潔いまでに整然としていて、愚かしいまでに真っ直ぐで、なのに言い放つ本人は苦々しそうで。
なんで自分がこんなことをやらなければならないんだとでも言いたげな顔をするくせに、千寿の奔放さを咎めることに遠慮はない。
思い通りになりすぎて、僥倖という予想外など望むべくもない千寿の前に現れた桐枝が嬉しかった。
千寿が望まれる通りの真面目な振る舞いをすれば、桐枝はさっさと千寿の前からいなくなるだろう。
だから、目の前を蝶々のように舞って、蜂のようにちくっと刺してちょっかい出して、魚を咥えた猫のように逃げ出した。
そうすると、桐枝は千寿を捕まえて説教して一通りの罰を与えるまでは決して諦めず妥協せず追いかけてくれる。
千寿には放置が一番堪えるのだと分かっているくせに、初めて千寿に異を唱えたときから桐枝はそれができない。
いや、しないのかもしれない。千寿も加減を計っていたし、なによりもそれが桐枝の性分なのだ。
痛い思いをしたくない。我慢なんてしたくない。
桐枝にちょっかいを出したからといって捕まりたくないから叱られるようなことだけをして千寿は逃げ出すのだけれど、桐枝は千寿が絶対に捕まらない、見つからないと思ってもどういうわけだか千寿に追いつく。
それが楽しい、これが嬉しい、ずっと続いてほしい鬼ごっこ。
なのに、この鬼ごっこだって高等部を卒業すれば終わってしまうのだ。
カレンダーに残された日付を見て覚えた恐怖。
恐怖だ。
嫌悪ではなく、恐怖が千寿を包んだのだ。
千寿は、窮屈さや不自由さよりも、桐枝との鬼ごっこが終わってしまうことのほうが恐ろしくなっていた。
卒業式に学園の門を通り抜けてしまえば、もう昨日とは同じ顔で会うことができない生徒たち。
各々の道を各々に課せられた荷を背負って散り散りに去っていく。
隣にいたひとはいなくなる。
交わした会話さえも違ったものを交わしたのだと暗黙の内にすり替える。
理由もなく触れたくなった額の感触すらなくなってしまう。
千寿はそんな今更過ぎることを、それこそ今更強くつよく理解してしまったのだ。
自分を追いかける足音も、制止をかける怒声も、捕まえようと伸ばされる手も、間もなく失われる。
咄嗟に去りゆく背中を捕まえようとした手が届くことは、なくなってしまう。
「なんで、もっと早く気づけなかったの……っ」
気づいていたって、桐枝との関係になにが変わったとも分からない。
――そうだって言ったとして、お前のなかに響くもんがあんのか?
千寿の往く道は変わらない。変われない。
だけれど、と千寿は喘ぐように求める。
千寿は永遠が欲しかった。
果てしない箱詰めの窮屈さに届かぬ永遠の「いま」が欲しかった。
なのに、「いま」の千寿にはそんなものが欲しくない。
一瞬でいい。
その一瞬だけを手にできるのであれば、多くの生徒たちが分かっていながら手を伸ばし、門を出て行ったように、千寿もそれだけを抱いて何十年を生きていける。
千寿は、桐枝の特別が欲しかった。
今日は何処で何をしようか。
遊び場所を求めて校内をふらつく千寿は何の気なしに覗き込んだ図書室で思わぬものを目撃する。
「風紀委員長の看板は下ろしたのかしらー?」
黙々と書架を整頓していた桐枝は振り向くなり嫌そうな顔をした。
千寿もやらかし始めるからにはなるべくひとがいないほうが好ましい時間を狙っているため、図書室に桐枝がいたのは予想外なものの彼以外に生徒の気配はない。
きょろり、と見渡したところ司書や図書委員の姿もなく、千寿は言葉もなく訊ねるような視線を桐枝へと向ける。
「……司書が腰いわして、当番の図書委員はその付き添い。通りがかった俺が仕事任された」
「……逆じゃない?」
そこは桐枝が付き添いをして図書委員が本来の仕事をするべきではないのだろうか。
千寿の尤もな言葉にしかし、桐枝はひく、と顔を引き攣らせる。
とん、と存外丁寧な仕草で持っていた数冊の本を置くと、桐枝はすたすたと早足に千寿との距離を詰めた。
詰められた距離は目前と言ってもいいほどで、自身を覆う桐枝の影に千寿は心持ち仰け反って圧迫感を逃そうとする。
だが、桐枝は千寿の頭をがっしりと鷲掴みすることで逃げることを阻んだ。
「いだだだだっ、まだっ、まだなにもしていないアタシになんて仕打ちをするのよっ」
「お前が常日頃からやらかすから俺はいま図書委員の真似事してんだよ。俺がなんて言ってこの仕事押し付けられたか教えてやろうか?
『この時間帯は会長が顔を出すことが何度かあるので、どうせなら委員長がお願いします』だとよ!
ちったあ自重してくれねえかなあ、ええ? おい、この糞馬鹿会長!!」
「いだだだだだだだだ! 力っ、力込めないで! 頭割れちゃう!!」
「ろくなこと考えねえ頭なんざこのまま割れちまえっ」
桐枝は最後にスパンッと小気味良く頭を叩いて、ようやく千寿を解放した。
未だにじんじんと痛みを訴える頭を抱えながら、千寿は恨みがましい視線を桐枝に送ってしまう。
確かに今日もなにかやらかす隙はあるかと図書室へやってきたが、流石に蔵書を傷つけるような真似をするほど千寿は愚かではない。勉強に集中したい生徒がいるならば自重とてしなくもないのだ。
「図書室はお前の遊び場じゃねえ……なにが悲しくて高三の野郎にこんな台詞を……」
嘆かわしいとばかりの桐枝に千寿は常ならば尖らせて拗ねた顔になる唇を、きゅ、と噛んで桐枝から目を逸らした。
高等部三年生であることは嫌になるくらい分かっている。
だからこそ、言ってほしくない。
「アタシには此処以外遊び場なんてないのよ」
「そいつぁ迷惑な話だな。風紀にしょっ引くか?」
投げやりに言われ、千寿は自分でも驚くほどカチンときた。
「桐枝のバーカッ! あなただけ、とか言って擦り寄る女と結婚した後に六股発覚して自分と血の繋がっていない子ども押し付けられて別の男のところに逃げられればいいのよ!!」
「吠え台詞が悪質過ぎんぞ!!!」
「うるせーわよ、バーカバーカ!」
図書室を飛び出して、廊下を走るなという張り紙の前を千寿は全力疾走で駆け抜ける。
何も知らないくせに、だとか、自分の気持ちなど分からない、なんて言うつもりはない。
ただ、腹が立つのだ。
腹が立って仕方がないのだ。
千寿に逃げられたら追いかけるのが常の桐枝であるが、今回の千寿はやらかす前であるし、桐枝にはまだ図書室での仕事が終わっていない。
舌打ちしながら見送った背中は随分と怒りを湛えていたような気がするので、絶対になにか面倒なことが起きる、と桐枝は手に取るように分かる千寿の思考に今からうんざりしてしまう。
「あいつは八つ当たりが得意だからな……」
学園での奔放な振る舞いもそうだ。
悔いがないように、だとか、自由気ままに、というより、桐枝には千寿がやりきれなさを当たり散らしているように見えることがある。そして、それが間違った意見だと思わない。
そんな様で将来大丈夫なのか、と柄にもなく千寿の心配をしてしまいたくなるが、そんな気持ちはいち日を終えて寮へ戻ったときに吹っ飛んだ。
「おかえりなさい、アナタ。ご飯にする? お風呂にする? それともア・タ・シ?」
一定の年齢を超えれば多くの女も苦痛を感じるほどのレース、フリル、ピンク、ファンシーが桐枝の部屋に暴虐の限りを尽くしていた。
その暴力を指揮したであろう犯人は訊ねるまでもなく、桐枝に向かってとち狂った新婚さん定番台詞を頬染めながら口走る千寿だろう。
頭の使い方はともかく作りは悪くないと思っていた千寿であるが、実は張りぼてで中身が空っぽだったのかもしれない。
千寿は丈がぎりっぎりのフリルエプロンを生装備していた。計算されきった持ち方のお玉がもう心底腹立たしい。
「おい、糞馬鹿野郎」
「語彙が貧困よ、ハニー。アタシのことはスーパーダーリンって呼んでちょうだい」
「世間様が思い描くスーパーダーリンとお前の姿は間違っても重ならねえよ。正直数多の罵倒が頭を駆け巡って処理落ちしそうだが、この問題だけは最優先で解決すんぞ。
どうやってこの部屋に入った?」
寮の部屋は管理人であっても緊急時以外に無断で入ることはできず、それが生徒となれば緊急時であっても単独で周囲の確認もなく入室などできようはずもない。千寿は確かに生徒会長であるが、それは生徒の私生活を脅かしていいことにはならず、またそんな権限とて彼は有していないのだ。
千寿は桐枝の詰問に、魔法の杖であるかのようにお玉を振りながら「ポケットを叩けば鍵がひとつ」とエプロンのポケットを探りだす。
取り出されたのは一本の鍵。
「前に泊めてくれたときに合鍵作っちゃった」
「……俺が持ってるもんは失くなってなかったし、もう一つは管理人室で保管されてんだぞ」
「やっだー! 出入りでその日も使うものを持ち出すわけないじゃなーい。んふ、鍵番号覚えるくらいわけないのよー?」
桐枝は怒るより早くドン引きした。
「お前、ストーカーの才能あんじゃねえの……」
千寿は怒りも拗ねもせずにお玉で口元を隠し、色気があるというには寂しげな笑みを覆う。
「やーね、追いかけるのは桐枝の役でしょ?」
合鍵複製の衝撃は、桐枝から帰れ帰らないの問答をする気力を根こそぎ奪った。
現在、桐枝の前にはこれだけは、と生装備エプロンをやめさせた千寿がシャツとジーパン姿で桐枝にご飯をよそっている。
桐枝がご丁寧にも用意していた夕食は女が好みそうというか、自己満足で作りそうなやたらと洒落たものだ。今回は積極的に桐枝の神経を弦代わりに演奏でもする気らしい。もちろん、音色は桐枝の唸り声や怒声である。
「牛蒡のムースでしょー、トマトにきのこと卵を閉じ込めたカップスープでしょー、鶏肉のチーズとパン粉をまぶした香草焼きでしょー。あ、デザートには餃子の皮で作ったスイーツピザがあるわよ!」
「あ、そう」
食べれば美味しいのだろうが、目の前に並ぶ料理はまるで気分が盛り上がらない。男などこんなものである。桐枝はご飯に乗っけてがつがつ食べて美味しいおかずが一番好きだ。
同じ男である以上、自身とて対して変わらないだろうにどれだけ桐枝に嫌がらせをしたかったのか、千寿は一々語尾にハートでもつきそうなほど甘ったるい声で説明したあと、桐枝にほかほかのご飯が盛られた茶碗を渡す。茶碗すらも普段使っているものではなく、新たに用意された夫婦茶碗にすり替えられていた。桐枝が妻仕様である。まことに遺憾。
「お前、そんなに俺が嫌いか」
箸を持ちながら投げやりな調子で言う桐枝に、千寿はぴくりと眉を動かした。
同じく箸をとって俯きがちだった顔を上げた千寿は、ひやりとした眼差しで桐枝を見ながらうっそりと笑う。
「――そうだと言ったとして、それでアンタのなかになにか響くのかしらあ?」
桐枝の手が止まる。
「…………悪かった」
「え……」
囁き、桐枝は箸を置くと手を伸ばして千寿の手首に触れた。
大げさに震えたあとは一切の動きを止めて硬直する千寿をじっと見つめ、桐枝は僅かに眉を寄せた。
常日頃やらかす千寿を追いかけるときだって眉間には深い皺が刻まれているけれど、そのときの桐枝といまの桐枝はまったく違う表情をしている。
千寿はきゅ、と唇を結んで桐枝を凝視した。
こんな申し訳ないような表情をする桐枝なんて見たことがない。
そりゃ、学園長の胸像前にM字開脚状でマネキンの足を配置したり、トイレの一部水道の勢いを跳ね上げたり、陰険教師のデスクの鍵にガムを詰めたり、長期休みで学園を一時去るときは必ず蟷螂の卵を何処かしらに仕込んで行ったりする千寿が桐枝の申し訳ないという顔を見る機会などあるわけがない。あったとしてもそれは間違いなく千寿に向けられたものではないだろう。
しかし、現在はどうだろうか。
桐枝の目は真っ直ぐに千寿へと向けられ、千寿が呆然とするあまり視線を外さないものだから困った色さえ帯びた表情をしているではないか。
困るのを通り越して怒り心頭に発して生ける仁王像と化した桐枝など珍しくもないほど見てきた千寿にとって、こんなにも生々しく人間らしい桐枝は貴重であった。
「悪かったよ、千寿」
「え、いま、な、なまえ……」
桐枝が千寿を呼ぶときは常に「雅洒髑髏」か「おい」「お前」「糞」であったはずで、名前など呼ばれた覚えは千寿にない。
手首に触れていた桐枝の手がそっと移動していくのに、千寿はとうとう箸を落とした。
「許してくれるか?」
「ゆ、るすもなにも……べ、べつに気にしてなんかいないしっ?」
「気にしていない?」
桐枝に指を緩く握られた手だけは石のように動かないのに、千寿の空いているほうの手は痙攣でも起こしているのかというほど震えている。
「そうよっ、全然気にしてないわよ! オーホホホ! アタシがアンタの言葉一つでどうこうなるわけないじゃない!!」
「そうか、ならこの話は終わりでいいな。あんまり俺に八つ当たりするなよ」
「は……」
あっさりと引かれる桐枝の手は箸を持ち直し、牛蒡のムースを「ポテトサラダのほうが馴染みあるな」などと言いながら器用に掬っている。箸で全てを食べる質らしい。
千寿は桐枝を三秒ほど見つめ、自身の手に視線を落として二秒ほど見つめ、ぶるっぶる震えだした。
「どうした」
「っどうした、ですってえっ?」
「気にしてないんだろ」
「それはっ、くっ、この……!」
行き場のない感情に歯ぎしりする千寿に向かい、桐枝は牛蒡のムースをそっと押しやる。
「ほら、飯食えよ」
「アタシが作ったのよ!!!」
「そうだな、美味いぞ」
ぱくぱくと口を動かして、それから千寿はため息と同時に脱力した。
億劫さすら窺える重たい手つきで箸を拾い、流しへ洗いに行く千寿の背中に桐枝の声がかかる。
「ついでに茶も頼むわ」
「茶柱気管に入って窒息でもしたらあッ?」
「そうなったら泣くじゃねえか」
「なんで泣くのよ、アタシは泣かないわよ! 泣くもんですか、バーカッバァーカッッ!!」
「いや、気管詰まらせたら普通に涙出てくるだろ」
千寿は声にならない奇声を上げた。
「もういい、もういいわ……藤樫桐枝、覚悟なさい。この雅洒髑髏千寿様が本気で相手をしてあげようじゃない……!」
洗った箸を脇に丁寧に茶葉を温めた急須のなかで蒸らしながら、このままで済ますかと千寿は堅く誓う。
どうせ否が応でも泊まるつもりなのだろうと敢えてなにも言わずに千寿と並んで風呂へ向かい、それはそれは平和にいち日の汗を流した桐枝は、案の定自身の部屋へは向かわず風呂から桐枝の部屋まで戻ってきた千寿に半眼となる。
「……朝飯はこの前みたいなのにしろよ」
「亭主関白気取ってんじゃねーわよ」
間髪を入れず脛を蹴る足が飛んできた。
これが頼んでもいないのに部屋まで押しかけてきて夕食を作り、いまも泊まる気満々の相手の態度である。
「……押しかけ女房かよっ!」
「あ゛?」
なんか言ったかとばかりに凄む千寿に「こわ」と短く呟いた桐枝はそっと距離をとった。何故、自分の部屋へ押しかけてきた相手にこんな思いをしなければならないのか。やはり千寿はろくでもない。
だが、桐枝も認めるろくでもないの塊本領発揮はこの程度ではなかった。
会話をすればまたしても神経を三味線にされることが分かりきっているので早々に寝ようとファンシーナイズされたことにもう諦めたベッドへ視線を向けた桐枝は、普段愛用しているそばがら枕に代わる枕の存在感に立ち尽くす。
「おい、おい、雅洒髑髏」
「もう千寿って呼んでくれないの? つれない子ね、ハニー」
「あの枕はどういうつもりだ」
「イエスヘイカモン枕がどうかしたかしら?」
イエス・ノー枕であれば悲しいことに千寿が持ち込んだせいでよく知っているけれど、イエスヘイカモン枕なんぞというジョークにもならない欠陥品は「どうかしたか?」と問われるまでもなく「どうかしている」としか言いようがない。
愛しのそばがら枕を何処へやったのかと千寿へ詰め寄るべく、振り返ろうとした桐枝は想定した以上に近くへ立っていた千寿に驚き、一瞬だけ動きを止める。
その一瞬を千寿は見逃さない。
「ドルァッ!!!」
「ヘブロンっ」
胸ぐら掴んでベッドへ叩き落とすように投げてくる千寿の雄々しさに、桐枝は一瞬聖地が見えた。
軋むスプリングに押し出された呼気が埋もれ、咳き込む桐枝を無情にも千寿が乱暴にひっくり返す。
ずん、と腹へ伸し掛かる高三男子の同級生。
「どけっ、デブ!!」
「ぶっ殺されたいのかしらぁッ?」
なんなんだ、なにがしたいんだ。
そんな気持ちで千寿を睨みあげた桐枝は、彼がぎらぎらとケダモノのような目をしていることに真顔となった。
今更、ほんとうに今更思い出したが、雅洒髑髏千寿という男はとてもモテる。
そのモテ方というべきか、群がってきた周囲への接し方は自棄染みたものを感じるけれど、千寿が一夜の祭をわっしょいわっせろいした回数は一度や二度ではないだろうことを校内の風紀事情に誰よりも通じる桐枝は知識の上で知っていた。
そんな千寿が自分をベッドへ投げ倒して伸し掛かっているという現状。
「……まあ、待て。落ち着こうぜ。冷静に話し合おう」
「そう言って問答無用って切り捨てられたひとがいたわねー」
「なにが目的だ?」
「ぶち犯すのが目的かしら」
「……チェンジで」
そっと両手の平を向ければ、千寿の口元が盛大に引き攣った。
ガッと鷲掴みにされた綿の寝間着、釦と生地とが悲鳴を上げて泣き別れ。
「助けて風紀委員! あ、俺が委員長だった!」
「オーホッホッホ! 助けは来ないのよおおおっ?」
「なんだお前、なにがどうしてこうなったっ? とうとう頭がいったのかっ?」
「そうかもしれないわねえ? まあ、でもそんなのアンタには瑣末なことよ。ほらほら天国見せてあげるから大人しく、し、な、さ、い、よ……!」
「幾ら寝技がお前のお得意だろうと単純な力じゃ俺のほうが勝ってんだよおおおおお!!」
「そぉいっ」という掛け声ひとつ、形勢逆転、体勢も逆転。
桐枝が上で、千寿が下に。
意味としてはあまり変わっていないことに桐枝が気づくより早く、千寿の足が素早く桐枝の腰をがっちりと挟んだ。両腕も背中へ回り、勢い良く引き下げるものだから桐枝は咄嗟に千寿の顔の横へ両手を突いて堪えた。いつかの床ドン再来である。
「うふふふ、アタシのホームで勝とうとか百万年早いんじゃなくってー?」
「てめっ、この……っ」
「オーホッホッホッホ、焦った桐枝の顔とか愉快だわー。とっても素敵、キッスしてあげる」
ぐっと寄ってきた顔を桐枝は素早く首の動きだけで避ける。
なんと言っても未だに引っ張られ続け、両手は体を支えるのに使っていて下手に動けないのだ。
迫る千寿、避ける桐枝。さながらインコの首振りを思わせるやりとりが続く。
千寿は桐枝が避け続けることに舌を打ち、更に腕の力を込めた。
「ほら、キスよ、キス。キスもできないでその先へ進めるもんですか。キスだけは好きなひとと、とか抜かす援交小娘じゃあるまいし、ほら、早く!」
「その先に進むつもりがねえんだって察してくれねえかなあああああ?」
「男が引いてんじゃねーわよ」
「男だから引いてんだろうが。誰がてめえにケツ明け渡すかっ」
「あら……」
きょとん、とした千寿が次いでにやにやと笑い出す。
ろくでもないことを言う。
間違いなく千寿はろくでもないことを言う。
確信する桐枝は腕が使えたらすぐにでも両耳を塞いでいたことだろう。
「アタシは桐枝にだったらお尻差し出してもよくってよー? ほーら、問題は解決したわ、キスミープリーズその後にラブミープリーズ!!」
ほら、ろくでもないこと言った! と桐枝はぎり、と歯ぎしりをした。
「できるかッ」
「遠慮しなくていいのよ。でもアタシ、生憎と突っ込まれたことないのよね。処女上げるからには責任とりなさいよ、責任。そうと決まればほら、セーックス! セーックス! 性交しろこの野郎!!」
がんがん尻を蹴って急かしてくる千寿の煩さに堪えかね、桐枝は散々抵抗していた体から力を抜く。
驚きと同時に少しだけ開いた千寿の唇に桐枝の唇が殆どぶつかりかけたとき、彼は僅かに体勢をずらした。
「落ち着けよ」
丁度、千寿の耳元へ口を寄せるように頭を伏せて、桐枝は穏やかな声で千寿を宥めた。
「っもうその手はくわな――」
「なにを焦ってんだ、お前は」
強張った千寿の体の上から退こうと動けば、あれほどしがみついていた千寿の手足は力が抜けてベッドへ落ちる。
ゆっくりと見下ろした千寿の顔はいっそ蒼白ですらあり、見開かれた双眸が痛々しかった。
「お前は、なにを、どうしたいんだ?」
揺れた千寿の目。
いつも楽しげな笑みを浮かべる唇にはその名残もなく、しかし閉じ込められた言葉を乗せた舌を確かに一瞬覗かせたのに……
「アタシはアタシのしたいようにしているだけよ。今までを見れば分かるでしょ。もういいわ、興醒めよ」
千寿は瞬きの間に瞼も唇も閉ざして別のものにすり替える。
二秒の沈黙。
桐枝は細く息を吐いて、視線を僅かに逸らす千寿を見下ろしたまま「そうか」とだけ言った。




