二話
なにかと絡んできては面白おかしく自分だけ満足して逃げていく千寿に、桐枝はいつだってむかっ腹を立てている。
散歩をしている犬を塀の上からからかう猫程度ならまだしも、千寿は塀から飛び降りて犬の鼻先に猫パンチを食らわせ再び塀の上へ逃げて笑う猫なのだ。質が悪いったらありゃしない。
だが、噂されるように嫌ってはいないし、厭うてもいない。
千寿が何故、自分にここまで構うのか。桐枝にはその理由が思いつかないわけではなかった。
千寿は自他共に認める美形であり、油断ならない言動やオネエという辺りが閉鎖空間にて彼を独特な位置に置いた。
他者を容赦なく引き込む嵐のようで、目敏く隅々を見渡し突如暗がりにも笑って顔を出し、気づけば影響力はとんでもないことになっている。
千寿が築いた「その発言を許される」「尽くされて当然」の立場に、真っ向から相対したのが桐枝であった。
何を言ったかよりも誰が言ったかを重視して思考停止するもの、千寿が意識するより早く快不快を整理するものが、彼の周囲には多かったように桐枝には映る。
それは千寿が意図したものであっただろうし、同じくらい違算であったのかもしれない。
千寿だから、で全てを許されるような風潮になることを善しとできなかった桐枝は、そうなる前に奔放な彼に正論を突きつけた。
ぽかん、とした顔を覚えている。
次いで、不思議なものを見るように、ゆっくりと首を傾げてわざとらしいくらい長い睫毛に縁取られた瞼をしばたかせていたのも。
なにより、一通り驚いて、桐枝という存在を理解、認識した千寿の浮かべた表情。
とても嬉しそうで、とても楽しそうで――少しだけ寂しそうであった。
お互いが風紀委員長と生徒会長になっても、千寿は桐枝の神経をちょこちょこと刺激することに飽きてくれない。
「ったく、またあいつは騒ぎを起こして」
湯を浴びていち日の疲れを癒やした桐枝は、ぶつぶつと零す。
千寿の起こす騒ぎはひとを傷つけるものではない。
何度も重ねれば「またか」という思いが強い苛立ちと嫌悪を生むけれど、巧妙に計算されたとしか思えない間隔と程度に、桐枝は千寿に対してこっ酷い説教はするけれど匙を投げようとは思わないのだ。
本当に呆れてしまえば、なにか騒ぎを起こされても目の前でため息を吐いて収束に動き、事務的に反省文の提出を命じるだけである。
いいように転がされていると思えば面白くないが、千寿が桐枝にちょっかい出すことに飽きたら飽きたで桐枝の面倒がなくなるわけではない。むしろ、聞く耳を一切持たなくなる分だけ厄介だろう。
今の関係は叱る風紀委員長と騒ぎを起こす生徒会長のものとして、不本意ながら丁度いいと言わざるを得ない。
それが余計に腹立たしい、と眉間にしわを寄せた桐枝が寮にて充てがわれた部屋で唸っていると、不意にノックの音がした。
時計を確認して、さて誰だろうかと不思議に思いつつドアへ向かい、桐枝はノブを回す。
「はい、どちらさ、ま……」
「ハーァイ」
桐枝は開いたドアを即行で閉める。
なにかがいた。
恐る恐るもう一度ドアを今度は薄っすら開いて窺おうとした桐枝は、僅かな隙間を覗き込んだ瞬間に向こう側から見開いた眼球に覗きこまれて声にならない悲鳴を上げる。
尻もちをついてそのまま後ずさると、ドアを開いて聞こえるけらけらという笑い声。
堂々と他人の部屋へ侵入してきた千寿がご機嫌な様子で桐枝を見下ろした。
「そんなに驚くことないじゃなあい」
「お、おまっ……!」
「お尻ぶつけたの? 痛い? 撫でてあげましょうか? 痛いの痛いの飛んで行けー、憎いあいつに飛んで行けーって」
「いらねえよ!」
「あら、残念」
未練たっぷりに下半身を見つめられ、桐枝は即座に立ち上がる。視線一つでセクハラを訴える女の気持ちがよく分かった瞬間であった。
「まだなにもしていないんだから、そんなに警戒することないじゃない」
「これからもしねえよ。いいか、俺は既に風呂入って後は寝るだけなんだよ」
「えっ、お風呂入って寝るだけ……? 桐枝がそんなに積極的でいてくれてたなんて嬉しいわ」
「お前はステータスを顔に割り振りすぎて頭に足りてないみたいだから、いっちょ産道を逆走してやり直してこいよ」
「アタシ、極振りって好きよ?」
噛み合わない。
打ち返せる球しか拾う気のない千寿のせいで、ふたりの会話はいつだって噛み合わない。
悲しいことにこういうことにも慣れてしまっている桐枝は、いつまでもこうしていても仕方ない、と千寿を睨む。
「帰れ」
「いやん」
いつまでも部屋へいられては迷惑だと告げる桐枝に、千寿はぷいっと顔を背けた。
「お前の部屋はここじゃねえだろっ」
「アタシの部屋はアタシの部屋、桐枝の部屋はアタシの別室。よろしくて?」
「よろしいわけあるかッ」
「分かった分かった、桐枝の寝室がアタシの主寝室よ。これでいいでしょ? んもう、仕方ないんだから」
まるで自分が我儘、それもとびきり不本意なものをいったかのような千寿の物言いに、桐枝はとうとう低く叫んだ。
「あら、カリカリきちゃってカルシウム不足? あの中途半端な大鳥と違って、アタシがちゃーんとカルシウム豊富な朝ご飯作ってあげるから、今夜は一緒に寝ましょうね」
「帰れ!!!」
問答は三十分以上続き、このままではくも膜下出血でも起こしかねないと危惧した桐枝により、千寿はとうとう桐枝の部屋へ宿泊する権利を得た。
「叩きだされたいのかてめえ」
早くも疲れきった様子の桐枝を見て、爪化粧を落として家事をするのに問題ない長さに爪を整えた手で羽毛製のイエス・ノー枕を叩いて膨らませていた千寿は「あらん?」と首を傾げた。
「どうしたの、桐枝。元気がないじゃない」
「誰のせいだ」
「誰のせいかしら」
わざとらしくきょろきょろと周囲を見渡す千寿をぶん殴ってやりたい気持ちになりながら、桐枝は必死に自分を抑えつける。
利き手を逆の手で握りしめて「落ち着け」と言い聞かせる桐枝の涙ぐましい努力を、千寿は無慈悲にも「なに? 邪気眼が疼いているの?」と踏み躙り、努力なんてする必要なかったと瞬時に考えを改めた桐枝によって肝臓を狙われた。フラダンスよりもしなやかな腰の動きで避ける。
「分かったわよ! 邪気眼じゃなくて聖気眼だったのね! ごめんあさーせ!!」
「邪気眼でも聖気眼でもねえよ!!」
「じゃあなにっ? 皇気眼だとでもいう気ッ? アンタいつ皇族になったってのよ、烏滸がましい!」
「頼むからもう二酸化炭素吐き出すのやめろっ! ヘリウムガスやるから!!」
三十分ほどで音を上げてしまえば、ひと晩の耐久が待っているという事実に気づかなかった頭の疲労具合に、桐枝はとうとうぐったりと頭を抱えながらソファへ寝転がる。
千寿はソファの下へ敷いてあるラグの上にちょこん、と座り、すっかり黙ってしまった桐枝を覗き込む。その様子はさながら突然電池の切れたおもちゃを不思議そうに見遣るこどもにも似ていた。
「桐枝?」
己を呼ばう千寿の声に、桐枝は応えない。
応えたところで、またろくでもないことしか言わないのは分かりきっていた。
桐枝が応えないものだから、千寿は何度か繰り返し桐枝の名を呼んだ。
その声音は段々不満そうな色を帯びていたけれど、しかし最後には妙に平坦なものへ変わる。
「――桐枝」
「……なんだ」
抑揚も失せたような不気味な響きで名前を紡がれ、桐枝はとうとう応えてしまった。
千寿から顔を背けるように頭を抱えていた腕も外せば、ぱっと輝く笑顔を見せる千寿がいる。
「桐枝、アタシはアンタのこと好きよう?」
唐突な好意表明に桐枝は目を眇めた。
学園には千寿からの好意であればどんなものでも嬉しいと、光栄だと喜ぶ人間がたくさんいるのだろう。
そのたくさんのなかに、桐枝は入らない。
「だから?」
「まあ、酷い!」
よよよ、と明らかな嘘泣きをしてイエス・ノー枕に顔を埋める千寿に、桐枝は白けた視線を向けた。
「アタシはこーんなに桐枝が大好きなのに、桐枝はどうしてアタシのことを邪険にするのかしらー」
立てた膝の上にイエス・ノー枕を起き、頬を乗せた千寿が涙の痕も存在しない目を細めながら呟く。
なにをばかなことを言っているのか、という気持ちをそのまま音にしてやってもよかったのだけれど、答えないという答えはまた面倒な反応をされそうで桐枝にため息を強いる。
「勘違いしてんじゃねえ」
「んー?」
「俺はいつだってお前には相応のもんしか返してねえよ」
わざとらしくはない、まばたき。
数回上下した長い睫毛の向こう、考えるようにぐるりと巡った千寿の目が戻ってきて桐枝に固定された。
「は?」
理解が及ばないという意味を短い音へ凝縮させた千寿に、今度はもう答えてやる気はないと桐枝は鼻を鳴らしてソファから起き上がる。
風呂にも入ってしまったことであるし、今日は片付けるべき課題も残っていない。
ならば、多少は漫画を読んだりアプリゲームをやったりと自分の時間を楽しむのも手であるが、それは千寿がいる限り難しい。
さっさと寝てしまうのが一番である、と結論を出した桐枝はベッドへと向かい、掛け布団をぺらりと捲る。
「……おい、なについてきてんだ」
じっとりとした目つきのまま後ろを振り返った桐枝のすぐそばには、にっこり笑う千寿が立っている。腕にはしっかりイエス・ノー枕を抱えていた。
「だって、ベッド一つしかないんでしょ?」
「ソファ使え」
「やあよ。腰が痛くなっちゃうじゃない!」
「知るか。なっちまえ」
ぺっ、と吐き捨てるが如く言った直後、桐枝は千寿の目が光るのを見た。
「じゃあ、なっちゃう」
胸ぐらをつかまれ、足を払われ、そのままベッドへ押さえつけられるまで正に一瞬の出来事。
桐枝は視界へ笑う千寿と天井を同時に入れて、ようやく事態を把握する。
「お、まっ?」
「腰、痛くなってもいいんでしょー? 風紀委員長様の御言葉に会長甘えちゃあう」
瞬時に最大音量鳴らし始めた警戒音に弾かれるよう、桐枝は腹の上に跨る千寿を払い落とそうとした。
だが、それよりも早く千寿の両手が桐枝の顔の横へ力強く叩きつけられて、跳ねた体が動く機会を逃す。
「ゆ、床ドン……」
「ベッドだけどね。ふふ……ねえ、桐枝」
叩きつけた手でそっと桐枝の頬を包んでくる千寿の手は、指先ばかりが冷たかった。
「好きよ? 好き、好き……好き」
繰り返すごとに震える好意に一瞬動きを止めて、桐枝は口端を上げる。
「――それで、お前はそういう手口を何回、何人に使ってきたんだ?」
一瞬で真顔になった千寿がすぐに笑顔へ戻った。
「やっぱりアンタが好きだわ。ほんとうよ?」
桐枝は次こそ千寿を蹴り落とし、ソファへと追い立てる。
きゃんきゃん喚く千寿の声が耳に残っていたのか、寝付きの悪い夜であった。




