第八話 痛く感謝
「何処ぇ目ぇつけてんやがんだこのアマぁ〜」
勢いよくみそのにぶつかって来て、自分も派手に転んだ男が、腹立ち紛れにみそのに凄んで来た。
みそのは痛みで声が出せずに、目をつぶって倒れている。
「テメェ、そんな臭ぇ芝居しやがって、そんなんで許されると思っちゃいけねぇぜぇ〜」
この男、相当女子供にも容赦がないらしい。自分も相当痛かったのか、腰を押さえながらみそのに近付いてくる。
そして近寄りざま、
「ほらこれでも喰らっとけっ!」
と、倒れて動けなくなっているみそのに、蹴りを入れようと、足を大きく振り上げた時、
「痛っ、痛てててててーっ」
蹴られると思って、ぎゅっと目をつぶって力を入れていたみそのは、男の声が急に遠ざかって行くので、そっと目を開けて遠ざかる声の方を見る。
「痛ぇっつってんだよ馬鹿野郎がぁ、テメ、タ、タダじゃ、お…」
少し情け無い声に変わりながらも、強がっている男の耳を、ニヤニヤしながら引っ張り上げている、黒羽織りの侍が目に入った。
「あっ、永岡の旦那っ」
みそのはその黒羽織りと逞しい体躯で、すぐに永岡だとわかった。
「そりや痛ぇに決まってらぁな、痛ぇ事してんだからよぅ」
「あっ、だ、旦那っ」
男は漸く八丁堀の町方だと気付き、先程までの威勢は何処へやら、ヘコヘコと謝り倒し、小さくなっている。
「ほら広太。早ぇとこ旦那の手から奴さんを引き取って、番屋へ連れてかねぇかぇ」
ヒョロっと背の高い広太と呼ばれた男が、「へい親分」っと、すぐさま永岡の元に駆けて行った。
「お嬢さん、大丈夫でごぜぇやすかぇ?」
みそのは痛さを堪えて顔を上げる。
「あっしは、お上の御用をさせていただいておりやす、智蔵ってもんで」
智蔵と名乗った男は、岡っ引き宜しく、腰の御用十手を半分抜いて見せる。
「そんな所で転がってるのもなんでござんしょう? ささ、お立ちなせい」
智蔵はそう言いながら、みそのに手を貸して立たせてくれた。
「あ、ありがとうございます」
みそのは、最後は痛みで顔をしかめてお礼を言った時に、ニヤニヤと笑いながら永岡がこちらに歩いて来た。
「またお前さんかぇ? へへっ、今日のところぁお前さんでも、どうしょも無かったみてぇだなぁ?」
小憎たらしい顔を向けて来るが、妙にいい男なのが、かえってみそのを怒らせる。
「まぁなんだな。あいつもお前さんに吹き飛ばされて、痛え思いしたみてぇだし、災難だったが、ある意味お前さんも悪かったってぇ事だな?!」
「永岡様!」
みそのは痛みも忘れて永岡をキッと睨んだ。
「まぁまぁまぁまぁ、永岡の旦那も人が悪りぃや。お嬢さん、ほんの旦那の軽口なんで、本気になさんないでおくんなさいよ」
智蔵はみそのと永岡をとりなす様に言うと、
「旦那はこのお嬢さんをご存知で?」
と、なにやら知らぬ仲では無さそうな二人のやり取りを見て、上手く話しを逸らした。
「ご存知ってぇ程の事でも無ぇんだがな。お前にもこの前話したじゃねぇかぇ。例の古着屋の、怖ぇ女の話しをよ」
「あぁ、あの女弁慶って旦那が言っていやした…」
智蔵はハッとして首を竦めると、みそのにすまなそうな顔を向ける。
「永岡の旦那は、どんな私の武勇伝を作りあげたんですかっ!」
みそのはこのニヤニヤ笑う男前が、更に憎たらしくなって詰め寄った。
「まぁまぁ、そんな怖ぇ顔するねぇって。ちっとこう、話しに尾びれや背びれをつけた方が、話しも面白ぇってもんじゃねぇかぇ。なぁ?」
悪戯っぽくチラリと智蔵を見ると、
「そんな目くじら立てるもんじゃねぇぜ? 折角の別嬪さんが台無しでぇ」
と、またニヤニヤしながら茶化す様に返してくる。
「ま、まぁそうですけど、い、言われてるこっちの、身としてはねぇ…」
みそのは別嬪さんと言われて、頬が赤くなった様な気がして、しどろもどろになりながら言い繕った。
「で、お前さん、大丈夫なのかぇ?」
「へ?」
別嬪さんとの響きに酔いしれていたみそのは、思わず変な音で答えてしまった事に気づき、益々その頬を赤く染めた。
言われてみれば腰を打った所が酷く痛い。そっと歩いてみようと足を出してみたが、痺れる様な痛みが走り、歩けない。
みそののそんな痛々しい様子を見ていた永岡は、
「しょうがねぇなぁ〜。智蔵に頼みてぇとこだが、こいつぁどう考ぇてもオイラだよなぁ」
永岡は智蔵の短躯を見ると、智蔵は申し訳無さそうに、更に小さくなって頭をかいた。
「ほら、掴まんねぇ?」
と、みそのが永岡の声を聞いた時には、永岡は自分に背中を向けてしゃがんでいた。
みそのは少し逡巡したが、智蔵に促されてそれに従うしかない。
「駕籠がいりゃぁ乗せて行きてぇとこだが、その腰で駕籠に揺られるってぇのも酷だしなぁ。まぁ、町廻りがてらこのまんま、おぶって送ってやらぁな」
永岡の声を背中で聞きながら、みそのはドキドキしていた。
永岡が着物の上からでも、鍛え上げられた良い身体をしているのは、みそのにも見て取れていたのだが、実際に背中におぶさってみると、思っていたよりも大きく、そして逞しい引き締まった筋肉なのだが、思いのほか柔らかくて心地も良い。
ドキドキしながらも、心地良いその安心感からか、みそのは永岡の背中で、いつの間にか寝てしまっていた。
*
「おいおいおいおい、起きねぇ? もう着いたぜぇ、起きねぇかぇ?」
少し揺らされながら声をかけられたみそのは、ハッとして目を開けると、大きな黒い背中に顔を埋めているのに気づき、慌てて顔を上げた。
みそのは幾分痛みも治まっては来ていて、永岡にお礼を言って下ろしてもらう。
そっと足を出してみても、先程の様に歩けない程ではない。足を引きずりながらも、みそのは改めて永岡にお礼を言う。
「なんだか冷てぇなぁ」
みそのはお礼の返しにしては、永岡の言葉が何の事だかわからずに、目を丸くして永岡を見ると、永岡はニヤニヤしながら、しきりに背中を気にして智蔵に聞いた。
「なぁ、どうなってるねぇ?」
笑いを堪えながらも、小刻みに肩を揺らした智蔵は、
「隠し立てしてもしょうがねぇんで、言っちまいやすが、旦那の背中には立派な水溜りが出来てまさぁ」
と言うと、堪らずゲラゲラと笑い出した。
みそのは自分のよだれが永岡の背中に付いて、大きな水溜りを作ってしまった事に気がつくと、顔から火が出る様な恥ずかしさで赤面し、何度も何度も永岡に謝るのだった。
*
プシュ
「あぁ〜、やっぱルービー最高ぉ〜!」
希美は、この江戸から戻ってからの一杯がめっきり楽しみになっていて、この世の何よりの幸せとも感じている。
「でも恥ずかしかったなぁ………」
「キャ〜っ」
希美は今日の事を思い返して、女子高生の様に両手で顔を覆って赤くなっている。
「甚平っちといい、永岡っちといい、江戸は男前の宝庫なのかねぇ…」
「でも永岡の旦那、カッコ良かったなぁ〜」
もう希美の中では、永岡が甚平の上位にいるらしい。
「こっちの男は、ああはいかないよなぁ〜」
「でも甚平っちの店も、順調な滑り出しをしているみたいだし、永岡の旦那におんぶしてもらった事だし、今日は祝杯をあげなきゃねぇ〜」
何か言い訳してをしては酒を飲む、世のオヤジ達の如く、希美は気分良く晩酌をする。
「痛たたたたたたた」
二本目のビールを取りに行こうとした希美が、大声をあげ腰を押さえて固まっている。
*
「店長大丈夫ですかぁ?」
そ〜っと歩きながら、ラックの乱れを直している希美に、緑ちゃんが声をかけてきた。
希美はゆっくり振り向いて、小さくマッスルポーズをして返事をするが、顔はその動きでさえも歪んでしまう。大丈夫そうではない。
緑ちゃんにその顔を完全に悟られたと思い、
「でも、がんばりマッスル」
もう一度声を出してやってみたが、緑ちゃんは笑ってくれない。恥ずかしさだけが加算されてしまう。
「今お客さん少ないですから、奥で少し休んでくださいよ? そろそろ雅美さんも入る頃ですし、本当に大丈夫ですから」
雅美さんとは希美と同い年のスタッフで、化粧がやたらと上手く、やけに若さを保っているので、若い緑ちゃんと花ちゃんからは、陰で化け物扱いされているスタッフだ。飲み会の席で緑ちゃんがふざけて、『化け雅美ね』と、戦国武将の『伊達政宗』をモジって言った時は、希美も流石に笑ってしまった。
「ね、店長?」
緑ちゃんは真剣な顔で心配してくれいる。
笑ってくれるまで、マッスルポーズのままでいようと粘っていた希美は、素直にマッスルポーズを解き、優しく可愛いい緑ちゃんの頭を、ワシワシと撫でながら、感謝したい衝動に駆られながらも、体が言う事を聞かず、2度くらいの微妙な角度のお辞儀をすると、黙ってそれに従うのだった。
希美は、一日経ってからの方が痛みが増して来て、今日は仕事場にも普段の三倍以上も時間をかけ、やっとの思いで出勤していた。
『あぁ、みんなに迷惑かけちゃってるなぁ……。それにしても酷い目にあったよなぁ。やっぱりあんな事もあるんだし、江戸の町へは、あまり出歩かない方が良いのかしらねぇ…』
希美は店長として、お店のスタッフの模範であろうと、自分を律して今までやって来ているので、このままじゃダメだと反省していた。
「店長おはようございま〜す。緑ちゃんからメールがあって、あまり匂わない湿布薬を買ってきましたよ〜」
同い年だけあって、少し面白がりながらの含み顔で、雅美が顔を出した。手には湿布薬なのであろう、薬局の袋をぶら下げている。
「そこでマネージャーと会ったので、マネージャーにも店長のお見舞いに来てもらっちゃいました〜」
優しくてちょっと渋い佐藤マネージャーは、雅美のお気に入りだ。雅美にすっかりネタに使われた気もする。
「希美ちゃん大丈夫なの?」
佐藤マネージャーは顔を出して早々、少しも心配していなさそうに、目を笑わせながら言うので、
「全然心配してないでしょ、佐藤マネージャーは〜。完全に目が笑ってますよぉ!」
と、希美は不貞腐れながら言って、佐藤マネージャーを睨め付ける。
「そりゃそうだよ、そんな動きされてちゃ〜。だって希美ちゃん、コロッケの五木ロボにしか見えないも〜ん」
「…………」
「あ、悪い悪い。本当は心配してんだよ、希美ちゃん」
佐藤マネージャーが益々目を笑わせながら、助けを求める様に雅美の方を見ると、雅美は声を殺してお腹を抱えて笑っていた。
「ね? 普通の反応はあれだよ。よっぽど俺のがマシでしょ?」
佐藤マネージャーは雅美を指差して、もうお構い無しに笑って言うのだった。
『だからと言ってマネージャーのあなたは、リミッターを切らないでよっ』と希美は心の内で盛大に愚痴る。
雅美は流石に気まずくなったのか、
「私、急いで着替えて来ますね? とりあえず店長に薬を渡そうと思ったんで…。ここ、ほらここに湿布薬置いておきますからねっ」
逃げる様に更衣室へ消えて行く。
「はぁ〜。それにしても私はダメですねぇ…」
雅美が着替えに行って、佐藤マネージャーと二人になった希美は、そんな弱音を吐いた。
「でも、事故だろ? 走って来た誰かに、ぶつかられて転んだって聞いてるけど?」
笑いが収まったマネージャーが、気にするなと希美を庇う。
「そうなんですけど、やっぱり私は店長だし、普段からスタッフみんなの模範にならなきゃって思ってるのに、こんなんじゃ……ねぇ?」
希美はしんみりと言う。
「いいんだよ、希美ちゃんはそんな事気にしなくて〜。希美ちゃんは、そんなみんなの模範みたいな店長にならなくていいの。そんなの会社は全く望んでないから、安心しなよなぁ〜」
マネージャーは楽しそうに笑って言った。
「じゃ、会社は何を望んでて、私を店長にしてるんですか?」
希美が何気なく聞くと、マネージャーは不思議そうな顔をして、まじまじと希美の顔を覗き込んで来る。
「そんなのムードメーカーに決まってんでしょうが。なに言っちゃってんの今更〜」
佐藤マネージャーは、ぐいぐいと肘で希美を押す仕草をしながら、楽しそうにカラカラと笑っている。
希美は佐藤マネージャーの目尻に溜まる涙を睨みつけ、
『絶対また江戸の町を闊歩してやるっ!』
っと、心の内で叫ぶのであった。
*
「おい、居ねぇのかぇ?」
戸を叩く音とともに、最近聞き慣れた男の声がして来た。
「永岡様だ!」
みそのは少し浮き足立った気持ちを抑え、一呼吸おいて玄関を開けた。
「なんでぇ、居たのかぇ。ここんとこ通る度に寄ってみてたんだが、いつも居ねぇんで心配してたんだぜぇ。一体何処ぇ行ってたんでぃ?」
何処って言われても言えるものでは無く、みそのは言葉を無くしてモゴモゴしていると、
「湯治にでも行ってたのかぃ? 腰、良さそうじゃねぇか?」
みそのの腰を指差して永岡が言う。
今日は誰も供の姿が見当たらず、一人で来ている様だ。
「あっ、と、湯治。そう、いい湯治場が、有るって聞いて、ちょいと、遠出を…」
みそのはしどろもどろで言うと、
「嘘ぉ付きやがれぇ。お前さん、そしたら手形はどうしたよ?」
みそのは、「手形?」っと、良くわからない事を言われ、キョトンとしていると、ニヤッと笑って永岡は近づいて来た。
「あれからすぐに居なくなってたじゃぁ無ぇかぇ。あんなにすぐには、どうやったって手形を出してもらうのは、無理ってもんだぜ?」
「……」
「調べはついてるんだぜぇ?」
目の前まで来た永岡は、益々ニヤけ面になった顔を近づける。
「オイラを甘く見ちゃいけねぇぜぇ」
永岡はぐるりと、みそのの周りを珍しい物でも見る様に回り、みそのの顔のすぐ目の前まで来た時、永岡は先程までのニヤケ顔をいつの間にか引っ込めて、真剣な眼差しでみそのを見ていた。
みそのの背中に冷たい物が流れ落ちる。