第七十四話 決意
永岡とみそのは一頻り笑い合うと、寄り添う様にに自然と歩き出していた。
二人がゆるりと大川沿いを歩いていると、
「あっ」
突然みそのが声をあげ、立ち止まった。
「どうかしたかぇ?」
永岡も足を止めて尋ねる。
「いぇ、あの舟に乗っている男の人が、以前抜け荷の事件で旦那に助けられた時に、蔵で見た浪人さんに似てるなって…」
「な、何っ」
永岡が慌ててみそのが指す方向を見ると、確かに浪人風の男が、猪牙に乗っているのが目に入った。しかし、永岡が見た時には、既に猪牙の角度が変わっていて、浪人の顔は確認出来なかった。
「ど、どうするんですぅ?」
みそのは恐る恐る永岡を見る。
「ん? あぁ…」
永岡はみそのの心配そうな顔を見て、自分の首筋を撫でながら苦笑いをする。
「どうもしねぇぜ。お前の見間違ぇって事も有らぁな。もし間違ぇ無ぇにしても、オイラも未だ本調子じゃねぇや。無理にとっ捕まえようと追った末に、みすみす斬られでもしちまったら、折角お前に助けられた命も、無駄になっちまうぜぇ」
永岡はニヤリと笑って歩き出した。
「しっかし、お前も、あの野郎に浪人さんなんて、さん付けしてんじゃねぇやぃ。ふふ」
永岡は思い出したら可笑しくなったのか、ニタニタ笑いながら先を歩いて行く。
「だ、だって浪人さんは浪人さんじゃないですかぁ」
みそのは口を尖らせながら、ちょこちょこと、先を行く永岡に追いつかんと小走りをする。
「ありがとうよ」
みそのが追いついて来ると、永岡は前を向いたままぼそりと言った。
「旦那」
みそのは微かに聞こえるかどうか、永岡を小さく呼びながら、永岡の袖をちょんちょんと引っ張って、それに応える。
辺りは急に薄暗くなって来て、二人の照れた顔を、丁度良く誤魔化してくれている。
「なぁ、お前、オイラと一緒にならねぇかぇ?」
永岡はおもむろに、そして自然に想いを投げかける。
「………」
みそのは立ち止まり、黙って俯いている。
「オイラと一緒になってくんねぇかぇ。みその」
永岡は振り返ると、みそのと向かい合い、真剣な眼差しでもう一度想いを告げる。
みそのは肩を小刻みに震えさせたまま、動かない。
永岡がゆっくりとみそのに近づいて、目の前まで来ると、みそのは堪らずに永岡の胸に顔を埋めてしゃくりあげる。
みるみると陽が暮れて、二人の姿を周りから隠す形になり、暫く二人は、そのまま二人だけの時間を過ごすのだった。
*
みそのはぼんやりと考えている。
あれからは、みそのが永岡の役宅まで送るはずが、逆に永岡がみそのを家まで送る形になっていた。
永岡に家へ上がる様に勧めるも、永岡は、先ほどの申し入れを考えて欲しいと言い残し、みそのを玄関先まで送ると、あっさりと役宅へ帰って行ったのだった。
「永岡の旦那ぁ…」
みそのはぽつりと独り言ちると、またもや想いに耽る。
みそのは永岡の看病をする為に、叔母の葬儀も仕事も全て放り投げていた。
仕事の方は、看病の合間を縫って東京に戻り、具合いが悪くなってしまい、暫く仕事に行けないので調整して欲しいと、雅美に病欠の連絡を入れていた。
しかし、夫には何と言って良いのか解らず、そのまま放置する形で、不義理をしてしまっていたのだった。
夫の良太郎は、約束の時間に現れない希美に連絡するも、携帯も繋がらず、葬儀を終えた良太郎は、急ぎ家に帰って来た。
しかし、やはり家には希美の姿が無く、その足で呉服橋の家に向かったのだったが、こちらにも希美が居ないので、ちょっとした騒ぎになっていたのだ。
良太郎は呉服橋の家から、仕事先の雅美に連絡したのだが、雅美は有耶無耶に答えるだけで要領を得ず、丸越のお店まで押しかけたりもした。しかし、希美の所在は相変わらず掴めない。
希美から病気で休むと聞いていた雅美が、希美の夫に、希美の所在を聞かれたのだから、雅美が変に気を回して、有耶無耶に答えたのも頷ける。
それからの良太郎は、希美への心配と疑いとが綯い交ぜになり、仕事も手が付かない程に、落ち着かない日々を過ごしていた。
希美は、永岡が役宅へと帰って行くのを見届けてから、漸く東京に戻って来て、その時にやっと夫へ連絡をしたのだった。
しかし、夫を安心させると同時に、夫の逆鱗にも触れる事になる。
普段は柔和で、そこまで怒る夫では無かったが、希美が頑なに、姿を消していた理由を言わない事に、いよいよ我慢が出来なくなった様なのだ。
仕事の方でも、雅美のフォローは有ったが、病気で暫く仕事を休むと連絡をしたきり、それから音信不通になっていた事で、多大な心配と、迷惑を掛けていた事は否めなく、復帰するに当たっても、本社からはきつくお叱りを受けていた。
希美は夫の良太郎とは、暫く別居して時間をおく事となり、自身も江戸へ行くのを自粛して、暫く呉服橋の家と仕事場を往復するだけの、慎ましい生活を続けて、自分の気持ちと向き合っていた。
今までも夫は単身赴任の様なもので、別居しているのと変わらないものだったが、今回の別居は、気持ち的にかなりの違いが有り、希美には十分重いものに感じられていた。
そんな希美は今日、久々に江戸へと来たのだが、それは永岡に別れを告げた時に、どの様な気持ちになるのかを、江戸でリアルに感じる為だった。
そんな時に丁度智蔵からの文を見つけ、思い切って永岡に会う決意をして、船宿まで足を運んだのである。
「どうすれば良いんだろう…」
みそのは溜息と共にまた独り言ちる。
正直に言えば永岡に惹かれている。
夫は夫で大事に想っているのだが、永岡には何なのか解らないが、特別な物で繋がっている様な、不思議な物を感じている。
今日のみそのは、自分の気持ちを確かめる意味で江戸に来ていたので、まさか永岡と会う事になるとは考えてはいなかった為、船宿で久々に永岡と再会して、その思いを巡らせていたのだ。
そして、実際に永岡と会ってしまうと、別れを告げるべきだと決めてはいても、その想いは揺れる一方で、時が経つにつれ、みそのの想いは吸い寄せられる様に、永岡へ傾いて行ったのだった。
そんな時に永岡からの、今で言う、プロポーズを受けてしまったのである。
*
「そろそろ一旦、江戸を出るとするかのぅ」
信長は蘭丸にそう言って煙管に火を移すと、一仕事終えたかの様に紫煙を燻らす。
「はっ、もう町方も他の事件に追われ、我らの事などもう構ってられぬでしょう」
信長と蘭丸は未だ江戸に居たのだ。
あの夜の後、速やかに江戸を離れても良い様なものだが、信長は念の為に、大小問わず商家に盗みに入り、辻斬りを仕掛け、町方の探索をいつまでも続けさせぬ様に、別の事件を引き起こし、町方の目をそちらに向かわせる様に謀っていたのだった。
「ちと残念じゃが、未だ楽しみは残っておるからのぅ。前に来るか後ろに来るかの違いなだけじゃ。ふふ」
信長は不敵な笑いを漏らし、暫くは戻らぬ、江戸での最後の一服をつけるのであった。
*
「お園さん…」
みそのは、今は亡きお園の名前を口にして、東京への入口でも有る戸棚を見つめている。
暗い天井裏で一人、かれこれ一刻半ほど戸棚を見つめながら、最初にここへ来た時からの事を思い出し、考えに耽っていた。
「お園さんならどうするの?」
ぽつりと言うと、みそのの頬を涙が伝い滴り落ちる。
思えばみそのは、江戸に来てからと言うもの、活き活きとした人達の人情に触れ、これまで癒されながら暮らしていた。
何度と無く、このまま江戸での生活を続けた方が、幸せなんじゃないかと考えもしていた。
お園が最後は江戸でとの思いを決めたのは、何も夫や子供を想っての事だけでは無いのだと、最近では思っていたくらい、江戸での暮らしに親しみを覚えている。
「捨てられるのかなぁ…」
みそのはまた、ぽつりと独り言ちる。
永岡だけでは無く、お加奈、そして裏長屋のお菊、お静、お若、それに智蔵や新之助、色々な人達との繋がりを、捨てられるのだろうか。
かと言って、夫の良太郎や職場のみんな、東京での暮らしを捨てられるのだろうか。
みそのは今になって、また堂々巡りの如く悩まされる。
「お園さん…」
縋る様にみそのの口から、お園の名前が涙と一緒にこぼれ落ちる。
「はぁ…」
みそのは湿った溜息を吐くと、ごろりと横になって目を閉じる。
暫し横になって考えていたみそのは、ある事を心に決めて、すっと眠りに落ちて行くのであった。
*
「おぅ、早ぇじゃねぇかぇ」
永岡が奉行所へ出仕すると、智蔵が永岡を待ち構える様に門前で待っていた。
「いえね、あっしも歳なもんで、気になっちまいやしてねぇ。へへ」
智蔵は頭を掻きながら照れ笑いをする。
「気になるって、いってぇ何の事でぇ?」
永岡は訝し気に智蔵を見たが、その顔を見ている内に察しがついたのか、呆れた様に小さく笑った。
「みそのの事だな。ったく、お前にゃ敵わねぇや。ふふ」
「そりゃぁ、旦那とは長ぇ付き合いでやすからねぇ。ふふ」
智蔵は小さな身体を、仰け反らせる様に大きく見せて笑う。
「言いてぇ事ぁ言えたんでやすかぇ?」
智蔵は一回り以上歳下の永岡を、我が子を慈しむ様に見やる。
「あぁ。ありがとうよ、智蔵」
永岡は照れくさそうに笑うも、何処か気弱な表情が見え隠れする。
「旦那ぁ、まさか考えておいてくれなんてぇ、悠長な事ぁ言ったんじゃねぇでしょうねぇ?」
「そ、そりゃぁ、まぁ…」
永岡の反応を見て智蔵は続ける。
「旦那、大事なもんは、どんな事が有っても、手前の手でしっかり掴んで、離しちゃいけねぇんでやすぜ。今からでも行って、その手にしっかりと掴んで来なせぇよ」
智蔵は永岡の背中を手荒く押した。
「………」
智蔵に押されてよろついた永岡は、何か吹っ切れた様な顔で智蔵に振り返ると、無言のまま大きく頷いた。
「旦那ぁ、格好つけちゃいけやせんぜぇ!」
韋駄天の様に走り行く永岡の背中に、智蔵が声を投げかけると、永岡は右手を挙げてそれに応え、そのまま走り去って行く。
*
屋根裏部屋で寝ていたみそのの顔に、刻限を報せる様に朝日が細く差す。
「うん」
みそのは産まれ来る様に目覚めると、一人大きく頷いた。
みそのは目を覚ました時に、夫と永岡のどちらの顔が心に有るのか、それを最後の答えとする事に決め、昨夜は眠りに落ちたのだった。
「………」
暫し目を閉じて、嚙みしめる様にもう一度頷く。
「どのくらい寝ちゃったのかしら?」
外でお菊達のものであろう笑い声が、薄っすらと聞こえて来る。
「ふふ」
自分の人生最大の決断の時に、長閑なお菊達の笑い声を聞いて、みそのは思わず笑みがこぼれる。
ドンドンドンドン
その時、玄関でけたたましく戸を叩く音が聞こえた。
「あっ」
みそのの鼓動の音が、そのけたたましく叩かれる玄関戸と、呼応する様に早く大きくなる。
みそのはそれを窘める様に、大きく息を吸い、ゆっくりとそれを吐き出す。
そして、江戸への入口である戸棚を見ると、決意を固める様に力強く頷いた。
ドンドンドンドン
みそのはやおら立ち上がり、梯子段を下りるて玄関へ向かう。
ドンドンドンドン
みそのが一声かけて玄関戸の閂を外すと、勢い良く戸が引かれ、真っ白な朝日と共に永岡が飛び込んで来た。
「おぅ、邪魔するぜぇ」
【完】
最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
このまま続編を続けようとも思いましたが、やはりここで終わらせる事にしました。
『続・ちょいと江戸まで』と、
まんまのタイトルで、続編を投稿しました。
(2017,8,18投稿)




