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第七十三話 快気祝い



 智蔵ともぞう伸哉しんやが茶問屋の二階に入ると、広太こうた留吉とめきち松次しょうじ翔太しょうた三木蔵みきぞうとその手下に至るまで、新田以外の仲間が泥の様に眠っていた。


 八畳程の一間に、大の大人が八人での雑魚寝である。汗臭さも有るが如何にも男臭い光景に、智蔵は頬を緩めながらも顔を顰める。


「伸哉、悪りぃが朝餉の用意をしてくれって、ここの主人に願って来てくれねぇかぇ?」


 智蔵は皆を起こさずに、先ず皆の腹の心配をして、伸哉に手配りを頼んだ。


「へい、合点でぇ」


 伸哉は自分も腹を空かせているので、階下にすっ飛んで知らせに行った。



「おぅ、悪りぃ悪りぃ、待たせちまった様だな」


 皆が朝餉を食べ終わり、一息ついたところに、新田が奉行所から駆けつけて来た。


「いやぁ、丁度朝餉をいただいた後でさぁ、何とも待っちゃおりやせんぜぇ」


 三木蔵が新田に挨拶をして応える。


「そうかぇ、そりゃぁ良かった。何となくは人選は決まったのかぇ?」


 新田は智蔵に水を向ける。


「へい。三木蔵と飯を食いながら相談したんでやすが、花又はなまた村へは昨日あっしらが行ってやすんで、あっしと留吉に伸哉、それと、松次に翔太を連れて向かう事にしやして、西海屋の奉公人の調べにゃぁ、三木蔵と文吉ぶんきち、広太に当たってもらい、竹蔵たけぞう典男のりおの取り調べは、新田の旦那と弥吉やきち新太しんたが、良いんじゃねぇかってぇところでさぁ。花又村は朱引外なんで、手間取るといけねぇんで、人数を割かせていただきやした」


 朱引外とは、江戸の境目を朱墨で絵図に、線を引いたところからそう呼ばれるのだが、要は江戸の外という事を言い、町奉行所の管轄下では無い。


「丁度良い塩梅なんじゃねぇかぇ?」


 新田は満足そうに頷くと、


「それじゃぁ、早速取り掛かるとするかぇ。皆頼んだぜぇ」


 気合いを入れる様に声を上げた。



 *



「親分、そこの豆腐屋の親父が、昼間に荷車引いた二人を見たようでやした」


 留吉が、西海屋の別宅で家捜ししている智蔵と翔太の所へ、報告に来たところだった。


「ん? あそこの豆腐屋は、昨日伸哉が聞き込んでたんだがなぁ」


 智蔵は首を傾げて訝しむ。


「へい、昨日は知らなかったらしいんでやすが、今朝になって子供から聞いたってぇ訳でやして、昨日の調べに関わりが有るんじゃねぇかと、思ってたようなんでさぁ」


「なるほどな、そう言う事かぇ。で、その子供ってぇのは、荷車が何刻くれぇに、どっちの方へ行ったか覚えてたのかぇ?」


「それが、その子供ってぇのが、どっか遊びに出ちまってやして、詳しい事は子供に聞かねぇと解らねぇんでやす。先ずは親分の耳に入れておこうと思いやして、取り急ぎ引きけぇして来やした」


「そうかえ。なら頃合い見て、後で一緒に聞きに行こうじゃねぇかぇ。ふふ、どうせ昼時にゃぁ戻って来んだろうよ」


 智蔵は留吉の報告に、もうじき昼九つになる事もあり、一緒に話しを聞きに行く事にした。


 *


「そうかぇ、坊。良く覚えてたなぁ。偉いぞぅ」


 智蔵は、豆腐屋の息子の茂吉しげきちの頭を撫でている。


 あれから程なく、智蔵達はこの豆腐屋までやって来たのだが、睨んだ通りに遊びに出掛けていた子供も、丁度帰って来たところで、すんなりと話しが聞けたのだ。


 茂吉によれば、昨日の丁度今頃の昼九つ前くらいに、家へ帰る途中に見かけたとの事で、智蔵達も使っている船着場の方へと、荷車を引いて行ったと言う。


「よし、今度は船着場近辺で聞き込みするぜぇ。伸哉と松次にも声をかけてくんねぇ」


 豆腐屋を出た智蔵は、伸哉達も呼び寄せる様に言って、久々の手掛かりに鼻息を荒くした。



 *



「おぅ、どうだったぇ?」


 新田が智蔵の顔を見るや、急き立てる様に声をかける。

 智蔵達意外は、既にここの茶問屋の二階に集まり、悶々としながらも一縷の望みを抱く様に、智蔵達の帰りを待っていたのだ。


「ま、まぁ座りねぇ」


 新田は智蔵の顔色を見ると、一縷の望みも絶えたと察して、穏やかな声で智蔵達を座る様に促した。





 *





「ぬぅぅぅう〜っ、堪りませんなぁ〜」


 北忠きたちゅうこと北山忠吾きたやまちゅうごが、久しぶりに奇声を発している。


 今日は奇声の主の北忠と弘次こうじ、それに永岡の、三人まとめた快気祝いと言う事で、智蔵が女房にやらせている居酒屋、『豆藤』から、料理人の史哉ふみやと智蔵の女房であるおふじを、そのまま出張させての宴となっていた。


 主役の三人の他に、新田と三木蔵、それに三木蔵の手下の文吉や弥吉に新太、智蔵とその手下の広太に留吉、伸哉に松次、新入りの翔太まで集まっての宴の為、流石に『豆藤』では手狭になってしまうと言う事で、新田が懇意にしている船宿の二階を貸し切りにして、出張『豆藤』となっていた。


「いや〜、この日をどれだけ待っていた事かぁ〜」


 北忠は目に涙まで溜めている有様なのだが、皆も懐かしさの余り、茶々を入れるのも忘れている。

 膳の用意が一つ残されているのを、ぼんやりと永岡が眺めている。


「旦那ぁ、いつからみそのさんに会ってないんでやすかぇ?」


 永岡の様子を見ていた智蔵が、酌をしにやって来たついでと言わんばかりに、小声で声をかける。


「ん? あっ、そうだなぁ。もう一月半くれぇになっちまうかねぇ」


 永岡は智蔵に注がれた酒を飲み干す。


「みそのさんは、何処へ行っちまったんでやしょうねぇ」


 智蔵は永岡の猪口に酒を注ぎながら、ぼやく様に言って溜息を吐いた。


 永岡が重症を負って、三日三晩寝込んでいたのだが、みそのはずっと付き切りで、永岡の看病に当たっていた。

 御典医の桂川甫筑が、一時は諦めかけていた永岡であったが、そんなみそのの献身的な看護の甲斐もあり、今日の日を迎えられる程に、すっかり快復したのだった。


 永岡は、四日目に目を覚ましてからは見る見る快復に向い、次第に上体も起こせる様になると、老母が一人で暮らす役宅へと帰る事になった。

 老母一人と言っても、下女と下男も通いで居るので、一人きりという訳では無いのだが、やはり息子が心配の様で、永岡が落ち着いて来たと知ると、是非にと永岡を引き取って行ったのだった。

 傷を負って十日目の事である。

 それまで、すっかり夫婦の様な生活を送っていた永岡も、その心地良さに甘えてばかりではいかなぬとの思いと、母が自分を心配している事を考え、後ろ髪を引かれる思いで、役宅に戻る事を決めたのだった。


 永岡はみそのとはそれ以来会えていない。

 一人歩きが出来る様になった一月程前から、みそのの家を訪ねて行ってはいたのだが、いつも留守で会えない日が続き、今日に至っている。


「あっしも時折足を運んでいるんでやすが、いつも留守なんでさぁ。裏長屋のおきく達なんぞの話しでは、時に人の気配がする様な事もあるってぇ、言うんでやすがねぇ…。全く、どうなっちまってんのやら」


 智蔵は、自分も猪口に酒を酌んで酒を舐めながら、またもやぼやく。


「でも旦那ぁ、本当に良かったでやすよぅ。本当に一時はどうなる事かと、冷や冷やしてやしたんでやすからねぇ」


「あぁ、ありがとうよ」


 その時の事を思い出した智蔵が、しんみりと少し涙を浮かべて話すと、永岡はその智蔵の肩を軽く叩きながら礼を言う。


「しかしあの事件は、どうにも締まらねぇ事件でやしたねぇ」


 智蔵は涙を止める様にか話しを逸らすと、永岡は苦笑いでそれに応えた。


 智蔵達が花又はなまた村の調べ直しに赴いた日は、もう今から二月ほど前になってしまう。

 豆腐屋の息子の茂吉から情報を得て、西海屋の別宅から金品を積み出したと思われる荷車を引いた二人組みの探索を、意気込んで当たったところまでは良かった。

 が、その荷車が向かったであろう船着場から、その痕跡がぱったりと途絶えてしまったのだ。

 智蔵達は翌日から、その船着場や別の方面へも範囲を広げて、調べ直しに掛かっていたのだが、一向にその痕跡が掴めぬまま、丁度事件から一月経った頃に、探索の打ち切りを言い渡されたのだった。

 事件は新田や智蔵が睨んだ通り、容疑者死亡での事件解決とされたのだった。

 奉行所の捕物帳には、西海屋番頭、由蔵による企てでの、阿片混入の偽薬流出、及び証拠隠滅による殺害、放火、主人殺し等の罪状が記され、西海屋の別宅に居た用心棒二人の裏切りにより、金品を持ち逃げされた上に、捕り物に駆けつけた同心が現れた事で、逃亡を諦め、捕らわれる前に自害して果てたとされたのだった。


「しっかし、いくら大店とは言え、あの一介の番頭でしかぇ由蔵が、尾張藩まで巻き込んであんな事をしやすかねぇ?」


 智蔵は今でも腑に落ちないでいる。


「まぁ、事件も次から次へと起こるからなぁ。上の方も、いつまでも埒があかない事件には蓋をして、はえぇとこ一件落着させたかったんだろうよ」


 永岡はまた苦笑いと共に応える。


 実際にあれからは、辻斬りが多発している上に、商家に盗みが入ったりと、中々町奉行所も繁多を極めている。


「最近の辻斬りは、あの野郎じゃねぇんでやすかぇ?」


 どうしても智蔵は、例の事件に結び付けて探索をしたい様だ。


「まぁ、中にはそう見えねぇ事もぇ斬り口の、亡骸も有ったみてぇだが、新田さんが言うには、あの野郎にしては凄味が足りねぇそうだ。オイラもおめぇと一緒に何人か見たが、新田さんと同じ様に思ったぜぇ」


 永岡も半月程前から、本格的に町廻りに復帰していて、辻斬りの事件も何度か調べに当たっていた。


「が、が、ごごぉ、あ、あっ」


 きゃっきゃと騒ぎながら、軍鶏鍋をつついていた北忠が、突然むせた様な声を上げて皆から注目を浴びた。


「ちっ」


 永岡が久々に舌打ちをしながら北忠を見ると、北忠は目を丸くして、永岡の後ろをちょんちょんと箸で指しながら、永岡に目配せをする。


「うっ」


 永岡がやおら振り返ると、そこには暫く顔を見なかったみそのが立っていて、思わず呻き声の様な声を発する。


「お、おぅ、久しぶりじゃねぇかぇ」


 気を取り直した永岡が、改めてみそのに声をかけると、みそのは薄っすらと笑みを浮かべて小さく頷いた。


「さ、ささ、みそのさん、座ってくだせぇ」


 智蔵が立ち上がって、みそのの膳を永岡の横に持って来るように伸哉に促し、みそのを永岡の隣に座らせる。


「その節はありがとうごぜぇやした」


 伸哉も久々に見るみそのに、あの時の礼を言いながら膳を整えると、みそのは笑みを浮かべて首を振り、ゆっくりと頷く様に伸哉に礼を返した。


「………」


「………」


 相変わらず北忠を中心に、松次や翔太達が、盛り上がって笑い声が聞こえる中、永岡とみそのの周りだけは異空間に居る様に、静かな時間が流れていた。


「よ、良く来てくれたな」


 永岡が沈黙を破る様に、みそのの猪口に酌をしながら話しかける。


「親分さんが、文を戸口に挟んでおいてくれましたので…」


 みそのは小さく応え、照れ臭そうに永岡を見て微笑む。


 智蔵は駄目元で、みそのに簡単な絵図と共に文を書き、今日の日を知らせていたのだ。

 文には最近永岡が元気が無いので、快気祝いには是非にもみそのに来てもらって、永岡がみそのの顔を見て元気を取り戻し、本当の意味での、快気祝いにしたいと綴られていた。


「ありがとうな」


 永岡も小さくみそのに言って、みそのに顔を向ける。


 みそのは薄っすらと涙を携え、こくりと頷いて微笑む。


「………」


「………」


 永岡は心の内では、色々な事を話しかけているのだが、その言葉達は口から発せられる前に、永岡の胸の奥底へと虚しく転がり落ちて行く。

 みそのも同じ様な思いなのか、言葉の代わりに、みるみると涙だけが溢れて来てしまう。


「お祝いの席なのにごめんなさいね」


 みそのは小さく言って涙を拭い、笑みを浮かべて永岡を見る。


「永岡の旦那、大丈夫でぇじょうぶでやすかぇ?」


 そんな二人を見ていた智蔵が、堪らず声をかけて来た。


「ん?」


 永岡は現実の世界に戻って来た様に、智蔵の声に反応すると、やっと周りの賑やかな笑い声なども耳に入って来た。


「いやぁ、旦那も未だ未だ病み上がりなんでやすから、今日のところは余り無理しねぇで、先にけぇって、ゆっくりと休んだらどうかと思いやしてねぇ」


「い、いや、オイラは…」


 智蔵はにこりとして、永岡には構わず続ける。


「みそのさんも、折角いらしてくれて申し訳有りやせんが、この旦那を送って行ってはくれやせんかねぇ。面倒おかけしやすがおねげぇしやすょ」


 智蔵はすまなそうな顔をしながら、みそのにそう言うと、有無を言わさぬ様に大きく頷く。


「ほらみんな、永岡の旦那は今日はお疲れなんで先にけぇるぜぇ。挨拶しろぃ」


 智蔵は早速立ち上がって、大きな声で宣言してしまう。

 そして永岡に振り返り、今日のところは言うことを聞いてくれと言わんばかりに頷いた。


 *


 皆に気をつけて帰る様にと挨拶されて、永岡とみそのは船宿を後にした。

 未だ日の落ちきっていない大川沿いを、二人とも黙って歩いている。

 相変わらず二人は、無言で会話をしている様だ。


「すっかり暖かくなって来たなぁ」


 漸く永岡がぽつりと呟く様に言う。


 未だ未だ朝晩は冷えるが、町の者の装いは、もうすっかり綿入れから、綿を抜いた一重に仕立て直されていて、陽の光も春のそれに移り変わっていた。

 陽光は水面に降り注ぎ、それをキラキラと気持ち良さそうに照らして、水面を暖かみを帯びて輝かせている。

 そのキラキラとした水面を、一羽の燕がすれすれに弧を描いて飛び、永岡とみそのの前をかすめる様に通り過ぎて行く。

 飛燕は虫を咥えて巣に戻るのか、悠々と二人から遠ざかって行くのを、永岡もみそのも見えなくなるまで目で追っていた。


「そうですねぇ」


 飛燕の姿が見えなくなると、みそのが先ほどの永岡の言葉に小さく応える。

 永岡が笑みを浮かべると、みそのも笑顔でそれに応えて目を合わせた。


「ふっ」「ふふ」


 思わず同時にあげた二人の笑い声を、キラキラと水面から跳ね返った陽の光が、二人の再会を祝福するかの様に、チカチカと照らすのであった。



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