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第七十一話 焼け跡と容態

 


 永岡は相変わらず意識が戻らない。

 みそのは先程から熱が出だした永岡の額に、東京から持って来た『冷えビタ』の上から、氷で冷やした手拭いを乗せ、様子を見ている。


 みそのは新之助が帰ってから、暫く永岡の側で見守っていたのだが、甫筑が言っていた熱も未だ出ておらず、永岡もぐっすりと眠っていた事もあり、一度東京へ帰っていた。

 そして、明後日の叔母の葬儀へ行く為、休みだった明日のシフトを雅美に変わってもらっていたのだが、やはり明日も休みたいと、明日明後日と、雅美にお店を託す旨の連絡をすると共に、甫筑ほちくが言っていた永岡の発熱を予想して、氷と一緒に常備していた『冷えビタ』を、東京から持って来ていたのだった。


「旦那ぁ」


 少し息使いが荒くなって来た永岡を見ながら、今日何度となく投げかけている言葉が、またみそのの口からこぼれ落ちる。


 コンコンコンコン


 戸を叩く音が玄関から聞こえて来る。

 控え目だが気の急く様子が、有り有りと伝わって来る音だ。

 みそのは直ぐに智蔵だと感じ取り、急ぎ玄関へと向かった。


「智蔵親分…」


 みそのは智蔵の顔を見るや、絞り出す様に名前だけ言うのが精一杯で、みるみる涙が溢れて来てしまう。


「みそのさん、お邪魔しやすよ」


 智蔵はみそのに努めて優しく言うと、みそのの肩を叩いた。

 みそのは零れ落ちる涙を隠す様に、大きく頷いてそれに応える。

 伸哉もみそのをそっとさせる様に、軽く頭を下げて静かに部屋に上がる。


「旦那…」


 智蔵と伸哉が、永岡の枕元に座って見下ろしている。

 先程から熱が出て来たせいで、かなり永岡の息が荒く、眠ってはいても苦しそうなのが一目で判る。


「で、大丈夫でぇじょうぶなんでやしょうかぇ?」


 伸哉は思わず智蔵に、困惑した顔で問いかける。


大丈夫でぇじょうぶに決まってらぁ。永岡の旦那に限って、こんなんでくたばるもんかぇ。余計なこたぁ言うんじゃねぇやぃっ」


 智蔵から見ても、今までの広太こうた北忠きたちゅう弘次こうじの時に比べ、尋常じゃ無い程の汗をかき、苦しそうにしている永岡を見ると、伸哉じゃ無いが、悪い方向に考えてしまうのは否めない。

 そんな思いを無理矢理に押しやって、伸哉を叱りつけた。


「へ、へい、すいやせん。あっしが弱気になっちまったらしめぇでやすね。へい、きっと大丈夫でぇじょうぶでさぁ。へい。旦那は直ぐに良くなりまさぁ」


 伸哉も前向きに捉え様と心に決めて、祈る様に永岡へ目を落とした。


「どうぞ、お茶を淹れましたので、召し上がってくださいね」


 先程とは違って元気な声で、みそのが二人にお茶を持って入って来た。

 二人に気を使われて、自分もしっかりする様にと、努めて元気にしているのが判る。


「ありがとうごぜぇやす」


 智蔵は永岡から少し離れお茶を受け取ると、美味そうに啜ってみそのを見た。


「みそのさん、医者はなんと仰っていたんでやしょうかぇ?」


 永岡の様子が尋常では無い気がする智蔵は、みそのに診断の様子を聞いた。


「はぃ。先生は血が流れ過ぎているのと、傷の化膿が心配と仰っていまして、それが永岡の旦那の生死を分けると…」


 みそのは最後はか細い声で応えて、我慢していたはずの涙が、またじわりと溢れてきてしまう。


「そ、そうでやしたか…。で、先生は直ぐに来ていただけるのでやすかぇ?」


 智蔵は、苦しそうに荒い息をしている永岡を見て尋ねる。


「えぇ。親分さんだから言いますけど、何処かで源次郎さん達が見張ってくれていまして、この笛を吹けば、駆けつけて来てくれる事になっているので、その時にお願いすれば、連れて来てくれると思います」


「ま、また大掛かりなもんでやすねぇ。医者なりゃ場所さえ教えてくれりゃぁ、あっしか伸哉がひとっ走りして来やすよ。その方がはえぇにちげぇ。ちっとばかり心配しんぺぇでやすから、これからその医者呼んで来やすよ」


 智蔵は永岡の様子が心配で、今からでも医者を呼びに行くと言う。


「だ、駄目なんです親分さん」


「駄目って、どう言う事でやすかぇ?」


 智蔵がキョトンとしていると、みそのは少し考えて話しを続ける。


「源次郎さんに、お医者さんを連れて来てもらう様に頼んだら、御典医様を連れて来てくださったのです。だから誰もが呼びに行ける所では無いのですよ」


 みそのはあくまで新之助の事は伏せ、智蔵に訳を語った。


「ご、御典医でやすかぇっ」


 智蔵がびっくりして大声を出してしまうと、自分の大声が永岡に障って無いかと、永岡をチラリと見てから、


「ご、御典医ってぇ言うのは、あの将軍様の御典医ってぇ事でやすかぇ?」


 と、努めて声を落として聞き返す。

 みそのがこくりと頷くと、智蔵はゴクリと唾を飲み込んだ。


「そりゃぁ心強こころづえぇ。源次郎様、様々でやすぜっ。しかし、やっぱり御典医様と言えども、もう一度足を運んで診ていただいた方が、良いんじゃねぇですかねぇ?」


 智蔵は御典医と聞いて、少し力が湧いて来た様で、声も先程よりも軽くなった様だが、それでも永岡の容態を、もう一度診てもらおうとみそのに持ちかけた。


「そ、そうですよね。先生は、熱が出る事は悪い事では無いと仰いましたげど、念の為、もう一度診ていただいた方が安心ですよね」


 みそのは苦しそうな永岡を見ながら、智蔵の話しを聞いて桂川かつらがわ甫筑ほちくを呼ぶ事にした。


 みそのが外に向かって、新之助から手渡された真鍮製の笛を吹くと、気の抜けた風の様な音しか鳴らない。

 みそのが訝しんで何度も試していると、源次郎とその配下らしい黒尽くめの男が二人、闇の中から滲み出て来る様に現れた。


「どうかなさったのかな?」


 源次郎が配下の二人を待たせて、家の中へと入って来ると、智蔵達に黙礼をしてみそのに聞いた。


「はぃ。永岡の旦那の様子がおかしいので、もう一度、甫筑先生に診ていただきたいと思いまして、お呼びたてしました」


 みそのの言葉を聞いて、チラリと永岡を見た源次郎は、少し眉間に皺を寄せて顔色を変えた。


「承知した、暫し待たれよ」


 源次郎は言うや、身を翻して家から出て行った。

 物音も立てずに立ち去った源次郎の身のこなしに、智蔵も伸哉も息を飲んでいる。

 しかしみそのは、源次郎が永岡をチラリと見た後の、源次郎の表情が気になって仕方がない。


「旦那…」


 みそのは苦しそうな息使いで眠る永岡を見て、益々不安な気持ちになって来るのだった。



 *



 一方西海屋では、新田の願いで、火消し達が火の弱まった頃合いを見て、一斉に水をかけ入れ鎮火させていた。

 普段ならそのまま放置して、自然鎮火させるところだ。

 鎮火したとはいえ、未だ火事の熱が残った地面は、慣れた者でも薄い草鞋等では、立っていられないくらいの熱さで、焼け跡の探索には、皮張りの足袋を履いた火消し達が残って、町奉行所の協力をしていた。


「旦那ぁ〜、見つけやしたぜぇ〜」


 新田は雪駄に十分に水をかけ、声を上げた火消しの元へと駆け寄った。


「黒焦げじゃねぇかぇ。ひでぇもんだなぁ」


 新田は手拭いで鼻と口を押さえながら顔を顰めた。

 家屋の焼けた臭いと共に、人の焼けた異臭も漂っている。


「これじゃぁ、誰だか判ったもんじゃねぇなぁ」


「へい。あんだけ火が上がった火事でさぁ、こんくれぇは焼けちまいやすよぅ。未だこん火事ぁ、焼けちまったのが一人だからいいもんの、他にも居やがったら、誰が誰だか判ったもんじゃねぇですぜ」


 新田のぼやきに火消しは、今回はましな方だと言わんばかりに応える。


「そうだな。おめぇ達ぁ、もっとひでぇ現場を見て来てるってなもんさなぁ。今日はありがとうよ」


「なぁに、あっしらは町奉行所の配下でさぁ。こんなもんは何でもねぇですぜぇ」


 新田が残って協力してくれた礼を言うと、火消しの男は事も無気に言って笑った。


 西海屋の間取りを考えれば、この黒焦げの遺体が転がっている場所は、宗右衛門の部屋が有った所だと見当が付く。

 宗右衛門と由蔵以外の人間が避難していて、由蔵が逃走し、花又村で自害した事を考えれば、間違い無くこの亡骸は、宗右衛門としか考えられない。

 現在の様に、DNA鑑定などの科学調査が出来ないこの時代は、この様な状況証拠でしか判断する事が出来ない。


 新田は三木蔵達の元へと戻ると、その事を苦虫を潰した様な顔で話す。


「ちっ」


 新田は益々すっきりしない現状に舌打ちをして、目の前に広がる西海屋の無惨な焼け跡を、睨みつける様に眺めるのであった。



 *



「どれ、診させてもらおうかのぅ」


 桂川甫筑が乗った駕籠が着くと、夜中の診察にも嫌な顔一つせずに、飄々とした様子で永岡の眠る一室に入って来た。

 甫筑は永岡の顔を一目見ると、弟子に何やら耳打ちし、急ぎ患部の包帯代わりの晒しを外しにかかった。


「むぅ…」


 みそのや智蔵、伸哉が心配そうに見守る中、甫筑は唸り声の様な小さな声を上げて、一瞬自らの手を止めた。


「せ、先生、そ、それは一体ぇ…」


 智蔵が堪らず甫筑に声を上げた。

 智蔵から見ても、永岡の右の二の腕に出来た刀傷が異様に浮腫み、黄色黒く変色していたからだ。


「う、うむ」


 甫筑は智蔵に低い声でそれだけ言って、弟子から焼酎を受け取り、患部を洗い流す様に焼酎で消毒し始めた。

 先程と違って掛け流して盥に溜まった焼酎は、どんよりと曇った空の様に濁っていて、甫筑が傷口を押し出す様に洗った際には、粘り気のある黄色味がかった膿の様な物も、ボトボトと流れ落ちて来た。

 甫筑は尚も念入りに消毒し、新たに弟子から蛤に入れられた軟膏を受け取ると、傷口を塞ぐ様に厚く軟膏を塗って行く。


「ふぅ〜っ」


 甫筑が新しい晒しで腕を巻き終わると、大きく息を吐いて額の汗を手拭いで拭った。


「どうやら心配していた事が、起こっとる様じゃ」


 甫筑は残念そうに言って、みその達へと振り返った。


「し、心配していた事ってぇのは、そ、その、まずい状況なんでやしょうかぇ?」


 智蔵が恐る恐る聞き返すと、甫筑は何も言わずにただ小さく頷く。


「この御仁は応急処置を自分でしておったが、その時に川の水か分からんが、余り綺麗で無い水で洗い流したのかのぅ。先ず考えられるのはそんな所じゃが、そのせいで逆に、傷には良く無い事が起こっておる」


 確かに永岡は蘭丸から逃げている最中に、道端に有った用水桶から、水を掛け流して傷口を洗い、持っていた手拭いで傷口を縛って逃走を続けていた。

 因果な物で、今となってはそれが要因となり、逆に傷口を悪化させる事となってしまった様だ。


「た、助かるんでしょうか?」


 黙って話しを聞いていたみそのが、堪らず甫筑に叫ぶ様に聞いた。


「今は何とも言えんわぃ。まぁ、このままじゃと、助かるには右腕は切り落とさんと、どうにもならんと思うがのぅ」


 甫筑は無念そうに言って、大きな溜息を吐いた。


「………」


 みそのはうつむいたまま声も出ない。

 智蔵と伸哉も口をパクパクとさせて、何か言おうとするが言葉が出て来ない。


「とにかく、頻繁に消毒をして、何とか良い方向へと向いてくれる事を、願おうじゃないかのぅ」


 皆の落胆ぶりに、甫筑が励ます様に言って皆を見回した。


「お、おねげぇしやす。何とか永岡の旦那を助けてやってくだせぇ」


 智蔵は拝む様にして甫筑に頭を下げる。


「もうやれる事は、今の医術では余り無いのじゃ。それだけは分かってくだされ。じゃが、やれるだけの事はやって、助かる望みを繋ぐのじゃよ」


 甫筑は自分を含めて、皆に言い聞かせる様に言う。


「な、何が問題なんですか? どうしたら永岡の旦那が良くなるんですか?」


 みそのだけは執拗に、他の方法が無いのか食いさがる。


「う〜む。問題はと言うと、傷口が腐ってしまう様な状況に有る事じゃな。しかし、もうこうなってしまえば、これ以上毒が回らん様に傷口を清潔にして、本人の回復を待つだけなのじゃよ。本人の生きる力に頼るしか無いのじゃ、悪いがワシでもそれしか言えぬのじゃ」


 甫筑は先程も言った様に、経験上は出来る事は限られる事を繰り返す。


「………」


 みそのはうつむいて、膝の上に乗せた手が、着物をくしゃりと握りしめる。


「………」


 また沈黙がその場をはびこって行く。


「では、ワシもずっとは居られんので、消毒のやり方だけでも教えておこうかのぅ」


 甫筑が沈黙を破る様に切り出して、消沈している面々に淡々と説明しだした。

 説明は簡潔な物でさして難しい事では無く、確かに御典医が付きっ切りで、行わなければならない物では無かった。


「…後は刻を見てこまめにな。清潔な晒しだけは、余計に用意しておくのじゃぞ」


 甫筑は最後に穏やかに言うと、暫く永岡の脈やら瞼を開いて眼色を診たりして、状態を確認して今日のところは帰って行った。


「みそのさん、取りえずはあっしらが診ておきやすんで、先に休んでくだせぇよ」


 智蔵は、うつむいたままのみそのに声をかけると、自分達に任せて先に休む様に勧めた。

 みそのは涙に濡らした顔を上げると、存外素直に頷いて智蔵の勧めを受け入れた。


「あっしと伸哉で交代で診やすんで、良かったら朝まで休んでくだせぇ」


 智蔵が尚もみそのに声をかけると、


「いぇ、親分さん。少し休ませてもらいましたら代わりますので、それまでお言葉に甘えさせてもらいますね」


 みそのはそう断って永岡の顔を眺める。

 そしてみそのはやおら立ち上がると、力無く頭を下げて部屋を出て行くのであった。



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