第六十九話 黒染んだ着物
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
永岡の息遣いが、だんだん弱々しくなって来ている。
右の二の腕を斬られただけなのだが、思いの外深手で、血も多く流れてしまっている。
そんな手負いのまま歩き通しだった永岡は、既に体力も限界に来ている様だ。
「ったくよぅ」
血を失い頭が働かない自分に苛立ちを覚え、ぼそりと独り言ちる。
それでもなんとか歩いているのは、剣術で鍛え上げられた身体があってこそで、頭がぼぅっとして、考える力が衰えても尚、足だけは別の生き物の様に辛うじて動いている。
永岡は蘭丸から逃れる為に、随分と遠回りをする事になってしまっている。
本来押上村からであれば、吾妻橋か両国橋を渡れば、御蔵前に程近い西海屋の前にある茶問屋まで行けるのだが、永岡は今、両国橋よりも更に南下した、新大橋を渡っているところだった。
道行く人々は皆、血で黒染んだ着物でよたよたと歩く永岡を、ただただ呆然と見送っている。
永岡はそんな町の者達も目に入らぬ様で、無心に歩みを進めるだけであった。
*
「ここで間違ぇ無さそうだな」
新田は松吉が描いた絵図を見ながら、瀟洒な佇まいの一軒家を前にして言った。
急ぐ為に水路で行くことにした一行は、大川から宮戸川に変わり、そこから綾瀬川へと入って、綾瀬川から毛長川となる水路を辿り、鷲明神に程近い船着場で猪牙を舫うと、そこからは徒歩で、ここまで馳せて来たところだった。
「へい、ここに違ぇねぇでやすぜ」
智蔵が新田の持つ絵図を覗き込みながら大きく頷く。
辺りはすっかり薄暗くなって来ていた。
「もう悠長な事もしてらんねぇ、早速乗り込むぜぇ」
新田は十手を腰から引き抜き、皆に声をかけた。
「へい、合点でぇ」
それぞれ十手やら捕縄を出して、意気込んで応える。
「御用だっ!」
新田が勢い良く玄関戸を突き破り、中へと入って行く。
「御用だ、御用だっ!」
智蔵達も新田に続いて押し込んで行くと、中でガサガサと物音が聞こえて来た。
「旦那、あっちでやすぜぇ」
物音にいち早く気がついた広太が、新田に物音のした方を指差す。
「逃すなよっ」
新田が声をかけながら、広太の指差す先へと駆けて行く。
「うっ」
物音がした部屋の障子戸を開けて、新田は思わず固まった。
「なっ…」
智蔵達も同じく声も出ず、その場に立ち尽くす。
部屋の中には、首を掻き切った由蔵が、血塗れた小刀を握りしめて事切れていたのだ。
気を取り直した新田は由蔵の脈を診るが、すぐに首を横に振って、ドンっとその場で胡座をかいた。
「だ、旦那ぁ」
智蔵は新田に声をかけると、自分も由蔵の亡骸を調べる。
「今の今まで生きてやしたね」
智蔵はぼそりと亡骸を調べながら新田に言った。
念の為、体温や死後硬直具合を見て、殺された時刻を確かめていたのだ。
「あぁ、自分で首を切った様だな」
新田もそれが解っていたので、智蔵に力無く応えた。
「ここまで逃げて来て、首を切って死んじまうとはなぁ。ったく、やってられねぇぜぇ」
「でも万が一でも宗右衛門が一緒なりゃ、未だ遠くまでは、逃げて無ぇんじゃねぇでやすかぇ?」
新田が諦めた様に言うのに、智蔵が返す。
「用心棒達が居ねぇのも解せやせんし、当たるだけ当たってみやしょうよ」
「仮にそうだとしても、なんで由蔵だけがここで死んじまってるんだぇ? まぁ、そんな事ぁ後で良いかぇ…。そうだな智蔵、ここまで来たんだ、やるだけの事はやっておこうじゃねぇかぇ」
智蔵が更に進言すると、新田も気を取り直して腰を上げるのだった。
*
「あら。こんなに早く来て頂けるなんて、思ってもみませんでしたよう」
みそのが煙草屋を訪ねてから、一刻半ほど経った頃だろうか、新之助がひょっこりみそのの家に現れたのだ。
「火急の用って聞いたでな」
新之助はにっこりと笑ってみそのに応える。
「お忙しいお方なのに、我儘言ってすみませんねぇ。どうぞ上がってくださいな」
みそのは手早く濯ぎを持って来て、新之助を中へと促した。
「私もやっと慣れて来たんですよ」
みそのがニコリと笑って、新之助の足を濯ぎ水で洗いながら言う。
「すまんのぅ。ワシの頃ももうこんな習慣はなかったで、最初はちと戸惑ったもんだ。ふふ、まぁ、これだけでは無かったがのぅ」
新之助が遠い目をして笑う。
「では、お酒をご用意しますね。少しだけ待っててくださいね」
みそのは新之助を奥の部屋へと促して、酒の用意にかかった。
「何だか濃厚で美味いのぅ〜」
いつもの佃煮と一緒に、今日は特別に訳知りの新之助の為、みそのが勤める日本橋丸越の地下食で、『ケーファー』のソーセージやザワークラウト、ホッペルポッペル等、ドイツの惣菜をお土産に買って来ていた。
新之助は目を丸くさせて舌鼓をうっている。
「ん〜、これはかなり刺激的な酒じゃなぁ」
惣菜と一緒に、みそのはビールも持って来ていた。
「ふふ、私はそれが大好きなんですよ? もう無いと生きて行けないくらい。ふふ」
みそのが可笑しそうに笑っているのを、新之助は珍しい生き物を見るようにして、日本酒の入った猪口を口直しの様に呷った。
「で、何か解ったのかぇ?」
新之助がおもむろに、話しの本題へと水を向ける。
「あ、はぃ」
みそのは自分もビールを一口飲むと、座り直して姿勢を正す。
「ほぅ、早いな。っという事は…」
新之助は自分の家族の事だと思うと共に、こんなに調べが早いのは、みそのの夫の家が、正に新之助の兄弟の家だったのだと、察しが付いた様だ。
みそのは新之助に大きく頷き、やおら話し出した。
「そうなんです。先ず夫に尋ねましたら、その事が判ったのですよ。そして新さんには、残念な報告にもなってしまうのですが、妹さんの明子さんが亡くなっていた事も、同時に解ったのです」
みそのはそう言うと、哀悼の意を込めて深々と頭を下げた。
「そうじゃったか…」
新之助は未だ子供だった頃の、妹の顔を思い浮かべ、黙祷する様に、暫く目を閉じたまま動かなかった。
「それで、美穂子と健松は息災なのかぇ?」
新之助は目を開けると、残る二人の兄弟の事を気にかけた。
「はい、美穂子叔母さんはご高齢ですが、しっかりとされていて、お元気でいらっしゃいますし、義父は夫よりも元気なくらいですよ」
みそのはやっとニコリと新之助に笑いかける。
「それにしても千葉の松戸と聞いてたで、お前さんの義父は無いと思っとったのじゃがのぅ」
「はぃ。戦争が終わって暫くしてから、一家で松戸に出て来た様なんです。新さんが行方知れずになって、諦める他無くなった時に思い切ったそうですよ」
「そうじゃったのか、なるほどのぅ」
新之助を亡くして塞ぎ切った家族が、心を新たに暮らす為に、住む場所を変えたとの事だった。
「義父は新さんに可愛がられた記憶もあって、夫に新さんと同じ『良太郎』と名付けたそうなんですよ。それもあって夫は産まれた時から、叔母さん達に大層可愛がられたみたいで、夫と結婚した私までも、凄く可愛がってくれていたんです。みんな新さんの事が大好きだったんですね?」
みそのは子供の頃に生き別れた、仲の良い兄妹の事を考えて、少し遠くを見る様にして言う。
「ワシも忘れた事など無かったからのぅ」
新之助はその頃を思い出しながら、目に光る物を蓄えていた。
「明子叔母さんが亡くなる前に、私と新さんが一緒に遊んでいる夢を見たって、美穂子叔母さんに話していたそうなんですよ」
みそのは夫から聞いた何かの暗示の様な、不思議な話しを新之助に話した。
「ほぅ、明子がなぁ」
「何かの暗示なのでしょうかねぇ?」
新之助も関心を示したので、みそのは新之助に聞いてみる事にした。
「まぁ、明子の事じゃ、暗示と言っても悪い事では無かろう。人間は死を前にすると、別の力を発揮する事も有るそうじゃ。第六感と言うヤツじゃろうかのう。明子にはそんな力が働いて、時空を超え、こっちの世界を見させていたのかも知れんなぁ。とにかく案じる事は無かろう」
新之助が優しくみのそに言った時、玄関戸に何やらぶつかる様な、大きな音が聞こえて来た。
「ひゃっ」
みそのは飛び上がる様にびっくりして、新之助を見ると、新之助は手でみそのを制しながら頷き、刀を掴んで玄関へと様子を見に行った。
「な、永岡の旦那ぁっ!」
みそのは恐る恐る新之助の後を追って、玄関へ見に行くと、新之助に抱き抱えられている永岡が目に飛び込んで来たのだ。
その永岡はぐったりと気を失っている。
「源次郎っ!」
新之助は近くで護衛しているであろう、源次郎を大声で呼ぶ。
「だ、旦那ぁ! 永岡様っ」
みそのは永岡に駆け寄り、すがる様にして永岡に呼びかける。
「未だ脈は有る、床の用意をせよっ」
新之助が泣き噦るみそのに、厳しい顔で言った時、源次郎が駆けつけて来た。
「医者じゃ、医者を呼んで来るのじゃ」
新之助の言葉に源次郎は無言で頷き、矢の様に医者を呼びに出て行った。
みそのは動転しながらも、永岡を寝かせる床の用意に走る。
『永岡様、永岡様、永岡様、永岡様…』
みそのはその間も、心の内で何度も永岡の名前を祈る様に唱える。
「旦那死なないでっ」
先ほどの血で黒染んだ着物の永岡を思い出し、みそのは堪らず声に出す。
そしてみそのは、涙が止めどなく溢れるまま、必死に床の用意をするのだった。




