第六十六話 予期せぬ事態
「来やしたぜぇ」
物見に行っていた伸哉が息急き切って駆け込んで来た。
「いよいよだな。先ずは猪吉と長助にゃぁ、怪我の無ぇ様にやらねぇとな?」
永岡は伸哉の報告を聞くや、顔を引き締めて智蔵達を見回した。
「じゃぁ、新田さん。段取り通りでお願いします」
「おぅ、任せとけ」
新田がニヤリと笑うと、永岡はやおら立ち上がり、件の一軒家とは別の方角へ歩いて行った。
永岡の言う段取りは、伸哉が使いの者に化けて声をかけ、戸が開いたところで猪吉達に支障が無い様であれば、一気に新田達が踏み込んで、巳吉を捕らえる策なのだが、万が一人質を取られたり、裏から逃げられたりした時の事を考え、裏を固めておく為に永岡が出張って行ったのだ。
「頼んだぜぇ」
巳吉の姿が微かに見えて来ると、新田が周りを見渡して皆に声をかけた。
*
「ご苦労さん、ご苦労さん。どんな塩梅だぇ?」
巳吉が鷹揚な物腰で、猪吉と長助がせっせと作業をしているところへやって来た。
これだけ見たら、一見遣り手の商売人に見えなくもない。
「へい。今ぁ半分ぐれぇ、紙ん袋さ入れ終わったとこだでよぉ」
猪吉が手を動かしながら報告する。
中々手慣れたもので、手元を見なくとも作業を続けている。
「うんうん。もうじき昼時だから、切りの良いところで昼餉にしなせぃ」
巳吉は外では見せない様な、人の良さそうな顔で頷いている。
「へいへぃ。お気づかいくだすってありがとうごぜぇますだ。ほんだけんど、まぁすっこすやっだら、昼さぁさせていただくだぎゃなぁ」
猪吉と長助は微妙な表情で顔を見合わせて、巳吉に応える。
二人共、何やら後ろめたい心持ちになって来ている様だ。
「長助ぇ、オラ達ぁこんだでええんじゃろかいのぅ」
握り飯を食べながら、猪吉が小声で長助に囁いている。
いつも気づかってくれる巳吉を前にして、本当に悪事を働いているのか、不安になって来た様だ。
「そんだぎゃなぁ。オラも同じだでぇ、こんだで、ええんじゃろかと思うとったとこじゃたんだがよぅ」
二人がひそひそと話している時に、誰かが戸を叩く音がした。
巳吉はその瞬間、今までの鷹揚な所作と表情から一転、機敏に鋭い目で戸口を見た。その変貌した巳吉を二人は目にして、猪吉も長助も、握り飯を咥えたまま固まってしまっていた。
「西海屋の晋助でございますぅ。番頭さんが火急の用だとの事で、使いでやって参りました」
巳吉は眉間に皺を寄せて訝しむ。
巳吉は懐手にしながら、この家の守り役でもある下男に、目顔で対応する様に指図する。
「へいへい。今開けますで、ちょっと待っておくんなせぇよ」
下男はそう言いながら戸口に近付いて行く。
「西海屋さんが何の御用ですかな」
玄関戸を引き開けるながら下男が言うと、伸哉が腰を屈めながら、懐から文を出して中へ入って来た。
「番頭さんから、この文を預かって参りました」
伸哉が頭を下げながら巳吉に文を差し出すと、巳吉はいくらか安心した様で、下男に文を受け取る様に目顔で指示する。
下男が伸哉から文を受け取った時、新田が疾風の様に現れ、目にもとまらぬ速さで小太刀を抜いた。
狭い部屋の中では、太刀よりも小太刀の方が都合が良いからだ。
「巳吉、神妙にお縄につきやがれぃっ」
新田が言った時には、もう既に裏口の方へ移動しつつあった巳吉は、懐から短刀を抜き払いながら更に裏口へと駆け出した。
「や、野郎っ」
新田は逃がすまいと巳吉に続くが、側に居た下男の鳩尾へ太刀の柄を入れて転がす。永岡が後詰めしていればこその余裕だった。
「むっ」
巳吉が裏口に消えた瞬間に、短い呻き声と共にドスっと鈍い音がして永岡が現れた。
「仕事を作ってもらっちまった様で」
永岡は新田にニヤリとやって頭を下げた。
そこへ智蔵と伸哉が駆け寄って巳吉に縄を打つと、早速巳吉に活を入れる。
「痛つつつつっ」
巳吉は意識を取り戻すと痛みが来たのか、首筋を押さえながら周りを見渡す。
「色々聞きてぇ事があるんだがな。ゆっくり喋ってもらおうかぇ?」
永岡が十手で肩を叩きながら、巳吉の前にしゃがんで顔を覗き込む。
「しゃ、喋る事なんぞ何もねぇやぃ。さっさと縄を解きやがれっ」
粋がった巳吉はそれでも虚勢を張る。
「ま、時間はあらぁな。こっちでゆっくりと聞くとするかぇ?」
新田が手招きをしてニヤリと笑った。
「おぅ、余り新田さんの前『めぇ》で、粋がらねぇ方が身の為だぜぇ?」
永岡は自分の肩を叩いていた十手を、巳吉の肩に軽く落として、そう真顔で言って立ち上がった。
*
社食で軽く食事を済ませた希美は、コーヒーを飲みながらまた考えにふけっていた。
「新さんには伝えてあげなきゃだけど、こんな巡り合わせって、一体どんな意味があるんだろう」
希美は小さく独り言ち、コーヒーを一口啜る。
「あっ」
希美のポケットの中で携帯が振動している。
「良太郎だ」
希美は夫からの着信に少し躊躇いながらも、画面をタップして電話に出た。
「あっ、もしもし。うん、今社食。大丈夫、大丈夫。うん、うん。ごめんね。うん、えっ、叔母さんそんな事言ってたの? うん、分かった。うんうん。じゃぁ調整してみる。うん。そっ、そうだね、うん。じゃまたね、はぁい」
夫からの電話が終わると、希美は暫く携帯を眺めているのだった。
*
「それだけかぇ? ん?」
新田がジロリと巳吉を見て、小太刀で削り取った畳針の様な木片を、手のひらでコロコロと転がして目を細めている。
「ひっ」
巳吉は不気味に笑っている新田に、身震いしながら首を何度も縦に振っている。
猪吉と長助も青い顔をして、所在無気に縮こまっている状況だ。
「永岡の旦那に、知らせて参りやす」
新田の側で一部始終を見ていた智蔵が、新田に大きく頷いてやおら立ち上がった。
永岡は巳吉の調べを新田に任せて、佐吉の家の裏手にある見張り場へと、次に現れるであろう飯田を見張る為に、伸哉を連れて先に戻っていたのだ。
「旦那ぁ、やはり巳吉の野郎は、由蔵に金で雇われてるだけで、知ってる事は大して無ぇ様でさぁ。まぁ、由蔵との繋がりだけでも聞き出せりゃぁ、元より上々でやすがね」
「まぁ、そんなこったろうょ。とにかく関わりは掴めたんでぇ。飯田をお縄にしたら、西海屋へ堂々と乗り込めるってぇ事よ」
智蔵が、永岡と伸哉が潜んでいる雑木林の中へ入って来て、先程の新田が巳吉から聞き出した事を報告すると、永岡も予想していたと言わんばかりに言って、西海屋の捕縛に目をギラつかせた。
「おぅ」
永岡が智蔵に目配せをすると、目線の先に、留吉が小走りでこちらに向かって来るのが、小さく見えて来たところだった。
「思ったより早ぇ到着でやすねぇ」
智蔵は留吉に気がついて永岡に応えた時、永岡が眉間に皺を寄せ、
「智蔵、ありゃ何かあったに違ぇ無ぇぜ」
と、留吉の方を凝視しながら囁いた。
「た、確かにそうみてぇでさぁ」
智蔵も良く見ると、留吉は小走りと言うより懸命に駆けていて、先程よりも格段に近づいていて、表情も何やら只事では無さそうにも見えた。
「て、大変でさぁ。はぁはぁはぁはぁ、こ、殺されちまいやしたっ、はぁはぁ」
留吉が息急き切って現れるや、呼吸を荒げながら必死に報告をする。
「な、何っ。殺されたってぇのは、飯田の事かぇ?」
永岡と智蔵が同時に問い質す。
「へ、へい。そ、その通りでさぁ。はぁはぁ、あっしと三木蔵親分が後をつけていやしたら、通りがかりの浪人風の男に、急に斬られちまいやして」
留吉は少し呼吸を整える様に間を空けて、話しを続ける。
「き、斬られたってぇ言っても、はっきり見えた訳じゃぁねぇんでさぁ。飯田と浪人風の男がすれ違った時に、何か光った様な気がしただけでやして、飯田がその男とすれ違って、二、三歩進んだところで、膝から崩れ落ちる様にして倒れやしたんでやす。そんで三木蔵親分が、ありゃ尋常じゃねぇって言うもんで、駆けつけやしたら、飯田は既に首の皮一枚ってぇ状態で、事切れていたって訳でさぁ。三木蔵親分が後始末するってぇんで、あっしは先に旦那達の元へ知らせに、すっ飛んで来やした」
智蔵が永岡を見て頷くと、永岡も大きく頷く。
「間違ぇ無ぇな。あの野郎に違ぇ無ぇ」
永岡は天を仰ぐ様にして一呼吸置く。
「伸哉、留吉に佐吉んところから、水でも貰って来てくんねぇ」
「へ、へい」
伸哉がすっ飛んで行くのを見てから、智蔵に振り返る。
「智蔵、あの野郎は、オイラ達があの家を抑えたのに勘付いたに違ぇ無ぇ。もしかしたらあの野郎、あの家から出て来る所を待ち構ぇて、襲って来るかも知れねぇな?」
「ひ、人を集めやしょうかぇ。旦那」
「いや、人を集めたところで犠牲者が増えるだけだし、未だそうとは決まっちゃいねぇや。ってぇ言ってもほぼ決まった様なもんかねぇ。ふふ」
「だ、旦那ぁ」
智蔵が永岡の様子に不審な物を覚えて、縋る様に見る。
「兄ぃ、どうぞ飲んでくだせぇ」
「すまねぇな」
伸哉が留吉に桶で水を汲んで来て、留吉が口端から零れるのも気にせず、ゴクゴクと喉を鳴らしながら、美味そうに飲んだ。
余程喉が渇いていたらしい。
「留吉、大丈夫かぇ?」
「へ、へい。ありがとうごぜぇやす」
永岡は留吉が落ち着いた所で声をかけると、件の家を顎で指し、皆を促して歩き出した。




