第六十三話 北忠の心意気
「おぅ、邪魔するぜぇ」
道庵の診療所に、永岡と松次が入って来ると、北忠は丁度、粥を啜っているところだった。
「あっ、永岡さ…痛たたたたっ」
北忠は永岡に振り返った事で傷が痛んだらしい。
最初に運ばれて来た時の事を考えれば、北忠は順調過ぎる程の回復を見せているのだが、やはり未だ未だ傷が痛む様だ。
「おぅ、余り無理するねぇ。そのまま、そのままな」
永岡は、北忠が座り直そうとするのを制止して、楽な姿勢で聞いてくれと願う。
「でも随分と良さそうじゃねぇかぇ。そんだけ食欲が有りゃぁ、先ず大丈夫だろうょ」
永岡は北忠が持っている空のお椀を覗き込んで笑った。
「はぃ。でもそろそろ粥も飽きて来まして、うんざりしていたところだったのですよぅ」
北忠の給仕をしていた道庵の女中が、それを聞いてクスクスと笑う。
「ふふ、まぁそう言う事にしておこうかぇ。ま、元気になったら、また豆藤にでも連れてってやるから我慢しろぃ。早く良くなれよっ」
永岡は女中の様子から、北忠は出された粥を、美味そうにペロリと平らげているのだと容易に想像がつき、少し安心した心持ちで励ました。
「今日来たのは、例の猪吉と長助の二人の事なんだがな?」
永岡が余り長居しては傷に障るとばかり、早速本題に入りながら北忠の脇へと座った。
松次もその後ろに控えている。
「あの二人がどうかしたのでございますか?」
北忠は二人に何か有ったのでは無いかと、恐々としながら永岡に聞き返す。
「ふふ、余程良い奴らなんだなぁ、あの百姓は」
永岡は松次といい、北忠といい、あの百姓を心配するさまに、思わず笑いが漏れてしまう。
「大丈夫だ忠吾、あの百姓達は無事だぜぇ。お前に会いに来たのは、お前の意見が聞きたくてな。こいつは松次が言い出した事なんだが、あの百姓達を、こっちの味方になる様に説き伏せて、情報を流してもらおうって事になったんでぇ。その見返りに百姓達は無罪放免って訳なんだが、お前は、二人がこっちに協力してくれると思うかぇ?」
「あの二人が協力しないって、言ったらどうなるんです?」
北忠は逆に永岡に聞き返した。
「まぁ、その可能性が高ぇ様なりゃ、このまま泳がして、ある程度博打は承知で、こっちも動くしかねぇだろうなぁ。もし大丈夫だと踏んで話した後なりゃ、そりゃぁ捕らえる他ねぇさな」
永岡は苦虫を潰した様な顔で言う。
「そうですよねぇ…」
北忠もやはりそうなるのだと、半分解ってはいたが、改めてがっくりとして呟く。
「正直、私もあの二人が、絶対協力してくれるとは言い切れません。なにせお国の殿様の為と思って、やっている節もございましたからねぇ」
北忠は沈んだ様に言う。
「永岡さん、私が行って説得しても良いでしょうか?」
「な、何を言ってやがるんでぇ。そんな身体で行ける訳ねぇじゃねぇかぇ。って言うか行かせねぇぜ」
北忠が上目遣いに懇願する様に言うので、永岡が慌てて否定した。
「いや、ですからそこは、どなたかに私を運んで頂いてですね。ど、どうでしょう永岡さん?」
「ど、どうって言われてもなぁ。それで傷が開いて、取り返しがつかねぇ事にでもなっちまったら、どうするんでぇ。忠吾、そいつぁ駄目だ」
永岡は北忠の申し出を受け付けない。
「では道庵先生に、ついて来てもらってはどうでしょう?」
「ふふ、ったくお前はよぅ」
北忠の必死な様子に呆れながらも、永岡は仕方無く、道庵の許しが下りれば認める事にした。
「まぁ、決してお勧めは出来かねますが、北山様が是非にとの事でしたら、私が付いて行けば何とかなるとは思いますが」
道庵は困りながらも、北忠の懇願に負けて永岡に話した。
「永岡さん、お願いします」
北忠も道庵の言葉尻を待たずに頭を下げる。
「分かった、分かったよぅ。後で人を手配りして来っから、それまでゆっくり休んでろよ? じゃぁ先生、悪りぃが宜しく頼むぜぇ」
永岡はついに北忠に押し切られて、六郷村へ向かう事を了承し、やおら立ち上がった。
「松次、これで駕籠屋でも口入屋でも良いから、人を四人ばかりと、それと戸板も用意して、道庵先生のとこで待っててくんな。オイラが戻ったら出発でぇ」
「へい、合点でぇ!」
永岡は銭の入った巾着を松次に渡すと、松次は喜び勇んですっ飛んで行った。
「ふふ、あの百姓達も幸せな奴らだぜぇ」
永岡は独り言ち、北忠と松次がここまで想っている百姓達に苦笑いする。
寒空の中歩いている永岡は、身体の内側がぽかぽかと暖かくなるのだった。
*
「よしっと」
希美はメールを書き上げて送信すると、グラスに入った残りのビールを一気に飲んだ。
「ん〜っ、やっぱりビールが無いとダメだわぁ〜」
希美が江戸から帰ると、真っ先にする何よりの楽しみがこれだ。
希美は至福のビールを飲みながら、夫に新之助から聞いた事を確かめる為に、何気なく義父の兄弟の事を問い合わせるメールを打っていたのだ。
「あっ、そろそろ旅行の日だったわぁ。確か今年は、北海道に行きたいって言ってたわよねぇ…」
希美は夫との年に一度の旅行が、来月に迫っていた事に気がついた。
永岡と深い仲になってから、初めて夫と長い時間を共にする事に、少し不安な気持ちにもなり、希美はその時の事を想像して、まんじりともしない夜を過ごす事になってしまう。
*
「どうでぇ、智蔵」
永岡は北忠の所から、智蔵の居る番屋へと駆けつけて、到着するなり智蔵に典男の様子を伺った。
「へい。未だ若ぇせいか、粋がってはいやしたが、黒猫一家にゃそれ程恩義も無ぇのか、罪を軽くしてやるって条件を出しやしたら、難なく承知しやしたんでぇ」
典男は今、部屋の隅で留吉に何かを言われている様で、ぺこぺこと頭を下げながら頭を掻いている。
「北山の旦那の方はどうでやした?」
智蔵も永岡の方の首尾を聞くと、永岡は苦笑いしながら、事の次第を話して聞かせた。
「そうでやしたかぇ。北山の旦那もお優しいお方で」
智蔵はほっこりと笑い、
「それで、これからはどうしやす?」
永岡にこれからの段取りを確認した。
「先ず忠吾を六郷村まで連れて行って、百姓二人を上手い事説き伏せてもらってから、色々と後の手配りが決まって来る感じさな。ま、とにかくそれからだな。留吉にこの事を広太達に報らせに走らせて、悪りぃがお前も、オイラと忠吾に付いて来てくれねぇかぇ?」
永岡は智蔵にも六郷村へ同行を頼み、留吉には繋ぎを頼む事にした。
「おぅ、典男っ。明日の働き次第で、お前ぇのこれからも決まって来っからなぁ。明日は上手くやるんだぜぇ」
「へ、へい。きっと上手くやりやすんで、どうか寛大な沙汰をお願ぇしやす」
永岡に声をかけられた典男は、留吉に促されて深々と頭を下げると、首尾良くやる代わりに永岡へ恩情を願った。
「早速行こうかぇ」
「へい。留吉、後は頼んだぜぇ」
永岡の声かけに、智蔵は留吉に目配せして後に続くのだった。
*
「おぅ、松次。早ぇなぁ」
永岡と智蔵が道庵の診療所に戻ってみると、裾を尻っぱりょりした駕籠舁が四人、すでに揃っていて、準備万端、戸板に布団を敷いた物まで用意して待っていた。
「へい。旦那の心付けが効いたんでやしょう。競って名乗りを上げやがったんで、逆にここへ来られなかった奴らを宥めるのに、手こずったくれぇでやしてね。万事順調でさぁ」
松次が満面に笑みを浮かべて言う。
永岡は、戸板の上に敷かれた布団を見ながら満足そうに頷き、そのまま中の北忠の所へと向かった。
「少しは休めたかぇ?」
北忠はあの後、粥を食べたばかりだった事もあり、待っている間はいくらか寝ていた様だった。
そして今、永岡が顔を出すと、身体を起こして自分は大丈夫だと示す様に、永岡へ笑って寄こした。
「うむ。じゃぁ忠吾、頼むぜぇ。今、先生にも声をかけて来っから、じき出発だぜ」
永岡はそのまま道庵の元へと足を運んだ。
「それじゃぁ、頼むぜぇ」
「へい、合点でぇ」
駕籠舁達は待っている間に、寒さしのぎにと酒も出されていたせいか、意気揚々と応え、北忠が布団に寝かされた戸板を軽々と持ち上げた。
その横には綿入れを着込んだ道庵が、北忠の様子を見ながら付いている。
「それじゃぁ行くかぇ」
永岡は智蔵に小さく声をかけると、歩き出すのであった。
*
「おぅ、留吉、永岡はどうしてぇ?」
新田が息急き切って入って来た留吉に声をかけた。
新田はこの少し前に、奉行所から茶問屋へと戻って来ていた。
「へ、へい。北山の旦那が自ら出向いて、百姓達を説き伏せるってぇんで、親分も一緒に六郷村へ向かってまさぁ。そして百姓達をこちらの味方に引き入れる事が出来やしたら、明日の予定を聞き出しやして、黒猫の典男を使って、飯田を押上村まで呼び出すってぇ寸法でさぁ」
「永岡も強引な奴さなぁ」
「い、いえ。北山の旦那のたっての願いってぇ事でさぁ」
「ほぅ、北忠がなぁ。まぁ彼奴らしいっちゃ、らしいが、大事無ぇと良いがなぁ」
新田は心配する様な事を言いながらも、頬を緩めている。
「留吉、お前は明日、典男と一緒に飯田の所へと行くのかぇ?」
「未だ何とも言われちゃいやせんが、きっとそうなるかと思いやすが?」
「そしたら誰か連れて、飯でも腹に入れて、少し休んでおきねぇ」
「いや、親分達も未だ働ぇてやすんで…」
留吉は新田の言い付けに、智蔵達の事を思って困惑しながら応える。
「こんなとこに、大勢で詰めててもしょうがねぇさな。身体を休めるのも大事な仕事よぅ。誰か一人連れて飯食って寝ちまいねぇ。後は三人も居りゃぁ、交代で飯も食えるし、事は足りるって事よ。ほら行って来ねぇ」
「へ、へい」
最後は新田が有無も言わさぬ鋭い目を向けると、留吉も流石に従わずには居られずに、首を縦に振った。
「それじゃぁ兄ぃが、留吉兄ぃと先に行って来てくだせぇよぅ」
伸哉が広太に勧めたので、留吉と広太が先に飯に行く事になった。
「それにしても、お前まで残る事ぁ無ぇのになぁ」
伸哉がニヤニヤしながら翔太を小突く。
「兄ぃ、あっしはこっちの水が合ってるんでさぁ。さっきお願ぇしやした、智蔵親分への仲立ち頼んますよぅ」
翔太は智蔵に伸哉達の様に、下っぴきとして使ってもらいたくなった様で、伸哉に智蔵に口添えをお願いしていたのだった。
「ほぅ、荒神から智蔵へお鞍替えってか。まぁ、お前もその方が身の為でぇ。オイラからも言っといてやるから、精々励むんだな」
「よ、よろしくお願ぇしやす!」
翔太は新田の言葉に上気して、思わず大声で頭を下げながら頼んだ。
「おいおい、一応見張りをやってんだから、そんなでけぇ声を出すねぇ」
「へ、へい、こりゃすいやせん」
伸哉が呆れて翔太を叱ると、上気した翔太は益々顔を赤くして、頭を掻きながら謝る。
「先ずは明日だな」
新田は小さく独り言ち、すっかり伸哉に懐いている翔太を見ながら、頬を緩めるのであった。




