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第六話 お園さんとの別れ



 ポンッ


「一応儀式だからね」


 希美は江戸から戻って缶ビールを飲み終え、今、ワインのコルクを開けたところだ。

 ボジョレーヌーボーの解禁日から一月ほど経つと、希美の勤める日本橋丸越の社員通用口に、社員が帰る時間に特売品として陳列されるのだ。

 希美はこれを、本当のボジョレーヌーヴォーの解禁日として、毎年欠かさず購入して楽しんでいる。


「やっぱ私はルービーなんだよなぁ〜」


 一口飲んで、これまた毎年欠かさない同じセリフを言う。

 口が合わぬのならば、買わなくても良い様なものだが、希美はこれを儀式の一つとして、毎年楽しんでいるらしい。


 希美は一杯目のビールを飲みながら、携帯のチェックはしている。夫は相変わらず、研究にのめりこんでいるとの事で忙しそうだ。



「それにしてもあの陳列はないよなぁ〜」


 ボジョレーヌーボーでは無く、今日訪れた甚平の父親、甚右衛門の古着屋の風景を思い出し、希美はぼやく様に独り言ちた。

 これは甚右衛門の店での騒動が収まり、初めて冷静に店の中を見回した希美が、真っ先に思った事だ。

 ゴチャゴチャと雑然と置かれた古着の山に、店内に漂うカビ臭さ、洋服を扱う仕事をしているだけに、気になってしょうがなかったのだ。


「さて、どうやってあの店を変身させてやろうかしら」


 希美はこれからのプロジェクトを考えると、顔がにやけてくる。思いもかけない流れで、こんな楽し気な事が出来るなんて、我ながら大した機転だと思う。


「ま、何にしても、みんなお園さんのおかげなんだけどねぇ」


 実はお園さんは生前、みそのの為に、百三十両程のお金をのこしてくれていた。

 しかも、百両は両替商に預け、利息で増える様な段取りで、三十両程は細かな銭に分けて遺され、すぐにでも使える様な用意周到さだった。

 贅沢する事なく暮らせば、百両の利息分だけでも、十分一年は食べて行ける大金である。


「お園さん、ありがとね……」


 希美はお園さんとの最後の別れを思い返す。



 *



「みそのちゃん、それではこれにサインして、この封筒に入れて送っておいてくださいね?」


 お園さんは、何年も掛けて段取りをつけていたと言う、相続の書類を戸棚から出して言った。

 今二人は、希美がこの家へ来る様になってから、初めて入る部屋に居る。

 段梯子を掛けて登って入る、二畳程の物置き部屋の様な屋根裏で、そもそも希美はこの部屋の存在を知らなかった。


「そこの弁護士さんが、後は全て手続きしてくれて、死亡届けも出しておいてくれるのよ。色々と便利な時代よねぇ。こっちは?」


 希美が承諾してから、お園さんは俄かに生気を取り戻したかの様になり、特に今朝はすこぶる調子が良さそうだ。


「お園さん、本当に今日なんですか?」


 希美は、このままお園さんが元気を取り戻して行き、まだ一緒に過ごせるのではないのかと思っている。


「あちらでも色々とやる事がありますのでね。今がその時だと思うのですよ」


 お園さんが、慈愛を込めた目で希美を見る。


「この戸棚が入り口なのですよ?」


 お園さんは振り返ると、先程の書類が仕舞われていた戸棚を眺めた。


「みそのちゃんも使っていいのよ? でもね、一つだけ注意が必要なの」


 希美は静かに聞いている。


「この入口はどういう訳か、一人しか通れない様になっているみたいなの。正確には、最後に通った人しか、戻って来られないという意味ですがね?」


 お園さんは少し悲しそうな顔をして続ける。


「だからね、私があちらへ行った後でも、みそのちゃんもここを通って行けば、私にいつでも会えるし、こちらにも、いつでも戻って来られるのですよ? ですから、まだ最後の別れと言う訳では無いのですからね?」


 黙って聞いていた希美は、漸く独り言の様に口を開く。


「そしたらお園さんは、もうこっちには、戻って来られなくなるという事なんですよね?」


「私は最後は江戸でと決めているのですから、気にする事は無いのですよ?」


 希美の思いを推し測る様にして、優しくお園さんは言った。


「これはみそのちゃんに…」


 お園さんは懐から白い封筒を取り出して、希美に差し出した。


「お手紙書いたの、直接話すよりも、上手く伝えられると思いましてね?」


 お園さんは涙を隠す様に、満面に笑みを作って言う。


「今は恥ずかしいから、私があちらへ行った後に読んでくださいね?」


 お園さんは、封筒を掴んだ希美の手を両手で包み込む。

 次第に力が加わり、そして心地よい圧迫感がなくなった時、お園さんは正座していた姿勢を正していた。


「みそのちゃん、ありがとうね」


 そう言って、お園さんはゆっくりと頭を下げる。


「行ってまいりますね」


 お園さんか深々と頭を下げているのが、希美には涙で目が霞んで、ぼんやりとしか見えなかった。

 お園さんは立ち上がり、希美を一瞥して微笑んだ様に見えたが、希美には、やはりぼんやりとしか見えない。

 そして、お園さんは戸棚を開けて中へ入って行くと、希美には、ぼんやりともお園さんを見ることが出来なくなった。


「本当だったのね、お園さん…」


 戸棚を見つめていた希美は、そう呟いて、手に持った封筒に目をやり、暫くその姿勢のまま時を過ごす。

 そして、古い戸棚がぽつりと残された小部屋を後にし、段梯子を降りて行った。




 *




 希美は数日しても、あの部屋へ行っても戸棚を開ける事はなかった。

 それにお園さんから貰った白い封筒も、開封されていない。

 希美は、またお園さんが気が変わって、帰って来たくなった時の事を考えていて、お園さんの帰りを待っているのだ。


 夫にはこのお家の事は話してある。

 次の夫の休みの時に、一緒にここへ来る事になっているのだが、この部屋の戸棚の秘密は話していない。


「やっぱり…お園さんは戻ってこないのかしら……」


 力なく独り言を言うと、また段梯子を降りて行く。

 お園さんが居なくなってからというもの、希美の日課の様になっているのだった。




 *




 一月ほど経って希美は、いつもの日課となっている、この部屋へとやって来ると、戸棚の前で小一時間程座っていた。

 夫は先週やっと休みが取れて、一緒にこの家を見に来ている。希美と同じ様に夫はこの家が気に入った様で、その日は二人で掃除をして帰って行った。

 帰り際に夫は今の家を引き払って、こっちに引っ越しても良いとまで、言っていたくらいだった。


『お園さん、夫も気に入ったみたいですよ。でもまだお園さんが居なくなったとは思えないんです。一度で良いから戻って来てくださいょ…』


 希美がそう心の内で呟いた時、何処からか風が吹いた様に、ふっと希美の髪が撫でられた。


「みそのちゃん、あまり無理して来ることないんですよ。みそのちゃんの来たい時に来るで、私は大助かりなんですからね」


 いつだったかの、お園さんの言葉が蘇ってきた。

 希美はハッとして戸棚を見た。

 戸棚はいつもと変わらずにそこにあるのだが、胸騒ぎがしてたまらない。


『もしかして…』


 と、希美は立ち上がり、戸棚を開けて封筒を手に取り、その身を戸棚の中へと投じる様にして、その中へと消えて行った。


 *


 戸棚の先は、今の今までいた部屋と全く同じで、自分が何をしたのか記憶を失った様な、そんな錯覚にも似た不思議な感覚になり、暫く頭が働かなかったが、


『お園さん』


 希美は心の内で叫んで段梯子を降り、いつもと同じ様に寝室へと向かった。



「お園さん」


 今度は声に出して、布団に横になっているお園さんを呼んだ。

 お園さんの顔がかすかに動いた様に見え、急いで希美は駆け寄った。


「お園さん、希美です。みそのです。お園さんっ」


 薄っすらと目を開けたお園さんは、天井を見て力なく微笑んで頷いた。


「お園さん、ごめんなさいね。もっと早く…」


「早く来れたのに私ったら…」


 そしてお園さんの手を取った手に、希美の涙が頬を伝い、ぽつりぽつりと顎からこぼれ落ちた。


「みそのちゃんの来たい時に来るで、私は大助かりなんですからね…」


 天井を見つめたまま、お園さんは聞こえるか聞こえないかの、弱々しい声で応えてくれた。


「お園さん」


 希美はお園さんの手を握りなおし、自分の額に押し当てながら、


『ごめんなさいね、ごめんなさいね…』


 と、心の内で繰り返した。

 そして希美は、お園さんの顔に自分の顔を近づけると、


「毎日の様に来ちゃうかも知れませんよ。覚悟しといてくださいね…」


 希美は精一杯の笑顔を作ってそう言った。

 そして精一杯の笑顔からこぼれ落ちる涙が、お園さんの顔を濡らした時、お園さんは薄っすらと微笑みながら、眠りに落ちる様に逝ってしまった。

 希美はお園さんを抱き寄せ、暫くそのまま、肩を揺らしながら、今生の最後別れを惜しむのだった。



 冷たくなったお園さんを前に、希美は懐から封筒を取り出し、開けたら遺書となってしまいそうで、怖くて開けられなかった封を切る。


 静けさの中で希美は、それを涙と一緒に読み進めて行くのだった。



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