第五十八話 心配のお煎餅
「弘次の奴ぁ、やけに遅ぇなぁ」
永岡は外の様子を見ながら、先程から何度目かの同じ言葉を吐いた。
永岡達は、隅田村から見張り場の茶問屋へと戻ると、一人見張りを続けていた広太と合流し、茶問屋の二階から西海屋の様子を伺っていた。
そして永岡は、もうとっくに戻って来ても良さそうな、弘次の戻りをジリジリしながら待っていたのだ。
もう辺りはすっかりと夜の闇が立ち込めて来ている。
「何かあったんでやしょうかねぇ?」
永岡の後ろから外の様子を見ている智蔵も、流石に心配になっている。
「無事で居てくれりゃぁ、良いんだがなぁ」
永岡が言った時、西海屋の脇の路地から、よろよろと弘次らしい影が現れた。
「こ、弘次っ」
永岡が慌てて部屋を飛び出して行く。
「広太っ」
智蔵が広太に目配せして、それに続いた。
永岡が道の真ん中に倒れている弘次に駆け寄ると、弘次は血の気のない顔を永岡に向け、ぐったりと首を垂れた。
「弘次、しっかりしろぃ。弘次っ」
永岡が弘次を抱き寄せ、揺さぶりながら声をかける。
「旦那ぁ、あまり動かさねぇ方がっ」
後から追いついた智蔵が、永岡の肩を押さえて止めると、弘次の脇腹辺りを目で示した。
弘次の脇腹辺りが暗闇でも判るくらい、真っ黒く濡れていたのだ。
弘次を抱き寄せた永岡の手にも、着物にも弘次の血がべっとりと付いている。
「智蔵、医者だ。医者を呼んで来てくれっ!」
「へい。もう広太を道庵先生の所へ走らせてやす。旦那、ゆっくり弘次を運びやしょう」
智蔵は二階から弘次の様子を見た時に、大体の察しが付いて、弘次の所へ駆けつける間に、手早く広太に指示を出していた様だ。
「そ、そうかえ。そうだな。こんな道端に弘次を置いておけねぇやな」
そして永岡と智蔵は、揺らさない様に慎重に、弘次を茶問屋の中へと運びこんだ。
「怪我人は何処ですかっ」
はぁはぁと、息急き切ってやって来た道庵は、茶問屋に入って来るなり大声で叫んだ。
永岡達は、道庵の声を聞いて、「こっちだっ」と返しながら出迎えに走る。
「ほぅ、用意が良い様ですなぁ。どれ」
茶問屋の家の者に頼み、綺麗な晒しを集めてもらい、湯を沸かして盥に用意して待っていたのだ。
道庵は先ず湯で手を洗い、弘次の傷口を確かめた。
「ほぅ、この御仁は医師か何かなのかな?」
道庵は感心して言う。
脇腹の傷口が既に縫って塞がれていたのだ。
「へい。以前は腕の良い蘭医でやした」
智蔵が心配そうに、弘次を見ながら応える。
「そうでしたか。しかし前の傷口は、ほぼ完璧に縫合して有りますけど、後ろの傷口は、本人もどうしようも無かったのでしょうな。今から後ろの傷口を塞いで行きますよ」
弘次の脇腹の傷は、何かで串刺しにされた様に、前から後ろへと貫通していたのだ。
いくら名医と言えども、後ろの傷口は、手が届かなければどうにもならない。それでも最低限の応急処置で、布をきつく巻き付けてあり、そのおかげで多少出血は防げていたが、それでもかなりの血が流れてしまっている。
道庵は、縫合済みの前の傷口を焼酎で消毒すると、同じ様に後ろの傷口も消毒し、針と糸で縫合し始めた。
「良し。あとは様子を見るしか無いですぞ。この御仁の体力が持てば、何とか助かるはずです」
道庵は額に汗を浮かべながら、最後に晒しをきつく巻き終えると、心持ち明るい声で言った。
「先生、弘次は助かるんで?」
治療中、黙って弘次の身体を押さえていた永岡は、必死な声で道庵に迫った。
「この御仁は自分の傷口を縫う事によって、失った血の量も少なく済んでいます。何よりも場所が良く、幸い臓腑にも傷が無い様です。それに余程切れ味の良い刃物か何かでやられたのですかねぇ。それも幸いして、綺麗に裂けてましたので縫合も楽に出来ました。後は膿まない様に消毒して、安静にしていれば大丈夫でしょう」
道庵は道具を片付けながら、
「それにしても、自分で自分の傷口をここまで綺麗に縫うとは、本当に大したものですよ」
と、改めて感心している。
「では、また明日の朝ここへ来ますので、その時また消毒して、晒しを新しい物に替えますから、また綺麗な晒しを用意しておいてくださいね」
道庵はそう言い置いて、自分の診療所へと戻って行った。
「何が有ったんでやしょうねぇ?」
智蔵は弘次の寝顔を見ながら、永岡にぼそりとこぼす。
「そうさなぁ…」
永岡も弘次の寝顔を見たまま短く応えて、暫く考えている。
「何が有ったんでぇ?」
そこに新田の声がして、留吉や伸哉、松次達が広太に伴われて現れた。
新田は永岡の近くへ寄って、弘次の具合を確認する。
永岡から命に別状は無さそうだとの道庵の言葉を聞いて、
「そいつぁ良かった。先ずはそれが何よりでぇ」
と、新田はひとまず安心し、それを一緒に聞いていた仲間達も、同時に胸を撫で下ろした。
「それにしても、こいつぁ手槍か何かでやられたのかねぇ。西海屋宗右衛門ってぇのは、元は武士だったりするのかもなぁ」
「新田さんもそう思いますかぇ?」
永岡も西海屋には、武士の用心棒などは出入りして居らず、先ほどの覆面の男も、あれから西海屋には入った様子が無い事から、同じ事を考えていた。
「まぁ成り上りの商人にゃ、無ぇ事も無ぇ話しでぇ。ちっと調べてみるとするかぇ?」
「新田さん、そう悠長に調べてる時間なんか、無ぇんじゃねぇですかぇ? こうなりゃ西海屋へ踏み込んで、宗右衛門をとっ捕まえましょう」
永岡は弘次がやられた怒りが、沸沸と沸いて来る。
「まぁそう焦るねぇ。今踏み込んだところで、何も証拠が無ぇんだし、弘次の事だって、ネズミか何かだと思ったなんて言われちゃぁ、こっちも何も言えねぇさね。証拠をがっちり掴んでから、宗右衛門にはお縄になってもらおうぜぇ」
新田はあくまでも抜け荷や偽薬を、西海屋に結びつけ、証拠が揃った上で、宗右衛門を捕らえる事を説く。
「あぁ〜、ったくよぅ」
永岡はもどかしさの叫びと共に、床を拳で叩いた。
「とにかく絶対お縄にしましょう」
永岡は新田と、そして周りにいる仲間達を見回した。
「北山の旦那の仇もありまさぁ。必ずお縄にしてみせやすぜぇ」
智蔵も意気込んで応えると、留吉や伸哉、松次、広太と次々に頷いて永岡に応えるのだった。
*
「永岡の旦那は大丈夫かしら…」
今日何度となく呟いている言葉が、希美の口からこぼれ落ちてしまう。
永岡は、みそのの仕舞屋では、弘次と繋ぎを入れる事も無くなっていたので、今夜は来るとは限らなかったのだが、希美は約束もしていないのに、先ほどまで永岡を江戸の家で待っていたのだ。
「無事ならいいんだけどなぁ」
また希美の口から、永岡の安否の言葉が転げ落ちる。
「湿気っちゃうよぅ。もぅ」
永岡に食べさせようと、江戸に持って行ったお煎餅の袋を眺めながら、希美は口を尖らせる。
「硬っ」
希美は袋から煎餅をー枚取り出して齧り、永岡の食べている姿を想像すると、やっと頬が緩んだ。
「ボリッ、ボリッ、ボリッ、ボリッ、ボリッ…」
静かな部屋に、煎餅を噛み砕く音だけが響いている。
希美は色々な思いを巡らせながら、子供の頃から変わらぬ硬くて懐かしい味の煎餅を、ただ黙って噛みしめるのだった。
*
「おぅ、どうしてぇ。もう判ったのかぇ?」
荒神一家の若い衆の翔太が、南町奉行所に朝一番でやって来て、奉行所の門前で永岡を待っていた。
「へい。昨日の内に調べがつきやしたんで、朝一番で旦那にお知らせして来いと、親分から言われていやしたんでやす。朝っぱらからお呼び出ししやしてすいやせん」
「いやぁ、こっちは助かるぜぇ。ご苦労だったなぁ」
「滅相もねぇでやす。へい、親分からは、今日から旦那の指図に従って、お仕えしろって言われて来やしたんで、どうかこき使ってやってくだせぇ」
以前荒神一家の茂蔵に、偽薬の話しを持ちかけて来た流れ者を、翔太が二ヶ月ほど前に見かけていて、その際に、その男が飯田と思われる侍と話していたと言う事で、その侍が飯田なのか確かめる為にも、一度翔太を借り受ける事を茂蔵に話していた。
早速茂蔵は、報告がてら寄越した翔太を、そのまま永岡に預けた様だった。
「お前は確か、茂蔵んとこの翔太だったかぇ?」
永岡と翔太が話しているところに、丁度智蔵が現れた。
「おぅ、丁度良かった智蔵。そうだ、昨日話した茂蔵んとこの翔太でぇ。それにしても随分と、足が良さそうで安心したぜぇ」
智蔵が昨日覆面の男に襲われた時に、挫いた足の事を言ったのだが、未だ少し足を引きずり気味に歩いているも、軽い捻挫だったらしく、大して差し障りがない様で永岡は安堵した。
「へい、ありがとうごぜぇやす。もうなんともねぇでさぁ」
智蔵は照れ笑いを浮かべて応えた。
「智蔵も来た事だし、翔太、ちっと話しは待ってくんなぁ。このまま出掛けるんで中で声をかけてくらぁ」
永岡はそう言うと、ひょいっと軽快に奉行所の中へと戻って行った。
「悪かったなぁ、そんじゃ行くかぇ。道々話してくんなぁ」
永岡が奉行所の中からほど無く出て来て、門前で待っていた智蔵と翔太に声をかけると、三人横並びで歩き出した。
「へい。昨日あれから一家総出で調べ回ったんでやすが、皆んな思った程収穫がありやせんで、親分に叱られちまってたんでやすがね。丁度その時、その日は品川へ親分の使いに行ってやした、賢治兄ぃが帰って来やしてね。事の次第を兄ぃにも話しやすと、なんの事ぁ無ぇ、兄ぃはその噂ぁ知ってやしたんでさぁ」
翔太の話しによると、その兄貴分の賢治は無類の釣り好きで、釣り仲間である材木商の伝助から最近聞いた話しで、西海屋と黒猫一家に絡む話しがあったそうだ。
その伝助は以前、船問屋の西海屋の番頭に接待を受けたのだが、その接待の席の料亭に突然黒猫一家の鮒蔵が現れ、西海屋からの接待の筈なのに、急遽伝助が追い返される羽目になったのだと、賢治に愚痴っていたと言うのだ。それを考えると黒猫一家と西海屋は、深く繋がりが有って、利害関係で結ばれているに違いない、という事になったのだと言う。
「昨日は他にこれはってぇ、大店との繋がりは出て来なかったんで、親分が取り敢えず、この事を永岡の旦那に伝えて、あっしは、そのまま旦那のお手伝いをしろってぇ事に、へい」
茂蔵が念の為、もう少し他の大店が黒猫一家と絡んでないか、今日も調べているのだと、翔太は付け加えた。
「そうかぇ。そりゃぁありがてぇな。しかしこりゃぁ、西海屋で決まりだなぁ。なぁ智蔵」
「へい、間違ぇ無ぇでやすぜぇ。まぁ、今回も証拠にゃなりやせんが、やっとはっきりと顔を見せやがりやしたねぇ」
智蔵は永岡に応えると、翔太を見て今日の予定を変更するのか伺った。
「そうさなぁ。翔太にゃ一度飯田を見てもらわねぇ事にゃぁ、来てもらった甲斐が無ぇってもんさ。これからオイラが尾張屋敷へ翔太を連れてくんで、智蔵は予定通りに西海屋の方へ行ってくんねぇかぇ?」
「そんなら、あっしが翔太を連れて行きやすから、旦那が茶問屋に詰めてくだせぇよ」
智蔵は何か動きが有った事を考えたら、永岡が西海屋の方に居た方が都合が良いと、自分が翔太の案内を買って出た。
「そうかぇ? じゃぁ任せたぜぇ。翔太が飯田の顔を確認するだけで良いかんな。状況にもよるが、今日のところは尾行となっても、新田さんの手下に任しておけば良いんだぜぇ。智蔵、辛かったら、帰りは駕籠でも使ってくんな」
永岡は、智蔵に翔太を任せる事にして、最後に紙で包んだ小粒を放って寄越した。
「旦那、あっしの足ぁ大丈夫でやすってっ」
智蔵が小粒を手に口を尖らせると、
「翔太、悪ぃがよろしく頼むぜぇ」
と、永岡はニヤリと翔太へ声をかけ、智蔵達と別れて西海屋へと向かうのだった。




