第五十七話 命あっての物種
「永岡の旦那は大丈夫かしら…」
希美は人の少ないフロアーを眺めながら、ぽつりと呟いた。
今、希美は仕事場の日本橋丸越のお店で、ぼんやりとラックに並んだ洋服を整えている。
特に今は客の少ない時間帯で、より平和な静けさがそうさせたのか、先程から希美は、江戸の永岡が案じられてならないのだった。
「あっ、今日はお煎餅でも持って行ってあげようかしら」
地元の友達が差し入れにと、先程わざわざお店に寄ってくれたのだった。
この煎餅は希美が子供の頃に、その友達の実家の煎餅屋に遊びに行っては、割れて商品にならなくなった物を、オヤツ代わりにご馳走になっていた思い出の煎餅で、その頃から希美の大好物だったのだ。
「あのカッチンカチンに硬いお煎餅食べたら、びっくりするのかしらねぇ。ふふふ」
希美は永岡が煎餅を食べた時の事を想像して、やっと頬を緩めるのだった。
*
「どうしやした、旦那」
急に立ち止まった新田に、智蔵も足を止めて声をかけた。
相変わらず何の収穫も無いまま、新田と智蔵は隅田村を歩き回っていたのだ。
「どうも後をつけられてる気がしてならねぇんだょ。あんまりジロジロ見ねぇ様に見てくんな」
新田は、しゃがんで雪駄の鼻緒を直す振りをしすると、振り返って新田と向かい合わせになった智蔵に、自分達の後ろに誰かつけていないか小声で聞いた。
「どうでぇ?」
「いや、あっしには見えやせんょ。どうしやしょうかぇ?」
新田がしゃがんだまま問うと、智蔵は天気でも気にする素振りで、空を仰ぎながら小声で応えた。
「そうかぇ。もしかしたら、あの覆面野郎が、オイラ達をつけてるかも知れねぇぜ。油断しねぇで続けるとするかぇ」
「悪りぃ悪りぃ、もう大丈夫でぇ。んじゃ行くとするかぇ」
新田は小声で智蔵に気をつける様に言い、最後は声を戻して立ち上がると、大きく伸びをしてから歩き出すのだった。
「ほぅ、昨日の奴とは違い、彼奴は気づいた様だのぅ」
智蔵が見ていたはずの木陰から、ぼそりと男の声がした。
ニヤリと笑ったその男の顔に日が差すと、やはり男は蘭丸こと森成利、今は『笠原』と名乗っている男の姿だった。
「ふふ」
そして意味深な笑いを残して、いつの間にか木陰からも姿を消していた。
*
「旦那様、明後日には、また例の物が捌ける頃合いでございます。今後如何いたしましょう?」
煙管を美味そうにふかし、西海屋宗右衛門は紫煙を目で追いながら、由蔵からの報告を聞いている。
「ふぅ〜」
宗右衛門はもう一服つけると、煙は再び、生き物の様にうねりながら漂い始めた。
コンッ
紫煙に目を細めていた宗右衛門は、おもむろに煙草盆に煙管を打ち付けた。
「それで、今はどのくらいの死人が出てるのだい?」
相変わらず紫煙の魂を捜すかの様に、宗右衛門は虚空を見ながら由蔵に問う。
「はい。奉行所に届けの無いものを含めますと、七、八十人と言ったところでしょうか。今回の荷が市中に回れば、優に百二、三十は見込めましょう。重症の者を含めれば、更に千は行くのではと思われます」
「では、そろそろ良いかのぅ。由蔵、例の荷を、蔵から運べび出す段取りをしておくれ」
「はい。これでやっと利鞘を稼ぐことが出来ます。そして、いよいよ江戸一番となる、薬種問屋の始まりでござります」
由蔵は感慨深い面持ちになっている。
これは偽薬を江戸市中に蔓延させ、それを取り扱った薬問屋を陥れると共に、それに効く南蛮渡来の薬を売り出す事によって、西海屋が新たに始める薬種問屋の名を上げ、莫大な利を産む薬種商いを独占せんと目論んでいた事が、漸く身を結ぶ形になるからだった。
由蔵は事が上手く運べば、その薬種問屋を任される事になっていたのだ。
「では、足が付きそうなところは、笠原先生に働いてもらうと言う事で、よろしかったでしょうか?」
由蔵はいよいよ最初の企ての後始末に入り、本格的に次の段階へ進める喜びに、笑いを堪えられぬ面持ちになっている。
「そうじゃのぅ。上手くやっておくれ」
宗右衛門は能面の様な顔を、未だ虚空に向けながら抑揚も無く応えた。
「では早速手配りを致します」
由蔵は平伏しから立ち上がると、嬉々として部屋を出て行くのであった。
「ふふ」
宗右衛門はやおら立ち上がると、おもむろに襖を引き開けた。
何やら物置の様な小部屋になっている。
宗右衛門がその部屋へと入った次の瞬間、今まで緩慢な動きだった宗右衛門が、俊敏に何かを天井へと突き刺した。
「ゔっ」
天井裏から、物音と共に呻く様な声が聞こえる。
宗右衛門が天井に突き刺した物は、およそ商家には無縁な、無骨なまでの手槍だったのだ。
「命があるかのぅ」
宗右衛門は、天井に突き刺さったままで、血の滴り伝う槍を見ながら、微かに笑ったかの様にその能面を歪ませる。そして、まるで見えているかの様に、ゆっくりと遠ざかる人気を目で追うと、その能面に浮かぶ目を微かに細めるのだった。
*
「おっ、あれは由蔵じゃねぇか?」
永岡が荒神一家からの帰り、見張り場にしている茶問屋まで、あと半町ほどの所へとやって来た時、丁度由蔵が何やら手代に話しながら、西海屋の店先に現れたのだ。
「ほぅ、供も連れねぇで外出するみてぇだなぁ」
由蔵が一緒に出て来た手代とは、別の方角へと歩き出したのを見て、永岡は独り言ちた。
永岡は茶問屋の裏口へと繋がる寺には入らずに、そのまま智蔵を追う事にした。そして、広太が見張っているであろう、茶問屋の二階をチラリと見遣り、暗に尾行する事を伝えて通り過ぎると、何食わぬ顔で西海屋の前をやり過ごして行く。
「由蔵の奴ぁ、隅田村にでも行くのかぇ?」
永岡は前を歩く由蔵の背中を見ながら、あの日の宗右衛門と由蔵の事を思い出していた。
「いよいよ決まりだなぁ」
御蔵前の通りを浅草に向かって歩き出し、暫くすると、永岡は確信を得た様に独り言ちる。
永岡は足早に方向を変え、六軒町の川岸まで出ると、そこの渡場に猪牙舟を舫い、その上で一服つけている親父に声をかけた。
先日宗右衛門を逃した後に、この渡場を見つけておいたのだった。
「おぅ、また暇してるみてぇだな。今日は仕事を頼まぁ」
「あぁ、八丁堀の旦那じゃぁねぇですかぇ。今日はいってぇどうしたんでやすかぃ?」
猪牙舟の親父は、永岡が今日は浪人風の姿だったので、最初は判らなかったらしい。
「いいからさっさと出してくれぃ。ほらよ」
永岡は心付けをはずんで、先だって伝えておいた、向こう岸の隅田村まで猪牙を出す様に、親父を追い立てた。
「おっ、こりゃぁ旦那、豪勢でやすねぇ。はいよぅ、合点でぇ、任せておくんなせぇ」
親父は紙に包んだ心付けの重さにニヤリと笑うと、威勢良く竿で岸をついた。
*
「旦那、ありゃぁ由蔵でやすよ」
智蔵が新田に身を寄せて囁いた。
あれから暫く歩き回った智蔵達は、今日のところは引き上げようと、渡し舟が居る事を願いながら、来た時の岸辺まで戻っていたところだった。
「あれが西海屋の由蔵かぇ。歩き回った甲斐があったってぇもんさな。なぁ、智蔵」
「へい、これで難なく探し回ってる場所にも、連れて行ってくれるはずでさぁ」
新田と智蔵は、顔を見合わせてニヤリとやった。
「んじゃ、行くとするかぇ」
由蔵をやり過ごして距離をおくと、新田が声をかけた。
と、その時、物陰から物凄い勢いで飛び出した黒い塊が、疾風の様に二人を襲って来た。
「危ねぇ、ぐっ」
新田はいち早く気づいたが、既に銀色に光る物が目前に迫っていて、智蔵を突き飛ばしながら刀を抜いた。
ガキィン
刀と刀がぶつかり合い、白昼に青い火花が散った。
「ほぅ。やはり中々遣えると見えるのぅ。ふふ」
黒い塊が微かに笑う。
そこには覆面を被った男が立っていた。
「野郎っ」
新田は目で牽制する様にしながら、刀を正眼に戻すが、先程の衝撃で手が痺れて手の内が絞れない。
ジリジリと後退り、手の痺れが戻る時間を稼ごうとする新田だが、完全に自分が引けを取っているのが解り、焦りが湧いて来る。
「直ぐに終わらせてやるから安心せい」
覆面の男は、すすぅっと滑らかに間合いを詰めると、生死の境界線を躊躇いも無く越える。
新田は一瞬のその動きを捉える事が出来ず、全く動けない。
「旦那ぁ!」
智蔵が大声と共に、十手を覆面の男に投げ付けた。
ガッ
今にも新田へ届きかけていた刀が、急激に角度を変え、智蔵の投げ打った十手を弾き落とした。
「またお主か。お主からあの世に送ってやるとするかのぅ」
覆面の男がのんびりと言うや、迅速な体捌きで今度は智蔵を襲いかかる。
「させるかっ」
新田が太刀では間に合わぬと、小太刀を投げ打った。
やや痺れが残りながらとは言え、新田の投げ打った小太刀は、勢い良く音を立てながら男の背中へと一直線に飛んで行く。
しかし、小太刀が無防備な背中へ吸い込まれるギリギリの所で、頭部に目が付いているかの様に、あっさり身体を捻って躱されてしまった。
「うっ」
新田は確かな手応えが有っただけに、その体捌きに息を呑む。
小太刀を躱した男は、覆面の中でニヤリと笑い、新田を見据えながらゆっくりと智蔵に近づく。
「……」
智蔵は尻餅をついたままジリジリと後退るが、声がでない。
「待ちやがれっ!」
その時、永岡が猛然と太刀を抜きながら走って来た。
「ちっ」
小さな舌打ちをした男は、猛然と駆け寄る永岡に突進した。
死地への境界線がみるみる詰まり、覆面男の太刀が唸りを上げた。
ガキィン
金属音と共に二人はすれ違い、永岡がやや体制を崩すのを横目に、覆面男はそのままの勢いで遠去かって行く。
「……」
永岡は追おうにも手が痺れて、それどころでは無く、ただ見送るだけで何も声が出なかった。
一気に辺りが静まり返る中、
「助かったぜぇ」
皆を代弁する様に新田がぼそりと言った。
「助かったぁ〜」
智蔵も生き返った様に天を仰ぐ。
「遅くなっちまって、すまねぇ」
永岡は智蔵に手を貸して立たせてやると、
「オイラが帰ったら、丁度西海屋から由蔵が出て来たんで、そのまま後をつけて来たんだがな。あの猪牙の親父がもたもたしやがってよぅ」
と、経緯を話し、呆れながら、
「あの親父、口だけでよぅ。あまりにも素人臭ぇんで、問い詰めりゃ、最近始めたばかりと来たもんよ。ふふ、それまでは錠前職人だったんだとよ。どうりで暇している訳さぁね」
と続け、六軒町の渡し舟の親父の事を愚痴った。
永岡は猪牙舟に乗ったは良いが、漕ぎ手の親父が下手で、中々向こう岸に着かなかったのだ。
「新田さん、大丈夫ですかぇ?」
新田がやっと太刀を鞘に納めたところに、永岡が声をかけた。
「あぁ、しかしあんな化物みてぇな奴ぁ、今でもいるもんなんだなぁ。すっかり肝を冷やしたぜぇ」
「本当ですよ。戦国の世じゃねぇんだから、あそこまで強くなられちゃ、取り締まるこっちは、堪ったもんじゃねぇですよ」
永岡は敢えて茶化す様に言って、未だ微かに残る手の痺れを感じながら、覆面の男が消えて言った方向を睨んだ。
「しかし、これであの覆面野郎と由蔵は、繋がったと言ってもいい様なもんさね。元より宗右衛門が、何年も前から通ってるってぇ事なんで、西海屋宗右衛門としても、あの男と繋がってるって訳さな。しかし毎度の事ながら証拠がねぇや。ったくよぅ」
永岡が苦虫を潰した様な顔をする。
「まぁ、あんな化物みてぇなのがいちゃ、すんなり行かねぇさな。外堀からじわじわ埋めて行きてぇとこだが、こっちも時間がねぇやな。やっぱり、最悪こっちも強行手段を取るしかねぇぜぇ」
新田は永岡を見て頷いた。
「旦那、どうしやしょうかぇ?」
智蔵は新田が投げ打った小太刀を拾い上げ、このまま由蔵や覆面男の探索に当たるのか聞いて来た。
「オイラは、もう捨て置いちまって良いと思いますが、新田さんはどうです?」
永岡が新田に伺いを立てる。
「そうさなぁ。これ以上探ってもあの野郎が居たんじゃぁ、証拠どころじゃ無ぇかんなぁ。オイラもそれで良いと思うぜぇ」
そして新田は、あの覆面男が西海屋と間違いなく繋がっていて、輝三を殺したのを始め、抜け荷や今回の偽薬の事件にも絡んでいると確信するだけで良しとし、証拠は他で見つけるのが得策だと続けた。
「まぁ、命あっての物種さぁね。んじゃ、帰るとするかぇ」
新田は小さく笑うと、二人を促して歩き出した。
『なんとか躱せたが、危ねぇところだったぜぇ』
永岡は心の内で新之助に感謝しつつ、尻餅をついた時に足を挫いた智蔵を助け、新田の後に続くのであった。




