第五十三話 長閑な風景
「あら弘先生」
お藤は感極まって、目を潤ませている。
「お藤さん…。申し訳ございませんでした」
お藤に弘先生と呼ばれた弘次は、お藤に深々と頭を下げたまま、中々頭を上げようとしない。
あれから永岡と弘次は、北忠こと北山忠吾を見舞いに政五郎の店へ寄り、今、智蔵と打ち合わせをする為、智蔵がお上の御用をする為の糊口しのぎに、女房のお藤にやらせている居酒屋、『豆藤』にやって来たところだった。
「ほら頭を上げてくんねぇかぃ。それじゃぁ話しも出来ねぇじゃねぇかぇ?」
智蔵も薄っすらと目に光る物を浮かべながら、弘次を窘める。
「お前も弘先生なんてぇ言いやがるから、弘次だってこんな事になっちまうんでぇ。今は弘次ってぇ立派な名前が、ちゃぁんとあるんでぇ。気をつけろぃ」
永岡はそんな三人のやり取りを、頬を緩めながら見ている。
弘次の本名は、小川弘治と言い、蘭方を学んだ町医者で、元は侍の出であったのだ。
智蔵とお藤の娘が死んでしまった事に負い目を受け、永岡に自首する前の話しだ。
永岡には、これからも町医者として、多くの人を助ける事が罪ほろぼしになるのだと、お縄にされずに放免されたのだが、自分には医者として、再び人を診る資格は無いのだと思い詰め、名も弘治から弘次と町人風に変え、人足仕事などで糊口をしのぎながら、永岡の助けをする暮らしを続けて来たのだった。
「そうね、弘次さんだったわね」
お藤は目を潤ませながらにこりと笑う。
「弘次さん、お雪の事を忘れないでいてくれるのは嬉しいんですが、お雪が亡くなったのは、弘次さんの負い目になる様な事では無いので、その事は早く忘れてしまっておくれね」
お藤は、お雪の墓前に花を手向けて手を合わす弘次の姿を、何度か見ていたのだった。
「お藤さん…」
弘次は下を向き、耐えきれずに光るものを落とした。
「そうだなお藤。弘次には早ぇとこ忘れてもらって、いつかまた、先生として帰って来て欲しいもんだなぁ」
そう言った智蔵も、娘の事を思い出したのか、思わず袖で目を拭う。
「さ、さぁ、中へ入って座ってくだせぇよぅ」
店先で話し込んでしまっていた事に気付いた智蔵は、永岡と弘次を店の入れ込みに招き入れた。
「北山の旦那は、どうでやしたかぇ?」
智蔵はこれ以上昔の事に触れるのは、お互いしんみりとしてしまうので、腰を下ろしてと早々に北忠の心配をした。
「おぅ、忠吾の奴ぁ目ぇ覚ましてたぜぇ。って言っても朦朧としてるみてぇで、オイラの事も良く分かってねぇ感じだったがな」
「そうなんですかぃ」
智蔵は一瞬明るい顔になったが、朦朧として永岡の事も分からないと聞いて、心配顔になる。
「心配すんねぇ。忠吾の奴ぁ、朦朧としながらも何て言ったと思うかぇ? オイラが誰かも分かってねぇくせに、忠吾の奴ぁ、オイラが声かけたら、『豆藤でお願いします』なんて、良く分からねぇ事を言ってきやがったんだぜぇ。そんなんだから、彼奴ぁ大丈夫でぇ。ふふ、彼奴が良くなったら、ここで腹一杯食わしてやろうぜぇ?」
「北山の旦那らしゅうございやすねぇ。では戻られたら、腕によりをかけて出迎えないとですね。その前に旦那達には何かお出ししますかね?」
聞き耳を立てていたお藤は、少しほっとした様に言って、腹が減ってそうな二人に声をかけた。
弘次は久しぶりに感じる、温かい人の触れ合いに胸が熱くなり、それも一緒に感謝するかの様に、お藤の気遣いに頭を下げるのだった。
*
「あのぅ…」
みそのは物々しく立っている門番にジロリと睨まれ、萎縮してしまっている。
みそのは朝一番で、永岡の仕事場である南町奉行所へと、久々にやって来ていた。
北町奉行所ならば、みそのの家からも呉服橋を渡ってすぐなのだが、南町奉行所は現在の有楽町辺りに有り、それでも大した距離では無いのだが、特に用事が無ければ周りは武家屋敷しか無いので、わざわざ行く様な所では無い。
「そのぅ、永岡の旦那に会いに来たのですがねぇ。旦那はいらっしゃいますかね?」
「何用だ。お主と永岡殿とはどの様な関係なのだ。ここは神聖な町奉行所ぞ。商売はここでするでない」
つっけんどんに門番に言われ、みそのはもじもじしていると、
「みそのさんじゃぁねぇですかぇ?」
と、智蔵がみそのの後ろから声をかけて来た。
「あぁ親分さん。良かったぁ〜。私、昨日永岡の旦那に頼まれた事が有って、それを伝えに来たところだったんですよう」
みそのは門番を睨みつけながら、智蔵にすがる様に言った。
「門番のお方もお役目なんで、悪く思わねぇでやってくだせぇよ。奉行所までツケの催促に来やがる、岡場所の女もいやすんでね。へい。あっ、すいやせん」
智蔵は、みそのを宥める様に言ったのだが、みそのが岡場所の女に間違えられたと零してしまって、慌てて謝った。
「い、今旦那に取り次いでもらいやすから、待っていておくんなさせぇ」
智蔵はバツが悪そうに言って、奉行所に入って行った。
「おぅ、どうしてぇ?」
永岡が程なくやって来て、みそのに笑顔を向ける。
「は、はい。新さんの件なのですがね。今夜にでも永岡の旦那と会ってくださるって、伝えに来ただけなのですよう」
「随分と早ぇ事、繋ぎが取れたもんだなぁ」
永岡は昨夜頼んだばかりの事なので、驚きながらも訝しむ。
「旦那が帰って直ぐに、新さんが様子を見に来てくれて、その時に頼んだんですよう。旦那もあと少し長居してくれたら、私もこんな所まで来なくて済んだんですからねぇ」
みそのが口を尖らせて永岡に言い返す。
「そ、そうかぇ。そりゃ悪かったなぁ。悪りぃ悪りぃ」
永岡はいつもの様に片手拝みで謝り、にこりとやった。
「もぅ、まぁいいわ。私は伝えましたからねっ。今夜ちゃんと来てくださいよ。旦那ぁ」
みそのは永岡のいつもの仕草にやられ、それ以上文句も言えずに、永岡を睨みつけながらも頬を緩めた。
「あぁ、わかったわかった。ありがとうよぅ」
永岡はまた片手拝みに、にこりとやるのだった。
*
「あぁ〜、朝から疲れたぁ〜」
希美は独り言ちると、コーヒーを啜った。
日本橋丸越の駅地下にあるカフェで、コーヒーを飲んで一息ついているところだ。
昨日永岡達が帰った後、折良く源次郎が顔を出し、永岡の頼みを源次郎に言伝を頼んだのだが、新之助自身も気になっていた事らしく、源次郎は明日の夜にでも、永岡をみそのの家に呼ぶ様にとの、新之助の言葉を伝えに来たのだとの事だった。
源次郎から永岡に伝えてもらうのも、変な話しになるので、希美は朝一番で南町奉行所まで行く事になり、朝からバタバタと用事を済ませて来たところだった。
「電車が有れば楽だったんだけどなぁ。って言うか、携帯が有れば行く事もなかったのよねぇ。あぁー、携帯使えたら良いのになぁ」
「おはようございま〜す。店長携帯壊れたんですかぁ?」
希美が独り言ちた時に、お店のスタッフの雅美が声をかけて来たのだ。
「 雅美ちゃん、おはよ。携帯ね…。何でもないのよ。ただもっと昔っから使えたら良かったのになぁって、ね。ふふ」
「なぁんだ、そう言う事なんですねぇ〜。つーか店長。思ってただけじゃなくて、思いっきり声に出てましたけどぉ? ははははは」
雅美が可笑しそうに笑う。
「そ、そうなのね。最近独り言が多いみたい、私。ふふふ」
「店長、それ危ないですよぅ。独り言が多くなったり、声が大きくなったりするのは、老化現象らしいんですよぅ。ふふ、もしくは恋煩いをしているかですけどねぇ〜」
雅美がいやらしく目を細めてニヤニヤしている。
「店長ぉ〜。ひょっとして私に隠れて合コンなんかして、良い男ゲットしたんじゃないでしょうねぇ? 店長は旦那がいる身なんですよぅ。私のフォロー無しに、その恋は成熟しませんからねぇ〜」
雅美は益々目を細めながら、コーヒーを飲む。
「ちょ、ちょっと雅美ちゃん。そんな誤解しないでよぉ。そんなの無いから、本当にぃ〜」
希美は慌てて否定する。
「怪しいもんですよぅ。店長最近綺麗になったって、緑ちゃん達が良く言ってますからねぇ〜」
雅美は希美を覗き込む様に下から見る。
「もぅ、雅美ちゃんったら…」
「まぁ、それはそれでも良いんですけどねぇ。そしたら店長、その人のお友達呼んで、コンパ開いてくださいよぉ。そしたら私、店長のお役に立ちますよ〜ぅ」
「だから無いんだって、そんな話しはぁ〜」
希美が困り顔で笑う。
「そうなんですぅ? そしたらそしたで、何か合コン仕切ってくださいよぉ〜。イケメン限定で〜。はははは」
雅美は楽しそうに笑って、希美におねだりする様な目を向けた。
「もぅ、雅美ちゃんの方がその辺はプロでしょうに。私がそんな合コン開いた事なんか無いの、一番知ってるじゃないのっ」
希美は、合コンは雅美が人数合わせらしい要員として、頼まれて参加した事こそあれ、希美が合コンを仕切って、開催した事など無く、飲み会を仕切っていたのを、勝手に雅美が合コンだと勘違いして、飲み会の後に、人選に文句を言われた事すらあったのだ。
「そうでしたね。店長は面白系のコンパがお好きでしたねぇ?」
雅美は舌を出して小さく笑った。
『面白系って…』希美は心の内で呟き、ツッコミたくなるのをぐっと堪えていたが、楽しそうにしている雅美を見ていると、何やら癒される気分にもなり、雅美につられる様に笑ってしまう。
「あっ、化粧品! そろそろ教えてくださいよねぇ〜。それともなんか、ケアのコツでも仕入れたんですかぁ? ねぇねぇ店長ぉ」
「だからそれこそ、私より雅美ちゃんの方がプロですからっ」
希美は雅美に呆れながらも、可笑しくて笑ってしまう。
希美はこちらでも何でもない日常が、普通に続いている事を、改めて実感する様な思いになる。
しかし、希美は笑いながらも、江戸での日常を思うと、心の内では苦笑いに変わって行くのであった。
*
永岡は智蔵と二人、宗右衛門と由蔵を見失った橋場町近くの百姓渡しまで来ていた。
昨日の打ち合わせで、新田には伸哉と弘次を付ける事になり、今日から二人を今までの調べの引き継ぎを兼ね、新田の案内に回している。そして、留吉と松次を西海屋の見張りに向かわせ、西海屋周辺を探らせていた。
永岡達は百姓渡しに着いて早々に、偶々居た渡し舟の船頭らしき男に、先日の宗右衛門達の事を聞いたのだが、宗右衛門は月に一、二度やって来ては、対岸まで渡って行くのだと話し、いつも対岸で降ろすだけで、戻り舟には乗らないとの事であった。
その船頭は、特に行き先などは知らないらしく、宗右衛門は舟でもほとんど口を聞かないので、何年も前から乗せているのだが、名前すら知らなかったくらいだった。しかし、いつも心付けは奮発してくれる様で、この男にとって宗右衛門は上顧客で、印象は良いらしい。
「どう思うねぇ?」
船頭の話しを聞き終えた永岡が、智蔵へ話しを向ける。
「まぁ、何年も通う様な所なんでやすから、何かあるんでやしょうねぇ。とにかくあっしらも渡ってみやしょうかぇ?」
「それもそうだな。此処に居ても埒が明かねぇやな。取り敢えず行ってみるとするかぇ」
永岡は智蔵の言葉に納得すると、早速先程の船頭へ舟を出す様に頼んだ。
「まぁ、岸に上がってから、こっちの方に歩いて行ったのを見ただけ、ってぇ事だとこうなるわなぁ」
永岡達は岸に上がると、取り敢えず、船頭が指差した方角へと歩いて来たのだが、意外に別荘にでもしている風な家が多く、そこの者達に聞いても、あまり周りとの付き合いもない様で、ろくに目ぼしい話しも聞けず、一刻ほど歩き回っていた。
「しっかし、誰かしら宗右衛門やら浪人やら、何か見てても良い様なもんなんでやすがねぇ?」
智蔵もここまで手応えが無いと、流石に閉口して来ている様だ。
「まぁ、こんなんは、地道にやるしかねぇんだがな。ふふ」
永岡は、自分も愚痴めいた事を言っていたと思い、小さく笑った。
「しかし静かな良い所でやすねぇ」
思わず智蔵が長閑な風景を見て笑った。
「そうだなぁ。ふふ、いつもの町中歩き廻る事を考ぇたら、乙なもんさねぇ」
永岡も違う楽しみで紛らわそうと、智蔵に同調する。そして立ち止まって大きく伸びをし、
「もう少し散歩してみるかぇ?」
と、気を入れ直すのだった。
それを木陰から何処かの大名家なのか、旗本なのか、身なりの良い侍が冷徹な目で見ている事に、二人は全く気がついていない。
「そうでやすねぇ。散歩するつもりで、もう少し当たってみやしょうかぇ?」
智蔵の言葉で、二人は小鳥が囀る長閑な風景の中、足取りも軽く歩き出すのであった。




