第五十二話 束の間の宴
「散々だったんだなぁ」
新田が永岡から話しを聞いて、苦い顔をしている。
智蔵が女房のお藤にやらせている居酒屋、『豆藤』で、今日は新田も加わり、永岡達が報告をしていたところだった。
あれから西海屋へと戻った永岡達は、周りの商家や、裏口から顔を出した西海屋の奉公人に聞き込みをしていた。
そうこうしている内に日が暮れると、出かけた方角と反対側から、宗右衛門が戻って来たのだが、これを出迎えたのが、一緒に出かけていたはずの由蔵だったのだ。
どうやら由蔵は船着場を出てから、舟の方向を変えさせていた様で、永岡と智蔵が西海屋へ引き返して来た時には、店の裏手にある船着場から店の中へと、既に入っていた様だった。
「はい、まんまとしてやられた感じでさぁね。ったく舐めた野郎達ですよ」
永岡は悔しさまじりに言う。
「へい、本当に慎重な奴等でさぁ。まぁ今日は人手も足りねぇ事でやしたし、明日っからはこっちも人を増やすんで、もう少し何とかなりやしょう」
智蔵も悔しそうにそれに続けて話した。
「そうだな。留吉を巳吉のとこなんかへ行かせなきゃ良かったぜぇ。まぁ、言っても始まらねぇがな。明日っからは巳吉も捨て置いて、留吉と松次も総出で西海屋に当たるとするかぇ」
永岡は愚痴りながらも、智蔵に応えた。
北忠と一緒に江戸を離れ、一人尾行を続けていた松次は、先程戻って来たところだった。
松次は北忠が傷を負って重体と聞くや、慌ただしく報告を済ませ、一目顔が見たいと言って、北忠の見舞いに向かったのだった。
「オイラが手下と一緒に、巳吉や他の奴等を見張ってやるから、永岡達は西海屋へ的を絞っても良いんじゃねぇかぇ?」
新田が永岡に応えると、今解っている事や頼み事が無いか聞いて来た。
「助かります、新田さん」
永岡は巳吉や坂上、飯田の、現況を新田に伝え、ここにはいない密偵の弘次に、尾張屋敷を探らせていると話した。
「でもその笠原ってぇ浪人だけにゃ、気をつけるんだぜぇ。もし対峙したら直ぐに逃げるこったな」
新田は今朝奉行所で永岡に言った事を、智蔵や留吉、伸哉を睨みつける様に見回して警告した。
「へ、へぃ」
伸哉は新田の拷問を見てからというもの、新田に睨まれでもすると震え上がる様で、声を震わせながら返事をする。
清吉の用心棒をしていた浪人者の名前は、西海屋の裏口に偶々出て来た下女から、智蔵が聞き出していたのだ。これが唯一今日の収穫と言えるのかも知れない。
「では新田さん、オイラはこれから弘次との繋ぎがあるんで、先に失礼します。更に詳しい話しは智蔵から聞いてください。明日は案内に留吉を付けますんで、よろしくお願いします」
永岡はそう言って智蔵に頷き、留吉へ目顔で頼んで立ち上がった。
*
「おぅ、邪魔するぜぇ」
案の定みそのの家の前で弘次が顔を出し、永岡はそれに呆れながらも、一緒にみそのの家へと入って来たのだった。
みそのがいつもの様に、二人を部屋へと招き入れ、酒肴を持って現れたが、永岡は今日もまた『豆藤』に戻ると言い、早々に話しを始めた。
いつになく真剣な永岡に、みそのは何か有ったのだと思い、何も言い返さずにおとなしく膝を折って座った。
「昨夜忠吾が斬られたんでぇ」
永岡は開口一番、単刀直入に言う。
北忠が斬られたと聞いて驚くみそのに、永岡は目を向けると、
「襲ったのは多分、お前と新さんを襲った覆面野郎に違ぇねぇ。更にみその、その覆面野郎は、あん時の蔵にいた薄気味悪りぃ浪人者と、同一人物とみて先ず間違ぇねぇだろうよ」
と続け、更に驚くみそのに静かに頷いた。
「幸い忠吾は、今んところ命にゃ別状無ぇって言われてるぜ。朝オイラが出て来た時は、まだ意識は戻っていなかったが、この後また顔を見に寄ってみるんで、そん時にゃ意識も戻っているかも知れねぇな」
永岡は少し頬を緩ませる。
「とにかく、そう言うこった。あまり心配させても何だが、知っておいてもらおうと思ってな」
永岡は、先程『豆藤』で話して来た内容を語り、明日からは西海屋へ的を絞る事にし、その他の調べは新田の助けを得て、事に当たる運びになったと伝えた。
「弘次の方はその顔だと、然程変わった様子は無さそうだな?」
永岡が雄次の顔色を見て言うと、弘次は軽く首を前に突き出しながら頷き、首筋を掻いてそれを返事とした。
「どうでぇ弘次。尾張屋敷の方は源次郎殿に任せて、お前はオイラ達と一緒に、西海屋の調べに加わっちゃぁくれねぇかぇ?」
「い、いや、あっしはそんな、選りすぐり出来る様な立場じゃござんせんし、どうぞ旦那の思う様に使ってやってくだせぇ。ありがとうごぜぇやす」
弘次は永岡の頼みに恐縮して、今まで気遣ってくれていた事を感謝した。
「ところでみそのは、新さんに繋ぎはつけられるのかぇ?」
永岡は弘次に頬を緩めて大きく頷き、今度はみそのに話を向けた。
「旦那は新さんと会いたいんですか?」
みそのは小首を傾げて問い返す。
「会いてぇって程でも無ぇんだがな。例の覆面男とやり合った事が有るのは、新さんくれぇなもんなんで。その辺の話しを聞きてぇと思ってな?」
永岡は照れ臭そうに応える。
「新さんの住んでいるところは、知らないのですがね。この前の事が心配だから、また近い内に来るって言ってましたので、その時に旦那と会ってもらえる様に言っときますね」
みそのは永岡があの男と戦うに当たって、新之助から情報を得たいのだと察し、何とか機会を作ると約束をした。しかし、将軍である新之助との繋ぎの方法は、教える訳にはいかないので、どうしても曖昧になってしまう。
「おぅ、そうかぇ。助かるぜぇ。オイラもここへは寄る様にするんで、そん時にでも分かったら教えてくんな」
それでも永岡は、ほっとした様な顔でみそのに頼んだ。
「あと御奉行にも報告するんで、その内耳に入ると思うんだが、オイラがいない時に源次郎殿が現れたら、尾張屋敷の方は源次郎殿に任せてぇって、オイラからの言伝をよろしく頼まぁ」
永岡は言うだけ言うと、北忠を見舞ってから、『豆藤』に居る智蔵達の所へ明日の手配りをしに行くと言い、立ち上がった。
「悪りぃなバタバタしちまって。何か用意していてくれてたんだろぅ? 折角だから弘次に何か食わしてやってくんな」
永岡は出された佃煮と酒は平らげたが、束の間の宴になってしまった事を詫びると、他にも肴を用意していたであろうみそのを気遣い、弘次には馳走になる様に声をかけた。
「いえ、折角でやすが、早速あっしも旦那のお供をしやすぜ。こうなったら、親分さんと顔合わせんのも、早ぇ方が良いと思いやすんでね。みそのさんの料理を食えねぇのは残念でやすが、そう言う訳でやすので勘弁してくだせぇ」
弘次は永岡に自分も一緒に行くと言い、みそのにも名残惜しそうに詫びた。
「いえ、いいのよ弘次さん。旦那を助けてあげてくださいな。ご飯は落ち着いたら、いつでも食べに来てくださいねぇ?」
みそのは、永岡に北忠が早く良くなる様に祈っていると伝え、慌ただしく出て行く二人を見送った。
*
時は少し遡る。
永岡達がまんまとしてやられた、宮戸川を悠々と舟に揺られて行った、西海屋宗右衛門の行方を追ってみる。
場所は、橋場町近くの百姓渡しから対岸へ渡った先、隅田村の百姓家を改築した一軒家。
宗右衛門は、ここに迷いも無く入って行った。
「ワシだ、入るぞ」
戸締りされていない木戸を開けると、宗右衛門は、自分の家にでも入って行く様な気楽さで、中へと入って行く。
実際にこの家は、西海屋を江戸へ出店したのと同時期に買い入れていて、当時からこの様に通っているのだ。
「お待ちしておりました」
この家の住人らしき男が、宗右衛門を恭しく上座へと迎え入れる。
「うむ。作兵衛は、何処か使いにでもやっておるのか」
宗右衛門は家の下男がいないかを気にした。
「はっ、草加村まで里帰りを許して居ります故、日暮れまで戻りませぬ」
「そうか。なら良いのじゃ」
男が宗右衛門に茶を煎れて差し出すと、それを一服して宗右衛門が口を開いた。
「今日わざわざワシがここへ来たのは、お主に直接言いおく由あっての事じゃ。もう解って居ろうが、先だってお主は由蔵なんぞの指示で動きおったそうじゃのう?」
「はっ、由蔵が殿のお言葉だと言うもので、動きましてございます」
「蘭丸、由蔵は所詮、事の全容を知らんのじゃ。いつもの様にワシに直接確かめてから事を成さんのは、お主の怠慢ぞ。ワシらはあの時から、一事に掛け進んで来たであろう。それが解らぬお主ではなかろうに」
蘭丸、殿と呼び合う二人は、商家の主人と浪人者では無く、武家の主従関係にある様だ。いや、この二人はおよそ百四十年前の本能寺で討死したとされる、織田信長と蘭丸こと森成利であった。
「お主の背中には、未だ大きな火傷の痕が残って居ろうに。その傷にかけても、この一事を成し遂げんとする思い、夢夢忘れるでは無いぞ。小さな事から崩れて行く故にのぅ」
「はっ、決して忘れはしませぬ」
天正十年六月二日、本能寺に明智軍が押し寄せ、多勢に無勢の信長は、明智光秀の緻密な性格を鑑みて、早々に逃げ落ちる事は諦め、蘭丸に寺へ火を放つ様に命じ、己は自害して果てようとしていた。
そこへ手配りを終えた蘭丸が信長の元へ戻り、信長がいざ切腹し、蘭丸が介錯をする段になって、燃え盛る炎で崩れ落ちた柱が信長に襲いかかり、信長を庇った蘭丸が、背中でそれを受け止めたところまで、二人は同じ様に覚えていたのだ。
そして二人は目を覚ますと、燃え盛る炎の中にいたはずが、いつの間にか長閑な寺社の御堂脇に居て、二人はその塀の側で重なる様に倒れていたのだった。
二人は暫くは状況を把握出来ず、明智軍に見つからぬ様にと山中へ逃げ込み、身を潜めていたのだ。
しかし空腹には勝てず、食料調達の為に山中を歩き回っていた。そこで見つけた猟師の家で食物を所望した所、どうも様子がおかしい事に気づき、山を降りて町中で聞き込んでみると、なんと戦の世は遠に終わっていて、今は既に、徳川の世になって久しい事を知ったのだった。
信長は、明智光秀を巻き込んで謀反を仕掛けたのは、徳川家康と推測していただけに、徳川の世になっていた事には、然程驚きはしなかったが、どうやら自分達が時空を超えて、何年も先の世に来ている事に、ただただ驚愕するしか無かった。
そして信長は、人から話しを聞くにつれ、あの本能寺の明智光秀の謀反の後に、徳川家康では無く、猿こと、羽柴秀吉が天下を取った事実を聞き、謀反の本当の黒幕は、猿では無かったかとの思いが沸々と湧いたのだった。しかし、所詮は百姓の足軽身分から出世した秀吉だ。信長は家康の性格を良く知るだけに、家康は秀吉には先が無いと見据え、自分が天下を取るまでの布石として、謀略の黒子を演じていたのだと、考えを落ち着かせたのだった。
先ず信長は、天下を取り戻さんとする為に、以前極秘で隠した埋蔵金が未だ有るのか、蘭丸と一緒に尾張の山間まで旅をしたのだった。
そこは尾張の山間、笠原村に程近い場所に有った。
信長と蘭丸が辿り着いた時には、随分と様変わりしていて、愕然たる思いで膝をついたのだった。しかし、様子が変わっていたのも、百年以上経っていただけの事で、なんと埋蔵金は、手付かずのまま埋められていたのだった。それは今の金に換算して、およそ五万両程の埋蔵金だった。
それからの信長は、策略を練る為に笠原村にこもり、考えを巡らす日々を過ごすしていた。そうして、時折山を降りて世情を聞き入れるに内に、今の徳川は盤石な物になっており、更に、それに対抗する骨のある大名すら皆無に近い現状を理解すると、自らは埋蔵金を元に商売を始め、天正の頃から、他国との貿易を良しとしていただけに、廻船問屋として商才を発揮し、みるみると財を成して行ったのだった。
信長はその財で海賊を雇い子飼いにすると、そこに腕に覚えのある浪人なども雇い入れ、海軍さながら組織して行った。徐々に戦力を蓄えていたのだ。
昨年、西洋式の軍船をその海賊に与えたのを機に、倒幕に向け動き出したのだった。
それは、策略を以って天下を乱れさせた上、その混乱に紛れて兵を挙げ、鉄砲や軍艦等、財を投げ打って得た最新式の武器で幕府を討ち、再度天下を統一しようとの目論見だ。
徳川の為の世ではなく、開かれた新しい世の為、天下布武を再度掲げたのだった。
蘭丸はその計画を最初から支える、唯一の人間だった。
蘭丸は、埋蔵金が隠されていた地であり、新しき天下布武を掲げた地でもある、笠原村の名前を自らも名乗る事で、その思いを忘れずに天下布武を成し遂げようと、主君である信長に従って来たのだった。
「まぁ、機は一度では無いにしても、ワシの歳もあるからのぅ。計画通りに成したいのじゃ。蘭丸、解るのぅ?」
「はっ」
蘭丸は気を引き締め、思いを新たに恭しく平伏する。
「良き忠臣が側に居って、ワシは幸せじゃ。蘭丸、頼んだぞ」
蘭丸と話す時の信長は、宗右衛門の時に見せる能面の様な顔とは別人の、血の通った英気みなぎる顔になっていた。
「まぁ、酒を持って来た。久しぶりにやろうじゃないか。のぅ蘭丸」
信長と蘭丸、孤独な主従は、百四十年前に戻った様な、束の間の宴を過ごすのであった。




