第五十一話 夢
「敵は本能寺にありぃ!」
動揺する兵に対し、明智光秀は鬨の声をあげるかの様な大音声で、雄叫びをあげた。
「蘭丸、如何した!」
異様な外の様子に信長が緊張の声を上げた。
「あ、明智光秀、謀反にござります!」
「ほぅ、キンカ頭がのぅ。蘭丸、あの禿が謀った事じゃ、抜かりは無かろう。ふっ、家康も裏で動いておろうし、それに我等はこの手勢じゃ。お主は兄弟を連れて落ちるが良い」
「殿、殿もお逃げくだされっ」
「馬鹿者! 今申したであろう。禿が謀った事じゃ、ワシが落ちる隙など毛頭無いわい。蘭丸は寺に火を放ち、すぐさま猿の所へでも落ちるのじゃ。ワシはここまでじゃ。ま、その前にひと暴れしてやるがのう」
時は天正十年六月二日。目前だった天下取りの夢が、明智光秀の謀反によって断たれ、織田信長は四十九歳の生涯を、ここ本能寺で閉じようとしている。
「蘭丸、早よう女子供を逃して火を放たぬか! 坊丸と力丸にも、すぐさま何処ぞへ落ちる様に言い、そのまま寺を出るのじゃ。良いな」
信長は、このところ破竹の勢いで力を付け、他の大名とも裏から手を回し繋がり、盤石の地位を確立しつつある徳川家康に、疎ましさを超え脅威を覚えていた。
それ故ここ本能寺に、キンカ頭こと明智光秀を介し家康を呼びつけ、光秀に家康を討たそうと謀っていたのだった。
しかし、あろうことか家康を討つはずの光秀が、なんと自分を討つ為に、およそ二万の兵を挙げ、今本能寺を囲んでいる事の現実に、信長は声も無く笑っている。
「禿め、家康の思う壺になりおって」
ひと暴れして手傷を負った信長は、ぼそりとこぼすと、火が回って来た部屋の中央で、小太刀を片手にあぐらをかいた。
「これまでか」
更に独り言ちて小太刀を抜き払った時、
「殿っ!」
逃げる様に言いつけた蘭丸が戻って来た。
「蘭丸」
信長は覚悟を決めた顔の蘭丸を見ると、怒った様に笑い、頷いた。
「よし、介錯せいっ」
蘭丸は太刀を抜き払い信長に歩み寄る。
「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せるもののあるべきか」
信長が辞世の句を詠んだ時、猛火に包まれた柱が崩れ落ち、信長と蘭丸を飲み込む様に襲った。
「蘭丸っ」
崩れかかる柱を雄叫びをあげながら、鬼の形相で背中に受けた蘭丸を見上げた時、信長は呻く様にして目を覚ました。
「ふふ、未だあの様な夢を見るとはのぅ」
笑っているとも怒っているとも見て取れる、能面の様な顔で虚空を見つめる。
*
「智蔵、大丈夫かぇ?」
永岡は心配そうに言葉をかけている。
智蔵は寝ずに北忠の看病に当たっていたのだ。
永岡は智蔵を連れ、北忠が運ばれた政五郎の店へと行った後、奉行所と北山家へ、事の次第を報告して戻って来たところだった。
「永岡の旦那こそ、寝てねぇんじゃありやせんかぇ? 宗周先生の話しでは、北山の旦那は何とか命は助かるとの事でやすよ」
智蔵はほっとした様に永岡に言って、目を瞬かせた。
「そうかぇ。お前の処置が良かったんだろうよ。ありがとうな智蔵」
永岡もほっとした様に言って智蔵を労う。
北忠が斬られて永岡達が駆けつけた時まで、智蔵が北忠の傷口を押さえ、血止めしていたのが良かったのだと、北忠を診た宗周が言っていたのだ。
「へい、広太の時に、血止めだけはやっておく様にと、宗周先生から言われていやしたんで」
「そうだったな。広太も今ではすっかり良くなってるみてぇじゃねぇかぇ。忠吾もじき広太みてぇに良くならぁな」
「へい、広太の奴ぁ早ぇとこ復帰させろって、煩ぇくれえでさぁ。まぁ、もう暫く休ませてから、徐々に使ってやろうとは思ってんでやすがね。北山の旦那も、早ぇとこ治って復帰して欲しいもんでさぁ」
広太が斬られた時は血が流れ過ぎていて、一時生死をさまよっていたのだが、今はすっかり良くなって復帰間近なのだ。
智蔵は北忠も早くそうなって欲しいと願った。
「オイラ達も、少しその辺で横にならせてもらおうかぇ?」
智蔵とひとしきり話した後、朝の薄明かりが部屋に立ち込めて来たのを機に、永岡は少しでも休んでおこうと、智蔵を誘って横になるのだった。
*
「永岡、北忠はどんな様子かぇ?」
永岡が奉行所へ着くと、直ぐに先輩同心の新田が声をかけて来た。
どうやら宿直の同心に聞きつけて、永岡が顔を出すまで、町廻りには出かけていなかった様だ。
「はい。何とか命は助かるって医者に言われてますが、未だ意識が無ぇままでして」
「そうか。下手人は誰だか判ってんのかぇ?」
「ええ、未だはっきりとはしてねぇんですが、恐らく輝三や広太の時と同じ下手人じゃねぇかと。それに、オイラは抜け荷事件で清吉を斬った用心棒が、その全ての下手人だと睨んでますぜ」
永岡は、新田の手下であった輝三が殺された所から、この事件は繋がっているのだと言う。
「例の新之助ってぇ浪人も、かなりの腕前だってぇ話しだが、それでもそいつにゃ、危うく殺られちまう所だったって言うじゃねぇかぇ。大丈夫なのかぇ、お前?」
「オイラの見たところ、新さんとオイラは同じくれぇの力量かと思うんで、正直やってみねぇ事には、何とも言えねぇところですかねぇ」
永岡は正直どう転ぶか解らないと応えた。
「捕物の際は必ずオイラを呼んでくんな。一人で行くんじゃねぇぜぇ。って言っても相手が突然現れちゃぁ、そんな事も言ってられねぇんだがな。そん時ぁ必ず次があるから逃げるこった。いいな? 逃げるが勝ちってぇ事もあらぁな。解ったな?」
新田は勝てる勝負以外は無理せずに逃げ、次の勝機を待つ様に言う。
「は、はい」
永岡は自分に逃げる勇気があるか、不安な思いで応える。
「まぁ、オイラとお前、二人がかりでも敵わねぇかも知れねぇがな。とにかく忘れんなよ」
新田は永岡の肩を叩き、立ち上がった。
「北忠は未だ政五郎の店にいるんだな? オイラも町廻りの合間に、見舞って来るとするぜぇ。それと永岡、オイラも御奉行から、今度の探索に加わる様に言われてるんで、今夜辺り繋ぎを入れようぜぇ」
「はい。では、智蔵んとこの『豆藤』にいつも集まってるんで、今夜『豆藤』で」
「おぅ、じゃぁ今夜な」
新田は永岡に頷き、同心部屋を出て行った。
「一度新さんにも、話しを聞いておくとすっかなぁ。って言っても、何処に住んでるかも判らねぇんだったな。ふふ」
永岡は今まで自分の中で思っていた不安を、新田に念を押される様に言われ、弱気になっている自分を小さく笑った。
*
「どうでぇ、あの浪人の出入りはありそうかぇ?」
永岡は、西海屋を改めて探り直している智蔵と伸哉に合流し、その後の状況を聞いた。
今は北忠も傷を負い、松次も江戸を離れて探索をしているので、手が足りない状況だった。その為尾張屋敷の方は本格的に捨て置き、今は弘次のみに頼っている。
「へい、時折出入りしてるところを見たってぇ、棒手振りの男がいやした。その男は、浪人に凄ぇ不気味な目で睨まれちまって、小便ちびるくれぇ怖ぇ思いをしたってぇんで、そん時の事ぁ良く覚えてたって訳でさぁ」
「名前は知れたのかぇ?」
「それが未だ、名前まではつかめてねぇんでやす」
智蔵はすまなそうに頬を撫でる。
「昨日の今日だが、またオイラが顔出してみるかぇ?」
永岡が思い切った事を智蔵に持ちかけた時、
「旦那、どうやら宗右衛門が出かける様でやすぜぇ?」
伸哉の声に永岡と智蔵は、今にも駕籠に乗り込もうとする宗右衛門を見た。
「不気味な目をしてやがるぜぇ。あれで本当に商人とはなぁ」
永岡は始めて見た宗右衛門に、商人では考えられない凄味を覚えた。そしてその腰の座りから、元は武士なのでは無いかとさえ思えたのだ。
それに永岡は、宗右衛門が駕籠に乗り込む寸での所で、何気無くこちらに向けた目を見た時、背筋に冷たい物さえ感じていたのだった。
「由蔵も供で付いて行きやがりますぜぇ。店に乗り込むどころでは、無くなって来やしたんで、とにかく後をつけてみやしょう」
智蔵がそう言って、伸哉に駕籠の先を歩く様に指示を出し、宗右衛門の乗る駕籠を挟みながら尾行する形で、行き先を突き止める手配りを決めた。
智蔵が警戒して尾行する時に使う手である。
時折前を行く者と後ろから追う者とで、入れ替わりながら尾行するので、相手が突然止まったり、何処かへ立ち寄った際にも、足を止める事なく相手をやり過ごし、前後を入れ替えて尾行を続けられるので、怪しまれたり、巻かれたりする事が少なくなるが、呼吸を合わせるのも難しいので、誰もが出来る尾行ではなかった。
「では親分行ってめぇりやす」
伸哉は勇んで走り出した。
「旦那、あっしらも行きやしょうかぇ」
智蔵も永岡に声をかけて歩き出した。
*
「商用にしちゃぁ、方向が怪しいなぁ」
永岡は歩き出して、暫くすると口を開いた。
西海屋の有る浅草御蔵近くの黒船町から、この先は町場が少なくなる浅草方面へと向かっていたからだ。
「へい。まさかこの時間から、吉原ってぇ訳じゃ無ぇと思うんでやすがねぇ」
智蔵も訝しんで応え、首を傾げた。
「商用じゃ無ぇとしたら、面白くなって来るんだがなぁ。今日の内に、あの浪人者の寝ぐらが知れると良いんだが、そう上手ぇ事行ってくれりゃぁ良いな」
永岡は微かな希望が見え、気持ちが逸って来た。
「まぁ、そう願ぇやしょうかぇ」
智蔵も同じ様に期待していた様で、少し上気している。
前を行く駕籠は、案の定吉原へと続く道では無く、更に先に向かっている。
「旦那、まずいでやすぜぇ。どうやら舟に乗り換えそうな雲行きでやすよ」
「あぁ、そうらしいなぁ。オイラ達も舟をみっけられると良いんだがなぁ」
橋場町近くまで来ると、宮戸川(大川上流・隅田川)の百姓渡しの船着場へと、駕籠が入って行ったのだ。
伸哉はそのままやり過ごして、遠ざかって行く。
「やけにしけた船着場じゃねぇかぇ…」
永岡は自分達が乗る舟が無いのではとの不安がよぎる。
「旦那、ここはやり過ごしやすぜぇ」
智蔵が言い、駕籠が止まった船着場をやり過ごした。
「舟はありそうだったなぁ」
永岡はちらりと横目に見た船着場に、舟が二艘、舫って有るのを見かけていた。
「へい、二艘はありやしたねぇ」
智蔵も同じ様に見てとっていた様で、そう永岡に応えた時に、伸哉が前から戻って来た。
「伸哉、この先には他に船着場は有るのかぇ?」
永岡は伸哉に問い質すが、伸哉はもっと先は解らないが、自分が通った途中には、見当たらなかったと応える。
「とにかく、宗右衛門達が舟を出したら、もう一艘の舟で後を追おうじゃねぇかぇ」
永岡が言うと、三人で船着場まで戻って行った。
「由蔵の奴ぁ、何やってやがんでしょうねぇ?」
船着場が見える茂みに隠れ、様子を伺っていたところ、伸哉が不審な思いを口にした。
「尾行に気づかれたのかもなぁ」
宗右衛門が舟に乗り込み岸から離れても、由蔵だけが残って周りを見回し、したり顔をしている様に見える。
「そうでやすかぇ…。あっしのせいでやすかねぇ」
伸哉は首を傾げて、未だ慣れぬ形の尾行だった為か、自分を責めていた。
「用心に過ぎるくれぇの、輩なのかも知れねぇし。伸哉もそう気にするねぇ」
永岡が一声かけた時に、おもむろに由蔵が残りの一艘の舟に乗り込み、静かに岸を離れて行った。
「ちっ」
永岡は舌打ちし、小さくなって行く舟影を睨む様に見る。
「まぁ、しょうがねぇやな。そう簡単には行かねぇってぇ事さぁね。とにかく、あの西海屋宗右衛門は、相当な癖者らしいぜぇ」
永岡達は由蔵の乗る舟が遠ざかってから、船着場に駆けつけ、使える舟が無いか探したのだが、他に舟は舫っては無く、追おうにも追えなくなってしまった。
「今日のところは、ここで帰りを待つとするかぇ?」
永岡はそう言って、智蔵を確認する様に見た。
「そうしやしょう。しかし、旦那。取り敢えずここは伸哉一人に任せて、あっしらは西海屋へ戻って、聞き込みをしながら帰りを待ちやしょう。それに、帰りは別の道筋を通るかも知れやせんからねぇ」
「それもそうだな。伸哉、頼んだぜぇ」
永岡が伸哉に頼むと、智蔵は、もし夜遅く宗右衛門達が戻って来たとしても、後は西海屋へ帰るだけだろうから、余り遅くまで居る必要は無いと言いおき、
「そう言う訳だ、伸哉。日暮れの頃合いを見計らって戻って来ねぇ」
と、伸哉にこの場を託した。
そして永岡と智蔵は、西海屋へと戻って行くのだった。




