第五十話 提灯の灯り
「あぁ〜あ」
みそのは永岡達が帰った後、永岡が置いて行った一分銀を眺めながら、今日キャンセルしてしまった、夫の事を考えていた。
元々夜は永岡が来る事が分かっていたので、夫には申し訳無い気持ちだったが、地元の友達と新年会があるとの嘘を伝えていた。
なので、一人で映画に行く事になってしまった夫は、そのまま群馬県にある社宅へ帰る事になっていた。
「最近旅行にも行ってないなぁ…」
以前は良く休みを合わせ、二人で旅行に行ったものだが、夫が研究室長になってからは、徐々に夫も忙しくなり、ここ最近では研究室に泊まり込むのが当たり前で、めっきり休みも取れなくなっていた。
みそのは、ぽつりぽつりと独り言と溜息を吐きつつ、中々東京へと帰ろうとはしないのだった。
*
「様子はどうでぇ?」
永岡が小屋の中にひょっこり顔を出して、声をかけて来た。
今日は見張りに都合が良い事も有り、賭場の向かいにある小屋を、政五郎から特別に借り受けていたのだ。
ここは普段、駕籠舁の若い衆が仮眠に使ったり、物置きに使っている小屋との事だ。
「旦那ぁ、今日は大丈夫だって言ったじゃねぇでやすかぇ?」
智蔵が呆れたように言う。
西海屋を出た永岡と智蔵は、その足で政五郎の店へ顔を出し、『豆藤』で北忠と伸哉の報告を聞いていた。
智蔵は、永岡がその後、弘次と打ち合わせをする事を知っていたので、今夜の賭場の見張りは自分達に任せ、永岡は戻って来なくても良いと、気を利かせて言っていたのだった。
しかし、北忠と伸哉が、今日の自分達の調べが散々だった事も有り、智蔵と留吉の助っ人を買って出ていたので、永岡としても自分だけ休んでいる訳にも行かず、弘次と別れると直ぐに引き返して来たのだ。
「まぁ、オイラだけ遊んでる訳にもいかねぇかんなぁ」
永岡は、眉を寄せて呆れている智蔵に笑いかけると、改めて状況を聞いた。
「へい、あっしらが来た時にゃ、既に庄左衛門は賭場へ収まっていやしたんで、着いて早々、伸哉を中の留吉んとこへ繋ぎに行かせやした。留吉の話しでは、そん時ぁ庄左衛門もそこそこ勝ってやがったみてぇで、上機嫌で遊んでやがるとの事でやしたぜ。まあ、後は無事に負け込むのを見届けるだけでさぁ」
智蔵は「任せておいてくれりゃあ良いものを」と続け、困った様に笑った。
「庄左衛門は一人で来てるのかぇ?」
永岡は裏に西海屋が絡んでいると踏んだ時から、店の奉公人が変わったのは、庄左衛門への監視なのでは、との思いが強くなっていた。
「いえ、いつもそうらしいんでやすが、今夜も供も連れず一人で来てまさぁ」
智蔵が「お気楽なもんでやすよ」と鼻で笑う。
「ところで忠吾は何処行ったんでぇ?」
永岡は北忠が見当たらなかったので、先程から気になっていたのだ。
「へ、へい。北山の旦那は、先程ちょいと見回って来ると言いやして、外に」
智蔵がこめかみを指で掻きながら言う。
「あの野郎、余計な事しねぇと良いんだが」
永岡が吐き捨てる様に言った時、
「やっぱり夜の張り込みは、夜泣き蕎麦を食べないと始まらないねぇ〜。親分さんも遠慮せずに食べて来ると良いよぅ」
と、北忠が上機嫌に帰って来た。
智蔵がバツの悪い顔をする。
「ちっ」「あっ」
永岡の舌打ちと、北忠が永岡に気づいて驚いたのが同時で、北忠は決まり悪げに首を竦めた。
「あ、じゃねぇっつぅの、あ、じゃぁ。お前、さっき豆藤で食ったばっかじゃねぇかよっ」
永岡は呆れ顔で北忠を叱り付ける。
「い、いえ、ねぇ。蕎麦は別腹とか何とかい…」
「言わねぇよっ!」
永岡は北忠がいつもの様に、だらだらと言い訳を始めそうだったので、あっという間に断ち切って北忠を睨みつける。
「…すみません」
北忠は小さくなって謝る。
「まぁ、今日みてぇな見張りは、余計な事さえしなけりゃぁ、蕎麦でも寿司でも好きに食って良いんだがよぅ。ったく、お前の胃袋はどうなってんでぇ」
「北忠の旦那らしいでやすねぇ」
伸哉は可笑しそうに笑っている。
「お、おい、伸哉。北山の旦那だろぃ」
智蔵は小声で伸哉を叱りつける。
伸哉が北山忠吾の事を北忠と、陰で言っているのは知っていたが、本人を目の前にしても言っていたからだ。
「あ、あっし、言ってやしたかぇ?」
伸哉が小声で聞き返して、しくじり顔をする。
「あの、そこのお二人さん。聞こえてますよ。まぁ北山だろうが北忠だろうが、私は養子なんだし、こだわりは無いので呼びやすい方で、呼んでもらって良いんですがねぇ?」
北忠が何気に聞いていて、呑気にこぼす。
「何がこだわりは無ぇでぇ。お前は呼ばれるだけありがてぇってぇの。ったく」
「ふぁ〜あぁ」
「今度はなんだよ、あくびなんかしやがってよぅ」
永岡は呆れ顔で、また北忠を叱りつける。
「い、いや、食べたらつい眠気が、その、す、すみません」
「ったく、お前はよぅ。いつも言ってるが、飯食いに来てんじゃぁねぇっつぅのっ」
永岡は北忠にいつも調子を崩されるのだが、どうも憎めない。それどころか、最近ではそれを楽しんでいる節がある。
「でもまぁ、さっき智蔵が言った様に、今日の見張りは、そこまで張り切る事ぁ無ぇっちゃ、無ぇんだがな?」
永岡は由蔵のおかげで、西海屋が絡んでいるのが明らかになっているので、今回の偽薬が、庄左衛門から西海屋へ繋がっている事は、既に探るまでも無くなっていると言う。
「そんなんだから、忠吾。眠いんなら明日っからの働きの為にも、帰っていいんだぜぇ。別に咎めて言ってるんじゃぁねぇぞ」
「い、いや、大丈夫です永岡さん。何の為に蕎麦を食べて、雰囲気作りをしたのか解らなくなりますし」
北忠は頭を掻きながら苦笑いをする。
「蕎麦なんか食わなくったって、見張りくれぇ出来ねぇでどうするよっ。ったくお前は」
永岡が北忠に呆れ顔で笑うと、智蔵も伸哉も、頬を緩めて和やかな雰囲気に包まれた。
和やかに笑う皆を見た永岡は、
「まぁ、今日みてぇに、気楽な見張りも偶には良いさな」
と続け、ここ最近の緊張感を思うと、偶には気を緩めるのも悪くは無いとばかりに、皆と一緒に笑うのだった。
しかし、この後永岡は、この気の緩みを悔やむ事にのるのだが、今は未だ何も知らず、小さくなって頭を掻いている北忠を、穏やかに笑っているのだった。
*
「今日はありがとうな。助かったぜぇ」
庄左衛門が存分に負けて帰った後、永岡は政五郎に挨拶しに来ていた。
「滅相もねぇでやすよ、旦那。こんぐれぇお安い御用でやすのに、心付けまで存分にいただいちまいやして、逆に恐縮でさぁ」
永岡は昼間の打ち合わせの際に、一分銀四十枚の心付けを渡していた。
庄左衛門にかかった木札代として、つい先ほど西海屋の由蔵から、もらった金の中から政五郎に渡したのだ。
残りは、智蔵と弘次とみそのへ全て渡してしまっている。
「あの金は西海屋から出てるって言ったじゃぁねぇかぇ。こいつぁ西海屋の調べなんだから丁度良いさね。そんな事ぁ気にすんねぇ」
永岡はそう言って腰を上げた時、外からやかましい声が近づいて来た。
「てぇへんだ、てぇへんだぁ。だ、旦那ぁ」
伸哉が血相を変えて飛び込んで来たのだ。
念の為、北忠と智蔵、伸哉の三人が、賭場を出た庄左衛門の跡をつけ、庄左衛門が店に入るまで見届ける事になっていた。
そんな跡をつけているはずの伸哉が、大慌てで引き返して来たのだった。
「ど、どうしたんでぇ?!」
永岡が言うと、政五郎も腰を上げて、伸哉のただならぬ顔に緊張する。
「き、北山の旦那が斬られやしたっ」
はぁはぁしながら、伸哉は青い顔で応える。
「何だとっ! 忠吾は無事なのかぇ?!」
永岡は伸哉にがぶり寄り聞き返す。
「わ、判りやせん。と、とにかく親分が、永岡の旦那に知らせて来いって、あっしを…」
はぁはぁと息を切らせながら、伸哉が涙目になって永岡を見ている。
「伸哉、未だ走れるかぇ?」
「へ、へい、旦那。案内しやす」
永岡に聞かれた伸哉は、息急き切りながらも応えて、永岡を案内する為に走り出した。
「忠吾、おい、しっかりしねぇか!」
現場へ駆けつけた永岡は、北忠に声をかけているが、北忠は息は有るのだが、意識を失っていて返事は無い。
「政五郎、こっちへ戸板を頼む」
政五郎の若い衆に戸板を運ばせていたので、これから戸板へ北忠を乗せ、政五郎の店まで運ぶのだ。
既に政五郎は別の若い衆を医者へと走らせ、店では準備をして待つ様に手配りをしていた。
「ゆっくりな、いいか?」
永岡は、智蔵と伸哉、そして一緒に駆け付けた留吉とで、北忠を慎重に戸板へうつ伏せに乗せる。
「急いで欲しいが、慎重に頼むぜぇ」
永岡は政五郎の若い衆に言い、戸板ごと運ばれて行く北忠を見送った。
そこへ智蔵が声を詰まらせながら、
「だ、旦那」
と、永岡に声をかけて来た。
永岡が智蔵に目を向けると、智蔵は着物を血で汚し、涙目になっている。
「で、大丈夫でぇ。オイラの見たところ命に別状はねぇはずでぇ」
永岡は深手の北忠を思い返しながらも、安心させる様に希望を持って言う。
そして永岡は、五間程先に首の皮一枚だけで繋がった、庄左衛門らしき壮絶な遺体を見ながら、
「一体なにが有ったんでぇ?」
改めて智蔵に聞いた。
「へ、へい」
智蔵は一呼吸して、自分を落ち着かせる様にしてから話し始めた。
「あっしらは、庄左衛門の跡をつけて歩いていたんでやすが、突然物陰がら、覆面の男が飛び出して来やがって、それを見た北山の旦那が、駆け出して助けようとしたんでやす。しかし覆面の男は、あっと言う間に庄左衛門の首を斬っちまいやして、北山の旦那にも斬りかかって来たんでやす。そん時、咄嗟に十手を投げ付けたんでやすが、簡単に刀で弾かれちまいやして、北山の旦那をあの野郎が…」
智蔵が声を詰まらせたが、気を取り直して続ける。
「あっしと伸哉が駆けつけた時にゃ、悠々とあっちへ歩いて行きやがったんでやす。しかし、奴を追っても、殺られるだけだと思いやしたんで、それよりも旦那に知らせようと、伸哉を走らせた次第でやす」
智蔵が悔しそうに話し終えた。
「そうかぇ、良くやったな。智蔵」
永岡は智蔵の肩を叩き、伸哉にも目を向けて二人を労った。
「お前が十手を投げ付けて無けりゃぁ、今頃忠吾もあの世へ行ってただろうよ。ありがとうな」
永岡は提灯の薄明かりを頼りに、闇の中から智蔵の十手を拾い上げ、智蔵に差し出してながら礼を言った。
そして庄左衛門の遺体を、その提灯で照らして検分する。
「伸哉、悪りぃが番屋までひとっ走りして、こいつの後始末をしてくれねぇかぇ?」
永岡は庄左衛門の遺体を顎で指しながら、後ろに立つ伸哉に頼んだ。
「へい、合点でぇ」
「あぁ、そうだ伸哉。番屋から奉行所へ、誰か走らせてもらってくんな。オイラと智蔵は政五郎の店へ戻ってるんで、お前も終わったらそっちへな?」
走り出そうとしていた伸哉にそう言うと、永岡は動揺している智蔵を抱える様にして、北忠が運ばれた政五郎の店へと向かう。
永岡は片手に智蔵を支える様に歩きながら、
夜の闇に浮かぶ提灯の灯りが、いつもよりやけに心細く感じるのであった。




