第四十六話 黒白
「ほぅ、町方の密偵がのぅ」
新之助は城に戻って早々、南町奉行、大岡越前守忠相が待っているというので、急ぎ目通りを許し報告を受けていた。
大岡は、今朝方永岡から報告を受け、登城した際に目通りを願い出ていたのだが、その時は既に、吉宗は町へと繰り出した後だったようで、目通りが叶わなかったのだ。
「証拠はなかったにせよ、その坂上と言う者が偽薬に絡んるのじゃな?」
「はっ、上様がお掴みになっている、通春様の書き付けは、どの様な物でござったのでしょうや?」
大岡は吉宗の問いに応えず逆に吉宗に問うた。
「ん? 何をじゃ?」
吉宗は訝しむ様に大岡を見た。
「いえ、うちの永岡の密偵が申すには、公儀の隠密らしゅう者が、先に通春様の部屋を探っていたと、申していたそうに御座います。それ故、それは上様の手の者かと考えまして、その者が先に、通春様の書き付け等を調べた際、証拠となる様な物を、持ち出してはいまいかと、思った次第に御座いまする」
頭を下げて話す大岡を、吉宗は見下ろしながらニヤリとする。
「見られておったと言うのじゃな。ふふ、まぁ良いか。忠相、その通りじゃ。あの後ワシも手を打っておってな。通春を探らせたのじゃが、忠相が思っている様な、身のある報告は無かったのじゃよ」
吉宗はそう言って、文机から何やら出して大岡を呼んだ。
「これは?」
大岡は何かの書き付けらしい巻紙を、受け取りながら問うた。
「その者が、通春の書き付けの中から、気になった物だけ書き写して来た物じゃ。まぁ、今回の事とは無縁の事じゃがな」
大岡が巻紙を広げて書き付けに目を通す。
「なるほど。これは問題と言えば問題でござるが、上様の仰る通りに、今回の事とは関係がない様に思えまする」
吉宗に巻紙を戻した大岡は、元いた場所に座り直し、
「では上様に、忠相の考えを申し上げまする」
と、改めて話し出した。
「上様の方でも、証拠をお持ちで無いとしたら、通春様は余程用心なされていて、書き物には、お残しになられていないのやも知れませぬ。ですから、坂上と言う男との関係を更に探る様には、既に指示を出しておりますれば、暫し探らせた上で、もう一度状況を鑑みて、通春様の処断をしとうござりまする」
大岡は吉宗に顔を上げて、訝しそうに続けた。
「または、通春様は全く関わりが無く、上様と尾張徳川家、予てよりの確執を利用した何者かの、天下を揺るがす陰謀とも考えられまする。ただ、尾張徳川家まで巻き込んでの、企てと考えますると、手が込んだ割には、一つ間違えば、尾張徳川家をも敵に回すやも知れず、謀反の企てにしては、少々危うい物かとも思えまする。そしてその様な企てが出来そうなお家も、限られて来ましょうから、それを慮っても、当てはまりそうなお家が浮かんで来ませぬのが、現状では無いでしょうか?」
大岡は吉宗を伺う様には見る。
「その辺りはワシが調べろと言うのじゃな。ふふ」
大岡は何も言わず頭を下げて、それを返事とした。
「まぁ、町方の役目ではないからのぅ。調べさせてみるわい。また何か解ったら報告にまいれ。その時に、ワシの方で調べさせた事を伝えるでな」
「ははっ」
大岡は畏まって引き下がって行った。
「……」
「源次郎、聞いていたな」
「はっ」
大岡が立ち去った部屋の片隅に、いつの間にか膝をつき、控えていた男が吉宗に応えた。
「早速配下を集め、最近不穏な動きのある大名がないか、調べてくれんか。それにお主は、もう少し通春を探って欲しいんじゃが」
「はっ」
「ところでお主は、通春を探っていたところを、町方の密偵に見られていた様だぞ」
吉宗は揶揄う様な口調で笑った。
「はっ。上様が本日お寄りになられた、『みその』とか言う女の家へ、町方同心の永岡と言う者に報告しておりました、弘次と言う者にてござりまする」
「ふ、なぁんだお主は解っておったのか。つまらんのぅ」
吉宗は笑いを引っ込めて白けた様に言う。
「盗人か何かかとも思いましたが、一人で御座いましたし、町方でも動いている事だと思いました故。それに盗人であったとしても、尾張屋敷を護るのが、務めではござりませぬので、その場は捨て置きましてござります。念の為、その者がその日は動けぬ様に、時間をかけて通春様の部屋を探り、天井裏で暫く身を潜めてから出てまいりました。それから上様へご報告に上がった後、また屋敷へと赴き、その者が屋敷から出て来るのを待ち伏せ、跡を付けた事により、身元を確かめた次第にござりまする」
飄々と応える源次郎に、呆れるやら、頼もしく思うやらで吉宗は声も無く笑う。
「では頼むぞ」
「はっ」
吉宗に応えた源次郎の姿はいつの間にか、部屋の片隅から消えていた。
「ふふ、源次郎め。普通に出て行けば良い物を」
吉宗は、ぼそりとこぼして頬を緩めるのであった。
*
「ひょ〜っ、美味いっ。うん、凄いねぇ〜」
北忠こと北山忠吾は、念願の『豆藤』で唸りながら軍鶏鍋を突いている。
今朝方、藤沢宿の旅籠を早立ちして、歩き通しでへとへとになりながら、豆藤に辿り着いたのだ。
どうやら敢えて昼も軽く済ませ、腹を空かせて来た様なのだ。
「………」
永岡達も最初は、憔悴しきった北忠を心配していたのだが、今はそんな北忠を半ば呆れ、口を開けて眺めている。
「やはり私の思っていた通りですよぉ。永岡さん」
「ちっ。ったく何が思った通りだよ。飯を美味く食う為に、お前を行かせたんじゃねぇんでぇ」
漸く口を開いた北忠に永岡は、久しぶりの舌打ちをする。
「いやいやいやいや、それは違いますよぅ、永岡さん。美味しい物をより美味しく食べる。そして、不味い物を美味しく食べる方法を、偶々探索の途中で発見してしまっただけで、旅先での食事は普段なら然程の事も無い、本当に大したことの無い、と言うよりも、酷い物ばかりだったんですからねぇ。まったく永岡さ…」
「どうでもいいやぃ! ったくっ」
北忠が口を尖らせて反論じみた事を言うので、永岡は途中で、話しに蓋をする様にどやしつけた。
「とっとと食っちまえっつぅの。ったくよぅ」
それでも永岡は、首を竦める北忠に、少し可笑しみを感じながら飯を勧めると、
「このままだと忠吾が全部食っちまうぜぇ。お前らもやってくんなぁ」
と、智蔵達にも腹を満たす様に勧めたのだった。
「ほぅ、それでお前だけ、先に帰って来たってぇんだな。それで納得いったぜぇ」
北忠が話すには、途中の飯屋で追っていた二人組と意気投合し、その後一緒に旅を続け、粗方の話しは聞けたので、自分はその後の手配りをする為、一足先に江戸へと引き返して来たとの事だった。二人共悪事に加担させられてるだけで、善良な百姓だと判断し、話しにも嘘が無いと踏んでの事だ。
松次は、未だ場所がはっきりしていない、六郷村の作業場まで、二人組を尾行する事になっていると言う。
「しかしお前も紙一重だぜぇ。そんな荒技滅多に使うもんじゃねぇぜ。ふふ、今回は、その百姓達が善良な人間ってこって、上手く行っただけだかんなぁ」
「は、はぃ」
実際、最初は北忠も成り行きで、そこまで考えていなかったので、流石に畏まっている。
「しかし、尾張藩の役人が、領民にやらせてるってぇのは驚きだなぁ。それじゃぁ尾張藩が絡んでるってぇ事の、証しみてぇなもんじゃねぇかぇ? 益々尾張が黒くなって来やがったぜぇ。忠吾、でかしたぞ」
未だその百姓達が何を作っているかは、はっきり判っていないが、十中八九、阿片入りの偽薬に間違い無いだろうと判断し、それを作っているのも、作らせているのも尾張藩の者で、それを捌いているのも、尾張藩の者が絡んでいる現状に、永岡はそう判断して北忠を労った。
「まぁ、松次が尾行してるにしても、あと三、四日は戻って来ねぇはずだから、忠吾は明日っから、伸哉を助けてやってくんな。留吉は政五郎の賭場に前乗りして入って、オイラと智蔵は巳吉と会ってた男と、念の為、巳吉も手分けして張ってみるとして、追っ付け賭場にも顔を出さぁな。そんな手配りで明日は頼むぜぇ」
永岡は、北忠へ今日は豆藤で存分に食べて、ゆっくり休む様に言って立ち上がる。
これから弘次の報告を受ける為、早々に豆藤を後にし、みそのの家へと向かうのだった。
*
永岡がみそのの家の前まで来ると、丁度弘次が路地から現れたところだった。
「お前、気を使わねぇでいいってのさぁ。ったく、先に中へ入って、酒でも出してもらってりゃいいものを」
永岡が自分を待っていた事を察して言うと、弘次は顔を撫でながら、自分も今着いたのだとニヤリと笑った。
「ったく、しょうがねぇなぁ。じゃぁ、邪魔するとするかぇ?」
永岡は呆れて言って、弘次とみそのの家に入って行った。
「毎日で悪りぃな、また今日も頼むわぁ」
永岡がすまなそうに片手拝みで、みそのに詫びると、みそのも文句を言う気も失せてしまう。
永岡にこうやって片手拝みに頼まれると、その後の笑顔が見たくて、つい頼みを聞いてあげたくなってしまうのだ。
『全く旦那はずるいんだよ』
みそのは心の内でつぶやくと、永岡の笑顔に嬉々として、酒の用意をするのだった。
「ほぅ、こりゃ何なんだぇ?」
永岡は囲炉裏に掛けられた、鍋の中の真っ白い物を見て、興味深そうに聞いた。弘次も隣で目を丸くしている。
「今日は辰二郎さんが、お春ちゃんに精を付けさせるのに、軍鶏を仕入れて来たと言って、うちにもどうせ、永岡の旦那が来るんだろうからと、差し入れしてくれたんですよう。辰二郎さんを見かけたら、ちゃんとお礼を言ってくださいねぇ?」
みそのは新之助が帰った後、俄か現れた辰二郎からの頂き物を、今日の肴にする事にしたのだ。
「い、いや、そりゃ解ったが、この白いのは何でぇ?」
「あぁ、大根ですよ。大根を摩り下ろした物が入ってるんですよう。煮立って来たら汁気も出て来ますからね? そうしたらこの軍鶏と一緒に、ここへ取って食べてくださいね?」
永岡の問いにみそのは、予め湯通しした軍鶏肉を鍋に入れながら、ポン酢の入った小皿を、永岡と弘次に差し出した。
「へぇ〜、こりゃ美味そうでやすねぇ〜」
弘次も涎を垂らさんばかりに、期待の目を向けている。
「お好みで七味をかけてくださいね?」
みそのは更に長葱と油揚げを入れて、煮立って来るのを待った。
「旦那、今日は私の話しを聞いてくださいますか?」
みそのは、くつくつとしだした鍋の底をお玉で返しつつ、永岡に話しかけた。
「おぅ、なんでぇ?」
「いえ、昨日も話そうと思っていたんですが、旦那達は湯漬けを食べたら、さっさと帰ってしまいましたから、今の内に話しておこうと思いましてね?」
「そ、そうだったのかぇ。そりゃぁ悪かったなぁ。なんでぇ、言ってみろぃ」
永岡は素直に謝りつつ、鍋が気になりながらも、みそのに聞き耳を立てた。
「はぃ、ではお話しさせてもらいますね」
みそのは永岡をちらりと見ながら、相変わらず鍋の世話をしている。
みそのは鍋の世話をしながら、
「昨日の事なのですが、私はお加奈さんに呼ばれていたので、両国のお店まで出掛けたのですけど、その途中の両国橋の広小路で、道庵先生の所に来た男が、お侍の格好をして歩いているところを、偶然見かけたんです」
と、話し出し、見かけたその男の跡をつけると、程なく茶店に入って行き、番頭風の男と会っていてるところを目撃したのだと話す。
そして更にみそのは話しを続け、自分も茶店に入って聞き耳を立て、そこで聞き取れた二人の話しによると、男の名前は飯田で、番頭風の男は由蔵と言う事がわかり、茶店では、飯田が由蔵に金の無心をしていた様に見え、飯田が茶店を出て行ってからも、後をつけていたのだが、その時に偶然新之助と出会い、一緒に男を追ってもらう事になり、飯田が広尾村の仕舞屋に入って行ったところを、突き止めのだが、その仕舞屋を、新之助と一緒に見張っていたところに、突然覆面の男に襲われ、危うく新之助がやられそうになってしまった事を、一息に話した。
「そ、そんな事があったのかぇ。お、お前はまた…」
永岡はみそのの話しを聞くにつれ、その話しが危なっかしくて、先程からそわそわとしていたのだ。
「まぁまぁ、それで解ったが事もあったんだし、新さんだってついて来てくれたんだから、良いじゃありませんかぁ?」
「お前なぁ。新さんは偶々だろぅ? その新さんが居なかったら、お前はその凄腕の男に、殺されちまってたかも知れねぇんだぞ。ちったぁ先の事も考えろってぇのっ」
永岡はみそのが宥めても中々治らない。
「それに、そんな大事な話しを、なんで昨日しねぇんでぇ」
「だ、だから最初に言ったじゃないですかっ。旦那達は自分達の話しをしたら、湯漬けを食べて、さっさと帰ってしまったってぇ」
みそのは口を尖らせて反論する。
これにはバツが悪かったのか、永岡も何か言いかけて黙ってしまう。
「でも、そこを呼び止めてだなぁ…」
小さな声でぼそりと言って、永岡は、「悪かった」とみそのに謝まると、少し落ち着きを取り戻したのか、
「まぁ、これからは余計な事ぁしねぇで、気をつけるんだぜぇ」
永岡はみそのを心配そうに見て戒めた。
「は、はぃ、気をつけます」
みそのも永岡にそんな目で見られたら、反論も出来ずに素直に従った。
「それで今日の事なんですが、新さんが訪ねて来てくれて、その飯田って言う人は、尾張様のお屋敷に入って行ったって、昨日つけて行ってくれた時の事を、教えに来てくれたんです。その前に襲って来た男も追ったみたいですが、そっちは逃げられてしまったみたいです」
みそのは新之助の手の者の話しを、新之助の話しとして伝えた。
「ほぅ、尾張屋敷にねぇ。やはりあいつだったんだな」
永岡は飯田が本当に、道庵の元に現れた町人と同一人物ならば、自分が追って行った屋敷に入ったのだろうと、確信を持って頷いた。
「でも、あの新さんが、危うく殺られそうになったってぇのは、その覆面の男は、相当の遣い手だったんだろうなぁ」
永岡は新之助の剣技は見た事は無いが、実際に会って、自分と同等の剣技は持ち合わせていると、看破していたので、自分がその覆面の男と対峙しても、勝ち目が無かったのではと、背筋に冷たい物が流れるのだった。
「まぁ、そのうち出くわすんだろうがなぁ」
永岡は小さく独り言ちて、未知の対決に武者震いした。
「あ、もう食べられそうですよ?」
永岡が奮い立っていた時に、みそののそんな長閑な声がして、現実に引き戻してもらう。
「おぅ、ありがとうよ」
みそのが永岡と弘次に取り分けてやり、永岡はそれを受け取って礼を言う。
「じゃぁ、いただこうじゃねぇかぇ弘次」
「へい」
ふうふうしながら、熱々のおろし軍鶏鍋を口にすると、永岡と弘次は顔を見合わせて頷き、黙々と口をハフハフとさせながら食べる。
本当に美味しい物を食べると、人は黙ってしまう様だ。
みそのはそんな二人を嬉しそうに見て、にこにこと、お代わりをよそってあげるのであった。




