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第四十四話 江戸恋し



 プシュッ


「あぁ〜、これこれ。これよぉ!」


 希美は江戸から戻ると、何よりも先にするのがこれだ。

 この希美を感嘆させている、白い帽子を被る琥珀色の奇跡は、グラスの表面に薄っすらと浮かぶ露で、より美しく見せている。


 先程まで、永岡と一緒に弘次こうじを待っていたのだが、結局最後まで弘次は現れなかった。

 永岡も弘次を待つ間は、昨日はみそのと甘い夜を過ごした為か、何とも言えない雰囲気になりかけるのだが、弘次を待つ手前、妙に落ち着きが無い様にも見えた。

 そして、町木戸が閉まる四つの鐘が合図の様に、今日は弘次は来ないと決めつけ、着替えも有るからと言い出し、永岡は八丁堀の役宅へ帰って行ったのだ。


「永岡の旦那も、あんなにいそいそと帰る事無いのになぁ」


 希美はポツリと言って、綺麗に泡立った白い帽子に口をつける。


「でも新さんには驚きよねぇ〜」


 まさか新之助が、あの徳川幕府の将軍である徳川吉宗で、しかも、希美と時期は違えど、その吉宗は希美と同じ、現代から来た人物だった事に驚いている。


「でも新さんは私と違って、ある時突然タイムスリップして、それからずっと、あの時代で過ごしてるんだよなぁ。心細かっただろうなぁ」


 希美は、新さんこと徳川吉宗の心情を思うと、しんみりとして来る。


「14歳の時に、タイムスリップしたって言ってたから、親御さんも相当心配しただろうし、悲しんだんだろうなぁ」


 いくら戦争中で、若い命が沢山失われた時代だとは言え、急に息子を失う事になった親としては、相当な悲しみだったのだろうと、希美は新之助の親御さんの気持ちを慮り、切ない気持ちで居た堪れない。


「私も新さんと同じ様に、江戸から帰って来られなくなったりしたら、家族は相当悲しむんだろうなぁ…」


 希美は前にも思った事を、再び前よりリアルに考えてしまう。

 しかし、今となっては、江戸での生活が東京での生活よりも、より充実して来ている気がする自分も居て、希美は何とも言えず、心地良ささえ感じているのも事実で、この生活を止めようとも思えないのだ。


「はぁ〜」


 希美はこの事を思うと、溜息をついてしまう。


「新さんはタイムスリップしたおかげで、徳川吉宗として、歴史にも残る人物になった事だし、多かれ少なかれ、後々の歴史にも影響を及ぼしているのよねぇ。それに、もしタイムスリップしないで、あのまま戦争に行っていたら、そのまま呆気なく、死んでしまっていたのかも知れないんだよなぁ。ーーそしたらもしかして私も、私が江戸へ行く事に、何かしらの意味が有ったりするのかしら」


 希美は取り留めもなく考えては、それを肴の様にビールを飲んでいる。そして、この夜は、その考えが纏まる事の無いまま、悶々と更けていくのだった。



 *



「なんでぇ、今日は早速親分のお出ましかぇ?」


 部屋に入って来た雷神の政五郎まさごろうは、嬉しそうに言って智蔵ともぞうの訪いを喜んだ。


「まぁ、無沙汰は勘弁してくんねぇ。それよかおめぇも元気そうでなによりだ」


「おぅよ、無沙汰くれぇが丁度良いってもんよ。あからさまに仲良くしてりゃ、それはそれでおたげぇやりづれぇじゃねぇかぇ」


 お互い良い距離感を解っているので、ベタベタとは付き合わないが、信頼し合っているのが伺える。


「悪りぃな、こんな時ばっかりでよぅ。たまには御用抜きで、顔出してぇとは思ってるんだが中々なぁ。まぁ今度も頼まぁ」


「あぁ、留吉とめきちにも言ったが、そんなこたぁ気にすんねぇ。聞いたら、病人に効きもしねぇ薬を売りつけてるってぇ、話しじゃねぇかぇ。しかも効かねぇだけじゃねぇで、阿片で中毒死する物までいると聞いちゃぁ、ほっとけねぇやな。俺なんかで良かったら、遠慮は要らねぇんでどんどん使ってくんねぇ」


 智蔵が早速御用の筋を願うと、政五郎も快く引き受けてくれたようだ。


「早速なんだが、昨日留吉に話してくれた賭場なんだがな。長命堂ちょうめいどう庄左衛門しょうざえもんが、今でもちょいちょい来るって話しだそうだが、どのくれぇの頻度で来るのかぇ?」


「そう言う話しなら、ちょいと待ってくんなぁ。今うちのわけぇもん呼ぶからよぅ。俺なんかよりかぁ、その辺りのところは解ってるんで、直接聞いたら方がはえぇだろぅ」


 政五郎はそう言うと、立ち上がって襖を開けた。


「おい、誰か喜一きいちをここへ呼んで来てくれっ」


 政五郎は一声かけると、奥から男達の威勢の良い返事が返って来た。


「そんな待たせるこたぇんで、勘弁してくんなぁ」


 政五郎は座りながら智蔵に詫びた。


「永岡の旦那は相変あいけぇらずかぇ?」


 政五郎は永岡の事も知っている様で話しを繋いだ。


「あの旦那も、今じゃぁ立派な切れ者同心よぅ。おめぇがつっぱって張り合ってた頃とは別人さね。ははは」


「俺ぁ、張り合ってなんかいなかったぜぇ。自分が一番 つえぇみてぇな顔が、ちっとばかし鼻に付いただけよぅ。まぁ確かにつえぇ旦那だったがなぁ。もうあれからかれこれ十年くれぇ経つかぇ?」


 永岡が同心になって、独り立ちするかしないかの頃、永岡と政五郎は若気の至りなのか、然程意味も無くやり合い、乱闘まがいにまでなった事もあったのだ。しかし、だからと言って政五郎がお縄になる訳でも無く、二人がいがみ合っている訳でも無く、お互いの力量を認め合っていての、意地の張り合いの様な、妙な関係が続いていたのだ。

 そこへ間に入ったのが智蔵で、そこから智蔵も、永岡との付き合いを深い物にしていったのだ。


「みんな若かったってぇ事さね。ふふ」


 智蔵が思い出し笑いをした時、政五郎に呼ばれた若い衆の喜一が入って来た。


「お待たせしやしてすいやせん、親分」


「おぅ、喜一、おめぇは初めてだったなぁ。こちらは智蔵親分でぇ、挨拶しろぃ」


「へい、あっしは喜一と申しやす。どうぞお見知りおきを、へい」


 喜一は若いだけあって、機敏さを伺わせる所作で智蔵に頭を下げた。


「悪りぃな忙しいところを。今おめぇさんところの親分に、賭場での話しを聞いてたところなんだが、賭場での話しはおめぇさんに直接聞いた方がはえぇってんで、おめぇさんを呼んでくれたんでぇ。そんで早速なんだが…」


 と、智蔵は改めて、長命堂の庄左衛門の事を問い質した。


「へい、確かに西海屋に兄弟が居るって息巻いて、金を無心して来やがった事が有りやした。あの長命堂の庄左衛門は、下手の横好きってぇ具合ぐえぇで、こっちの方は負けっぱなしなんでやすが、金はあるみてぇで、ちょいちょいうちへ負けに来てやすぜぇ。月に四、五日は必ず顔を見せていたんでやすが、そう言やぁ、ここ一月くれぇ顔を見ねぇかも知れやせん」


「ほぅ、そうかぇ。ここ一月くれぇ顔を見ねぇかぇ…」


 智蔵は少し考えて留吉を見た。


「留吉、ここ一月くれぇで、長命堂に変わった事って言やぁ、何があるんだぇ?」


「へい、奉公人が何人か替わり、何やら奉公人の柄が悪くなったってぇ話しは、流しの棒手振りやらからは聞いておりやした。しかし、その奉公人ってぇのが、あまり外出しねぇんで、未だあっしは見ていねぇんでさぁ。そう言う訳でやしたんで、報告までには至っていやせんでした。すいやせん」


「まぁ、奉公人が変わるのは良くある事だしな、気にすんねぇ。しかし、そのめぇから偽薬は出回でめえってた訳だし、この時期に奉公人を入れ替えるのは、なんだか解せねぇなぁ」


 留吉の話しを聞いて智蔵は少し訝しんだ。


「とにかく、暫くはおとなしくしてるってぇ算段だろうなぁ。博打の負けにつけ込んで、西海屋との繋がりを探ってやろうと思ったんだが、今のところ難しそうだな」


「へい」


「ちょいと良いかぇ?」


 智蔵と留吉の話しを聞いていた政五郎が、やおら口を挟んで来た。


「智蔵親分も、そんなにせっかちにかんげぇるこたぇと思うぜぇ。うちの賭場じゃぁ、ぞろ目の日にサイコロで決めた贔屓客に、大入り出してんの知らねぇだろぅ?」


 政五郎は智蔵にニヤリとやって、身を乗り出した。


「普段はサイコロで決めてんだが、それはこっちの胸三寸でどうにでもならぁな。次のぞろ目の日に、庄左衛門に当たったってぇ知らせを入れりゃぁ、あの野郎はうずうずして、おとなしくもしてられねぇんじゃねぇかぇ?」


 政五郎の話しによると、月のぞろ目の日に、サイコロで決めた贔屓の客一人に、十両分の木札を出すと言った、酔狂な催しをやっているとの事で、大概当たりを引いた客筋は、知らせを受けると必ずやって来ると言う。


「そりゃそうだろうなぁ、十両って言ゃぁ大金てぇきんじゃねぇかぇ。良くもまぁそんな酔狂なこたぁやってんなぁ?」


 智蔵は政五郎の提案もありがたかったが、それよりも、その酔狂な催しをやっている、当の政五郎に呆れて笑った。


「いや、そこはこっちも商売しょうべぇよぅ。大概てぇげぇその十両分は、まんまと負けて帰って行くってぇ寸法さぁね。ふふ」


 当たった客は余程の事がない限り、良くても五両程しか手元に残らないとの事で、逆にその十両分の大入り目当てに、贔屓筋の一角に加わらんと客足が伸びるので、十分過ぎる程に元が取れるとの事だった。


「じゃぁ、庄左衛門に当たりを出してもらって、構わねぇんだな?」


「おぅよ、それくれぇ任せてくんなぁ。早速ぞろ目の日は明後日だが、明後日にするかぇ?」


 政五郎は智蔵に応え、次のぞろ目の日が迫っているのを気にした。


はえぇに越したこたぇや。明後日で頼めるかぇ?」


 とにかく早く事を動かしたい智蔵は、政五郎に願い、頭を下げた。


「良いんでぇ親分、そんなこたぁしなくてよぅ。喜一、聞いてたな。はえぇところ段取りしてくんな」


「へい、合点でぇ。失礼しやす」


 政五郎は智蔵の頭を上げさせて、庄左衛門へ手配りする様、若い衆に指示を出すと、機敏な動きでその若い衆は部屋を後にした。


「何から何まで世話になるなぁ。しかしこうなったら、永岡の旦那の耳にも入れなきゃならねぇんで、明日にでも永岡の旦那と、もう一度来る事になると思うが、おめぇ大丈夫でぇじょうぶだよなぁ?」


 智蔵は悪戯っぽく政五郎を見た。


大丈夫でぇじょうぶも何もねぇやな。ふふ、あの頃とは違って、俺も旦那も大人になって丸くなってらぁな」


 政五郎は、永岡と久々に会えるのが、楽しみだと言って笑うのであった。



 *



「あのぅ、本当に大丈夫でぇじょぶだぎゃぁ?」


 猪吉いきち長助ちょうすけは、北忠きたちゅうこと北山忠吾きたやまちゅうごを、いや、ここでは畠山はたけやま忠吾ちゅうごを心配そうに見ている。

 今朝旅籠を出る時、北忠は腹の具合が悪いとの事で、厠から中々離れられず、少し旅籠を立つのも遅れていたのだが、ここへ来ていよいよ我慢ならんと、丁度通りかかった茶店に駆け込んみ、休んでいるところだった。


松次しょうじぃ、私はちょいと駄目かも知れないよぅ。暫くここで休んでから、昨日の旅籠に戻るとするので、お前、私の代わりに、一人で用事を済ませて来てくれないかぇ?」


 北忠は青い顔をしながら、懐から書状と路銀らしい袱紗を取り出しすと、それを弱々しい所作で松次に渡す。


「へ、へい、ですが旦那様」


 松次は心配しながらも、困った様な顔で北忠を見る。


「これを急ぎ届けなきゃならないんだょ。だから頼んだよぅ。猪吉も長助も松次を途中まで頼みますよ」


 北忠は腹を押さえながら、苦しそうに猪吉と長助にも頼んだ。


「へ、へぇ、でんも旦那は本当に、こん先お一人で大丈夫でぇじょぶだぎゃぁ?」


 長助が心配そうに聞くと、北忠は苦しそうにしながらも、うんうんと頷く。そして、「お前たちも、里帰りはゆっくりとしてられないのだから、私は良いからお行きなさい」と、言って無理に笑って見せた。


「では旦那様、急いで行って来やすんで、ゆっくり休んでいてくだせぇ。では途中まで一緒に行くとしようかぇ?」


 松次は覚悟を決めた様に、猪吉と長助にも声をかけ立ち上がった。


「では行ってめぇりやす」


 松次は頭を下げ、それに倣う様に、猪吉と長助も頭を下げて立ち上がった。


「何かあったら、私のお屋敷に来るんだよぅ?」


 北忠が二人に声をかけると、二人は目に涙を溜めてもう一度頭を下げる。そして、北忠を心配そうに気づかいながら、松次と一緒に茶店を後にするのだった。

 北忠は小さくなって行く三人の背中を見ながら、祈る様に手を合わせた。


「猪吉に長助、ごめんよぅ。騙すつもりじゃないのだよぅ。お前達には絶対悪い様にはしないからねぇ」


 北忠はぼそりと独り言ちると、すっくと立ち上がり、三人とは逆の今来た道を歩き出した。


 これは昨日、猪吉と長助が旅籠で風呂に入っている時に、北忠と松次が話し合って決めた事だった。

 北忠達は今まで二人から聞いた限りだと、このまま二人をつけて行っても、二人は里の家族に金か何かを渡し、直ぐにまた戻って来るのだろうと予想がついたからだった。なので、今後は何も北忠と松次の二人で行くよりも、北忠は先に江戸へ戻り、猪吉達から今まで聞き出した事を、永岡に報告し、猪吉達二人が再び戻った時の手配りを付け、松次はこのまま猪吉達と旅を続け、二人が村へと帰るのに別れてからも、密かにまた二人の後を尾行して、六郷の仕事場をつきとめる事にしたのだった。


「でもあんな旅の飯屋でも、美味しく感じるんだから、豆藤の料理は、どんだけ美味しく感じるんだろうねぇ〜。ふぇ〜っ」


 北忠はにんまりしながら、思わず奇声の様な声を上げていて、すれ違う旅人が、皆一様に北忠を気味悪がって避けている。

 そんな周りの様子にも気づかずに、北忠は興奮しながら歩いて行く。

 もう既に、北忠の頭の中は『豆藤』にある様だ。


「くぅ〜っ、堪らないねぇ〜、むふぁぁあ〜」


 北忠は新たにすれ違う旅人を驚かしながら、意気揚々と歩いて行くのであった。



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