第四十二話 危うい探索
「はぁ〜、美味いねぇ〜。やはりお腹を空かせて食べるのは格別だねぇ〜」
昨日と同じ様に、北忠こと北山忠吾は、店に入る前までは黙りこくって、見るからに憔悴し切った様子だったのだが、今は上機嫌で、店中に響き渡る様な素っ頓狂な声で感嘆している。
「ほら、猪吉と長助も笑ってないで、あったかい内に早く食べると良いよぅ」
「本当に旦那は面白ぇお方だがゃぁ、長助や、ではオラ達もいただこうじゃねぇがな」
北忠の様子をクスクス可笑しそうに見ていた二人は、いそいそと昼餉に取り掛かった。
昨日、街道筋の飯屋で北忠に饂飩をご馳走になり、すっかり打ち解けてしまった二人は、北忠の旅は道連れとの言葉に負け、旅籠も同部屋に泊まり、今日も旅籠を一緒に早立ちして旅を続けているのだ。
これには松次も呆れるやら感心するやらで、「もう、ままよ」という具合で、北忠に全て委ねるつもりでついて来ている。
実は、昨日の内に北忠が、二人の名前や行先などは聞いていたのだが、何用で江戸に来ているかは未だ聞けていなかった。
「旦那達も初めての旅だど大変だがぁ」
「はいへんほはいへん、へほ、んっ。美味しいくおまんまが食べられるのだから、旅もあながち捨てたもんじゃないねぇ。ねえ松次?」
猪吉の問いに、北忠は熱々の芋を頬張りながら応えていたので、芋を飲み込むまでは、何を言っているのかわからなかったのだが、どうやら美味しい物さえ食べられれば、北忠にとっては、万事さしたる問題では無いらしい。
「旦那様ぁ、はしたのうございますよ」
松次が、顔を顰めて北忠を窘める。
「ほほひふへほえ、はふひ、はふはふはふはふ、んっ。旅は急いでるんだし、芋は熱い内に食べなきゃ美味く無いんだから、仕方ないじゃぁないかぇ? 旅の恥はかき捨てとも言うじゃぁないかぇ。ねぇ? 猪吉と長助もそう思うだろぅ?」
「へ、へぇ、ほんだぎゃなぁ、はははは」
二人は、北忠の武士とも思えぬ堪え性のなさや、物言いが面白いらしく、親近感を覚えたようで、昨日会ったばかりの北忠に、やけに心を許しているのだ。
松次はそんな二人を昨日から見ていると、どうもこの二人は、悪事を働いているとは考えられず、本人達は何も知らされず、悪事に加担してしまっているのだと感じていた。
「ところで二人は昨日、月に一度の里帰りって言っていたけれども、江戸まで出稼ぎに来て、月一で尾州まで帰るのは、それこそ大変だろぅ?」
北忠は猪吉が旅を話題にしたので、これ幸いと思ったか、何をしているのか聞けるのではないかと話しを振った。
「へ、へぇ。ほんだけんども今年ぁオラ達の村さぁ不作だっただでなぁ。お役人さんにええ仕事さもらえて助かっただで、ほんだらごと言ってられんでよぉ」
猪吉が訥々と話すと、横で長助が余り余計な事は言うなといった感じに、猪吉を肘で突く。
「大丈夫だで、長助ゃ。畠山の旦那は村のもんとは話さねぇだで、問題ねぇだぎゃよぅ」
北忠は実家の旗本の畠山忠吾として、所用で上方へと急ぎ旅をしている事にしていた。
「なんだか込み入っているのかぃ?」
北忠が二人を訝しむ様に見ながら、何か困っているなら、袖触れ合うも何かの縁との事で、自分の出来る事なら力になると、心配そうに語りかけた。
「へぇ、へぇ。でんもオラ達は逆に恵まれてるだで、旦那のお気持ちだけでありがてぇ。なぁ、長助や」
「んだ、ありがでぇ。ほんだらごと言ってくださる旦那に、さっきは失礼しましただ」
二人は本当に良い男達の様で、涙ぐみながら北忠に感謝した。
「そうなのかぇ。でも何でも言っておくれよ。ねぇ松次」
「へい、二人とも遠慮は要りやせんよ。旦那様はこれでも、千五百石の直参旗本でごぜぇやすからねぇ。困った民は、江戸のもんだろうが無かろうが、放っておけない質でござんすよ」
松次も北忠に乗って二人を慮った。
「お二人さんは江戸で出稼ぎしてなさるんで?」
松次は、ここぞとばかりに探りを入れてみる。
「へぇ。江戸と言うでぇも普段はもっぱら六郷での作業だで、月に一、二度、こんれも江戸の外れの押上村言うどこ行って作業するだで、江戸と言えるかはどうだぎゃなぁ。だけんども、オラ達の村から見りゃあ江戸だでなぁ、ははは」
「んだんだ。はははは」
二人は変に可笑しくなった様で、顔を見合わせて笑っている。
「でも本当に困ったら私の屋敷に来るんだよ。わかったかぃ?」
北忠が念を押す様に声をかけ、実家の屋敷の場所を教えてやった。
「ところでお二人さんは、どんな仕事をなさってるんでやすかぇ?」
二人が和んだところを見計らって、松次が疑問を口にした。
「へぇ。仕事って仕事でもねぇだがにゃ。草やら色んなもんを擂り粉木で引いて、何だか薬みてぇなもん作ってんだでなぁ。へへ、オラ達は自分で何作ってんだが知らねぇだでな。だけんどもお役人さんに言われで作って、過分な手間賃ばいただいてんだで、高価な薬になってんだど思うんだけんどもなぁ。なぁ、長助や」
「んだ。お殿様がぁオラ達領民の為に、何かお考えがあっての事だでよぉ」
二人にとっては、自慢のお殿様らしいのが伺えた。それを聞いた北忠と松次は、目配せすると大きく頷いたのだった。
*
「源次郎か」
徳川幕府の将軍である徳川吉宗が、筆を休めて声をかけた。
「はっ」
吉宗の御庭番である源次郎は、音も無く襖を開けて入ると、片膝をついて部屋の隅で控えた。
「ふふ、すまんな。ワシが気づくのが遅かったかのぅ」
吉宗は明らかな人気を感じたので気がついたが、きっとそれは、源次郎が故意に発した気だと思ったのだ。
「それで尾張、いや通春はどうであったな」
吉宗は源次郎に向き直って話しを促した。
「大岡様お疑いの通春様は、上様がお思いの様に、某にも今の所は無関係に感じられまする。確かに通春様は、怪し気な行動をとってはいるのでございますが、それは上様に対する謀反などと、その様な事とは程遠い、通春様の個人的な遊行の為でありまして、そうした中でも、未だ怪し気な接触はございませんでした。ただ天下の事をお考え、色々な書物をお読みになり、ご自分でも何やら書き残されてございますが、それも今回の事とは、やはり関係は無さそうでございます」
源次郎は通春が走り書きした物を、巻紙に書き写していた様で、それを吉宗に差し出した。
「ほぅ、通春め、こんな事を考えておるか。ふふ、あやつらしいのぅ」
吉宗は源次郎の写しを一読すると、逆に嬉し気に笑った。
「まぁ、忠相の方でも探っているであろうから、その報告を聞いてから、源次郎にはまた働いてもらおうかのぅ」
吉宗は、自分が可愛がっている通春が、事件に絡んでいない事にほっとすると、また源次郎の写した通春の走り書きに、目を落とすのだった。
*
永岡は、奉行所でお奉行の大岡に報告を済ませてから、昨日追っていた男の尾張藩の屋敷前で、男が出て来るのを張っていた。
大岡に朝一番での面会を求めていたのだが、多忙な大岡は中々身体が空かず、少々遅くなってしまった為に、永岡は少し不安になりながらの見張りになっている。
「もう出掛けちまってるかも知れねぇなぁ」
この尾張藩江戸屋敷は、控え屋敷の中でも小さめで、場所も幾分辺鄙な所に在った。その為、屋敷の前は斜向かいに武家屋敷が有るだけで、あとは竹藪の先に一面の畑が広がっている。
永岡は先程から、その竹藪の中に身を潜ませていたのだ。
「夜の内に霊岸島の住処にでも行きやがったかぁ」
屋敷に入る姿の、その小慣れた様子と、尾行して違和感を覚えた、武士が町人に変装しているのでは無いかとの思いを踏まえ、永岡は昨日、暗くなっても出て来なかったあの男を、この屋敷の武士だと踏んでいた。その為永岡は、霊岸島の住処は借りの住まいだと切り捨て、この屋敷に絞っていたのだった。
「下手打っちまったかぇ…」
またぼやく様に独り言ちた。
*
「あれ?」
みそのは、今日こそお加奈にお呼ばれしていた約束を果たそうと、両国のお加奈の夫の甚右衛門が営む古着屋、『丸甚』へと向かって歩いていた。そして、お昼をお加奈と一緒に摂ろうとの思いで、些か急いで両国の広小路までやって来た所だったが、そこで前を横切る武士の顔に何かを感じたのだ。
「あぁ、あの昨日の男だわぁ」
みそのは思わず大きな声を出して、周りの人を驚かせてしまうも、首をすくめて謝りながら、遠ざかって行く武士の跡を追い始めた。
「昨日の今日だからわかった様なものだけど、あの人は本当はお武家様だったのねぇ」
みそのは興奮気味に独り言ちながら武士の跡を追う。
前を行く男は、昨日、道庵の診療所に現れた偽薬の売人だったのだ。
みそのが跡をつけ始めてから然程歩く事なく、前を行く男は茶店にすっと入って行った。
それを見たみそのは少し逡巡したが、思い切って自分もその茶店へと入って行く。
「由蔵、本当に後は思うままにあの家を使って良いのだな?」
「飯田様、何度も申し上げておりますが、この様に繋ぎをつけて頂かなくとも、手前から繋ぎは付けさせて頂きますので、この様な事はお止め下さいまし」
由蔵と呼ばれた番頭風の男が、窘める様に言うと、袱紗を飯田と呼んだ武士に差し出した。
「そ、そうなんだが、某も主有る身なんでなぁ。そうそう出て来られぬで、心配になってのぅ」
飯田と呼ばれた男は、にんまりしながら袱紗を懐にしまって言い訳する。
「何食わぬ顔で普段通りにして頂かないと、この話しも無かった事になり兼ねません。お願い致しますよ飯田様。事が成った暁には、改めて相応のお礼はさせて頂きます。ですからそれまでは、お家の為に励んでくださらないと、お英も引かせる事が叶いませんので、お気をつけくださいませ」
飯田は内藤新宿にある女郎屋の、『お英』と言う女郎に執心し、多額のつけを貯めて揉めていたところに、この由蔵が助け船を出した事が始まりで、今の仕事を請け負っているのだ。
飯田は由蔵からの仕事の金で、女郎屋からお英を引かせ、自分は脱藩して、そのお英と一緒に、こじんまりとした仕舞屋で暮らす心算らしく、先日、先ずはその仕舞屋を由蔵が用意し、権利書をもらっていたのだが、半信半疑な上に欲が出てきたのか、由蔵が嫌う繋ぎを敢えてする事で、金の無心に来た様だ。
「そ、それは困るぞ。ま、まぁ、もうこんな真似はせんので、頼む、この通りだ」
飯田は座りながら頭を下げて態度を改めた。
「わ、わかりましたから飯田様、こんな所でお止め下さい。後はこちらからまた繋ぎは付けますので、あの仕舞屋でお楽しみになりながら、その時をお待ちくださいまし」
由蔵は諭す様に言うと辺りを見回した。武士が町の者に頭を下げるなど、目立ってしょうがないのだ。
「そ、そうか、分かってくれたか。ではワシも存分に働くでな。頼んだぞ由蔵」
飯田は用は済んだと言わんばかりに立ち上がると、いそいそと茶店を後にする。それを苦い顔をしながら見届けた由蔵も、店の者に声をかけ、床几にお代を置いて出て行くのだった。
その様子をお茶を飲みながら見ていたみそのは、勘定を済ませると、飯田の跡を追う様に茶店を後にした。
「ほぅ、あれは確か、清吉がヘマをした時の娘だったか」
由蔵の不気味な眼差しが、飯田を追うみそのの背中に、ねっとりと注がれている。
みそのは由蔵のそんな視線にも全く気付かずに、前を行く飯田を見失わんと、必死で跡を追うのであった。




