第四十一話 もう一つの居酒屋
「おぅ、邪魔するぜぇ。ーーん? 弘次の奴ぁ、未だ来てねぇのかぇ?」
永岡が慌ただし気に入って来ると、拍子が抜けた様にみそのに聞いて来た。
「ええ。旦那ぁ、本当に約束したんですかぁ? お連れさんがお腹空かせて来るって、旦那が言うから、辰二郎さん所で粕漬けを購って待っていたんですよう?」
永岡にみそのが口を尖らせて応えた時、
「ごめんくだせぇ」
と、弘次が何食わぬ顔で入って来た。
「お前、オイラが着く前でも、中へ入って待ってろって言ったじゃねぇかぇ。ったくよぉ」
文句を言う永岡に、弘次は声無く笑って応えると、
「遅くにすいやせん」
と、みそのに遅い訪いを謝った。
すると永岡は、弘次の腹の具合を慮って、
「腹減ってんだろう?」
と言って、自分も腹ぺこだと笑い、みそのに辰二郎自慢の粕漬けと酒を願った。
「はいはい、うちはどうせ居酒屋ですよう」
みそのは口を尖らせて戯けた様に言うと、嬉々として注文に取り掛かった。
「良い娘さんでやすねぇ」
弘次は永岡を見てニヤリとする。
「ったくお前は」
永岡は顎を撫でながら、弘次の勘繰りに苦笑いをする。
「で、どうだったぇ?」
この事から早く離れようとしたのか、永岡は早速今日のその後の様子を話す様に促した。
「へい、そうでやしたね、へへ」
弘次は緩めていた顔を引き締めて座り直した。
「あの後、巳吉って野郎は、旦那のおっしゃる通りに、何処へ寄るでもなく長命堂へと行きやしてね。あっしはちょいと屋根裏に忍び込みやして、梁伝いに巳吉と庄左衛門が話していやす部屋へ行きやして、天井裏に潜んで聞き耳を立てやしたんで」
永岡が呆れ顔をしているのに気がついて、弘次はニヤリとやると、丁度酒を持って部屋に入って来たみそのから、立ち上がって酒を受け取った。
「お魚もすぐ焼けますからね」
みそのが弘次に酒を任せて出て行くと、粕漬けの焼ける良い匂いが、部屋に流れ込んで来ていて、
「良い匂いがしてやすねぇ。先ず」
と、弘次が嬉しそうに言いながら永岡に酌をし、お互い猪口を上げると一息に呷った。
「こいつぁ、美味ぇ酒でやすねぇ?」
弘次が猪口をまじまじと見て言うと、然も有らんと永岡は嬉しそうに頷く。
「で、何の話しをしてたんだっけかぇ?」
永岡は新たな酒を注ぎながら話しの続きを促した。
「すいやせん、そうでやしたね。その部屋へあっしが辿り着いた時にゃ、話しもある程度終えていた様でやして、庄左衛門は、こちらも町方に嗅ぎ回られて、危険を犯してんだから、相応の対価を貰うのは当然で、最初に聞いてた話しと違って来てんのだから、報酬も変わって来るのが道理だと。そんで、金の触れ合う音がしやして、庄左衛門はすっかり今までと口調を変えて、見合った物が貰えるんなりゃ、今まで通り協力すると言ってやした。巳吉はってぇと、あっしも長命堂に、こいつを捌いてもらえなくなるのは、死活問題とか言ってやして、これからも宜しくお願いしやすってな具合で、どうやら薬と金の受け渡しに来たってぇ塩梅でやした。その後は何処の料亭が美味いとか、あの芸妓が中々だとか、次の接待をせがむ様な話しを暫くして、出て行きやしたんでさぁ」
弘次は、薬と金の受け渡しをしていたのがはっきりした位で、黒幕らしい話しは聞けなかったと、残念がりながら話し終えた。
「それだけでも十分だぜ。今までは、あくまで噂を元にした推量で、証拠は無かったんでなぁ。証拠じゃねぇが、確証はとれたぜぇ。ありがとうよ」
弘次の猪口に酒を注ぎながら永岡が労う。
「今、留吉が長命堂と西海屋の繋がりを探ってんだが、今の話しだと余り関係ねぇのかも知れねぇなぁ」
永岡は弘次に智蔵の手下の留吉が探っている事を伝えて、弘次の話しから思った事をこぼした。
「旦那、あっしも話しの全てを聞いた訳じゃねぇんでやすし、そもそも巳吉も庄左衛門もどのくれぇ、事を把握してんのかも解りやせんや。ここは無駄かも知れねぇでやすが、途中で調べを止める事ぁ無ぇと思いやすがねぇ」
弘次は今日聞いた事だけでは未だ何とも言えないので、可能性が有る内は、何も直ぐに調べを打ち切る事は無いと進言した。
「お待たせしました。お魚が焼けましたよう」
みそのが辰二郎の粕漬けが焼き上がったと、嬉々として部屋へ入って来た。
「おぅ、良い匂いさせてるじゃぁねぇかぇ。弘次、折角だから熱い内に頂こうじゃねぇかぇ」
永岡が嬉しそうに言って、弘次に焼き立てを食べようと勧めた。
「へい。じゃぁ遠慮なくいただきやす」
弘次も腹が減っていたと見え、嬉しそうに魚に箸を伸ばした。
「こりゃ美味ぇや。こいつを棒手振りが売ってりゃぁ、その内、蔵が立ちやすぜぇ」
弘次は粕漬けが相当気に入ったのか、美味い美味いとぺろりと食べてしまった。
「ふふ、弘次さんは本当にお腹空いていたんですねぇ? 今また次のを焼いて来ますから、待っててくださいね。あっ、握り飯なら有りますけど一緒に持って来ましょうか?」
みそのは弘次の食欲に嬉しくなって、握り飯がある事を言った。
「へい。それじゃぁお願いしやす」
弘次も照れくさそうに言って、みそのの言葉に甘えた。
「美味いだろぅ、弘次。みそのが作り方教えたらしいが、オイラが最初に食べたみそのの粕漬けは、もっと美味かったぜぇ」
永岡は誇らし気に言ってにんまりと笑った。
「で、明日からの事なんだがな、お前に、ちと難しい事を頼みてぇんだが」
みそのが魚を焼きに部屋を出て直ぐに、弘次の反応を見ながら永岡が話し始めた。
「へい、例の尾張屋敷でやすね」
弘次も察して切り返す。
「おぅ、そうなんでぇ。今日の智蔵達の調べで、尾張様の中屋敷に調べが向いたんだが、どうもそこは、中々調べが難しいらしいんでぇ。正当法で出ても、怪しまれるだけになりそうなんで、ここはお前の身のこなしに頼りてぇと思ってなぁ」
永岡は今日の智蔵と伸哉の探索、自分のあれからの出来事などを話し、弘次に尾張藩中屋敷を探って欲しいと頼んだ。
「その中屋敷に、例の通春様がいらっしゃるのですかぇ?」
「オイラはそう見てるんだが、未だ何も判っちゃいねぇんだ。坂上ってぇ家臣が時折中屋敷に呼ばれてるらしいんで、先ずは誰が何の用で、呼び出しているのかを知りてぇんだがな」
「へい。それが通春様ってぇなら、話しの筋道が見えて来るって、とこでやすがね?」
「まぁ、そう言うこったな。しかし、今回の彼奴らの行動は、どうも解せねぇとこが多いんで、何とも言えねぇんだがなぁ」
永岡は自分が追っていた男や、坂上と言う男の行動の意味合いが、どうもしっくりと理解が出来ないのだと、弘次に愚痴る様に言った。
「とにかくやってみやすよ、旦那。また報告はここで良いんでやすかぇ?」
「おぅ、そうだな。みそのが来たら頼んでみるとするかぃ」
そう言って永岡は猪口の酒を呷り、弘次に酒を注いでやった。
*
「おぅ、遅くに悪かったな。まぁ、悪かったついでに、明日っからも宜しく頼まぁ」
弘次が帰って行き、みそのと二人になった永岡は、明日からの弘次との繋ぎにみそのの家を使わせてもらう事を改めて願った。
「まぁ、旦那も弘次さんも、世の為に働いてくださっているのですから、構わないのですがねぇ。それに旦那は、ここが良いって思ってくださってるんでしょ?」
みそのは揶揄う様に言って永岡を見る。
「ま、まぁな」
永岡は以前、弘次にみそのを警護の為に見張らせていたから、今日のところは、弘次も知ってるみそのの家が手っ取り早くて、つい弘次にここに来る様に言ったのだとは言えず、そう言う事にして曖昧に返事をしたが、みそのに言われてみると、あながちそうなのかとも思えた。
「で、今日は帰るんですか?」
みそのは、また揶揄う様に永岡を覗き込んだ。
「ま、まぁな。そのつもりだったが、泊まってっても良いのかぇ?」
「……」
自分で話しを振っておきながら、期待はしていたものの、思ってもいなかった返事に、みそのは言葉が出ずに顔を赤らめてしまう。
「い、いや、明日は早ぇからな。お奉行にも報告しねぇとならねぇんで、とにかく明日の夜も頼…」
永岡が言いかけた時に、みそのが永岡の胸へ、飛び込む様にして抱きついて来た。
「………」
永岡の手がみそのの背中を包み込み、ぎゅっとそれに応える様に力が加わる。
みそのが永岡を見上げ、何か言いかけた唇を黙らせるかの様に、永岡のそれが塞ぐ。
そして二人は、吸い込まれる様にゆっくり畳へ倒れ込み、そのまま夜は更けて行くのだった。




