第三十八話 溜まった疲れ
「運が付いたって事で勘弁してくださいよぉ〜」
北忠が眠った様な顔で、情け無い声を上げている。
『豆藤』の料理が食べられるとホクホク顔で現れた北忠こと北山忠吾を、永岡は顔を見るなり開口一番どやしつけていたのだ。
あのまま巳吉を追って行った永岡は、巳吉が飯屋に寄り、そのまま住処へと帰って行くのを見届けると、智蔵がお上の御用を務める傍、糊口を凌ぐ為に女房にやらせている居酒屋、『豆藤』に一人先乗りして、皆が集まるのを待っていての事だった。
「お前は未だそんな事ぁ言いやがるのかぇ。まったく同心の務めを何だと思ってやがるんでぇ!」
「ま、まぁまぁまぁまぁ、今のは言葉の綾でして、ひ、平にお許しを、ね? 永岡さん」
「何が言葉の綾でぇ、お前はもっと状況を考ぇろいっ!」
中々永岡の剣幕が収まらないのだが、北忠は何処となくニヤついている。
「て、手前っ。ったくよぉ」
北忠がニヤついている原因に気がついた永岡は、怒るのも馬鹿らしくなって、詰まらなそうに酒を呷った。
永岡は店に入るなり、眉をひそめたお藤に呼び止められると、着物に付いた汚物の匂いを指摘され、お藤に洗ってあげるからとその場で着物を脱がされ、着替えさせられたのだった。
今は智蔵の着物を借りて着ている。
永岡は六尺(180cmくらい)に近い大男なだけに、智蔵の五尺(150cmくらい)にも満たない短躯の着物では、どうにも収まりがつかない。なので今の永岡はツンツルテンの着物で、北忠を怒鳴りつけている形になっていたのだ。
「ふぅ〜っ。じゃぁ松次、明日の活力の為に、お藤さんの美味しい料理をいただくとしようかねぇ?」
永岡の怒りが収まったと勘違いした北忠が、後ろで小さくなっていた松次に声をかけた。
「へ?」
未だ永岡の怒りが収まったとは思ってもいない松次は、拍子抜けする声で返事をすると、永岡の顔色を伺い、永岡の殺気に満ちた気に、「ひゃっ」と怯えた様な声をあげる。
永岡はかなりの剣の遣い手なだけに、殺気が松次を縮こませた様だ。
そんな松次の様子を見て、自分が気を膨らませていた事に気がついた永岡は、努めて頬を緩めながら、松次に優しく座る様に促した。
「ほら松次、永岡さんも、ああ言ってるんだから早く座りなさいよ。腹ぺこなんだろぅ?」
「い、いやあっしは…」
「ほらほら、永岡さんの機嫌が悪くなっちゃうじゃないかぇ。ほらここへ座りなさいってぇ」
「へ、へい」
松次は、また肌がピリピリと焼ける様な不思議な物が、永岡の身体から発せられているのを感じ、北忠を恨む様に見て、
「き、北山の旦那は感じないんでやすかぃ?」
と、小声で北忠に耳打ちすると、
「感じるにきまってるじゃないかぇ」
と、北忠はニンマリ訳知り顔で言うと、腰を上げながら、
「お藤さ〜ん。松次も私もお腹が空いて、目が回りそうなんですよぅ。早いところお願いしますよぉ?!」
と、お藤を呼び、嬉々として現れたお藤に、早速料理の催促をするのだった。
「智蔵と伸哉や留吉が、未だ来てねぇじゃねぇかぇ。ちったぁお前も辛抱しろぃ」
黙って酒を飲んでいた永岡は、放っておこうとも思ったが、北忠の図々しさに釘を刺すと、二人には酒と簡単な肴だけ出してやる様に、お藤に言いつけた。
「智蔵達も追っ付け来らぁな。それでちっとばかり繋いで我慢しろぃ」
お藤が運んで来た酒と簡単な肴を目の前に、しょんぼりとしている北忠を見て、永岡は少しばかり可哀相になり声をかけた。
「親分さん達が未だ駆けずり回ってるのを、つい忘れてしまって、私とした事が…」
「もういいさなぁ。解りゃいいんだ。ほら、やりねぇ」
北忠の珍しく落ち込んだ様子に、永岡は少し大人気無かったかと思い、猪口に酒を注いでやりながら酒と肴を勧めてやった。
「松次ぃ、このイカの塩辛は中々いけますよぅ。ほら、松次も早く食べてみなさいなぁ」
北忠の神妙な物腰も食べ物を口にするまでで、イカの塩辛のおかげで、もうすっかりいつもの北忠に戻されていた。
「まぁ、お前はそんくれぇでいいのかもなぁ」
永岡は、二人には聞こえない様な小さな声で独り言ち、笑う様に舌打ちをした。
*
「すっかり遅くなってしやいやして、すいやせん」
智蔵と伸哉が疲れた顔をして現れた。
この二人の少し前に留吉も到着していて、永岡から一杯注がれて、留吉も人心地付いたところだった。
「おぅ、ご苦労だったなぁ。まぁ喉も渇ぇたろうから一杯やりねぇ」
永岡は二人にも労いの言葉をかけると、猪口に酒を注いでやる。
「へい、ありがてぇ。ほら、伸哉もいただこうじゃねぇかぇ」
そう言って一気に猪口を呷って、二人はやっと一息ついた。
「おぅ、忠吾、気が効くなぁ。そっちのがいいやなぁ。ふふ」
北忠が喉が渇いた二人に大ぶりの湯のみと、新たな酒を取りに行っていた様だ。
「へい、ありがとうごぜぇやす、北山の旦那。こいつじゃぁ、ちっとばかり物足りねぇとこでやしたよ」
智蔵と伸哉は嬉しそうに笑って、湯のみの酒をこれまた一気に飲み干した。
「それじゃぁ、明日の朝は忠吾と松次は早立ちになりそうなんで、食いながら話しをしちまおうかぇ?」
永岡は例の百姓が、押上村の一軒家に現れた事を話し、北忠と松次が早朝から後をつける事になっているので、今日は食べ終わってからゆっくり話すのでは無く、早速食べながらでも話そうと、お藤が料理を運んで来るのを見ながら皆に促した。
「へい、だったらあっしの方は、大ぇした調べがついて無ぇんで、先に話しちめえやす」
留吉が珍しく最初に口を開く。
「あっしと伸哉が探っていやす長命堂でやすが、変わった事と言ったら、伸哉がつけて行った武家の男が、店の裏口から出て行ったくれぇなもんで、その男の事は、後で親分と伸哉が話してくれると思いやすんで、それを省きやすと、特に今日の所は何も起きていやせんでぇ。ただあっしはその前に、西海屋を調べていたんで気になったんでやすが、長命堂が店を始めたのと、あの西海屋が江戸へ出店した時期とが、ぴったり重なるのが一つ気にかかりやした。未だその辺りの関わりは、調べてやせんので何とも言えやせんが、明日っからはその辺りの所を、探ってみようと思ってるんでやすが、如何しやしょうかぃ?」
留吉は永岡と智蔵を裁可を仰ぐ様に見た。
「そいつぁ確かに、偶然にしちゃぁ出来過ぎてんなぁ。良く気がついたな留吉。まぁお前が気にかかったんでぇ、何かあんだろうから、明日っからはお前の思う様に、そいつを探ってくんなぁ」
永岡の言葉に智蔵も大きく頷いた。
そして今度は、智蔵が出番とばかりに話し出した。
「あっしは、旦那と別れて伸哉と合流しやしたんでやすが、伸哉が見たところ、あの武家は茶店で巳吉に金らしき物を渡したそうで」
智蔵はそう言って伸哉を見て目顔で促した。
「へい、あっしが茶店に入って直ぐに、巳吉の野郎が出て行きやがったんでやすが、そん時にあの武家の横に置いてあった袱紗を、巳吉の野郎が何気無く持ってったんでさぁ。あっしが見たところ、小判でやしたら二十両ばかりは、入ってそうな袱紗の大きさでやした」
伸哉が智蔵に促されて、自分が目にして来た事を話した。
「ほぅ、やはり金の受け渡しってところかぇ。で、あの武家は何処のもんだったんでぇ?」
永岡は続きを促すように智蔵に目配せをする。
「へい、あの後が中々に大変でやしてね。そんで、こんな時間までかかっちまったんでやす」
智蔵はそう言って伸哉と見合って頷き、少し上気して話しを続けた。
「あの武家の男を追って暫く歩きやして、市ヶ谷の先まで行ったんでやすが、入った屋敷ってぇのが、なんと尾張様のお屋敷だったんでごぜぇやす」
「な、何ぃ! お、尾張様だってぇ」
永岡は智蔵が言った名前に驚いて、思わず大きな声を上げてしまった。
「へい。あっし達も最初は驚きやして、何度も聞き回ったんでごぜぇやす。最後に丁度、お屋敷の裏から下女が出て来やして、そいつからも聞きやしたんで、確かに尾張様のお屋敷で、間違ぇありやせんぜ。と言いやしても、尾張様の控え屋敷でごぜぇやしたがねぇ」
「尾張様か…」
智蔵の報告を聞いて、永岡は暫く黙ってしまった。
そんな永岡の様子を見ながら、智蔵が補足する様に、その屋敷には下女が知る限り、病人は出ていないとの事と、つけて行った侍はこの控え屋敷を取り仕切る、坂上と言う名前の藩士と知れた事を話した。
智蔵は、かなりその下女に袖の下をはずんだと見える。
「ちっとばかり、厄介な話しになって来やがったなぁ。とにかく大岡様にもご相談しねぇとなぁ」
永岡はぼそりと言って、智蔵と伸哉の働きを改めて労った。
*
「おぅ、邪魔するぜぇ」
永岡は遅い時間に何食わぬ顔で、みそのの家に入って来た。
「ちょ、ちょっと旦那、邪魔するぜぇ、じゃないですよう。一体今、何時だと思ってるんですかぁ?」
みそのは永岡がいつ来る事かと、首を長くして待っていたのだが、開口一番文句を言った。
「悪りぃ、悪りぃ。でも何時かって言いやがるんなら、閂くれぇ掛けとけってぇの」
確かに戸の閂も掛けずに、永岡を待っていたのだから、みそのもそれ以上は言い返せない。
「良いんですけどっ。もう…。それにしても旦那ぁ、飲んで来たみたいですけど、お酒にします? それともお茶を淹れましょうか?」
みそのは、ほのかに酒の香りをさせている永岡に伺いを立てる。
「そうさなぁ。酒は豆藤で飲んで来たから茶をもらおうかぇ。こんな時間にすまねぇなぁ」
「はい、はい」
みそのは、いそいそと永岡を部屋に追いやって、お茶の用意を始めた。
「旦那ぁ、お茶入りま…」
みそのがお茶を淹れて部屋へ入ると、永岡は畳の上で眠ってしまっていた。
「疲れているのねぇ、永岡の旦那は。ふふ」
みそのは永岡を無理に起こすよりも、このまま寝かせてあげようと、お茶を乗せたお盆を置いて布団を取りに引き返した。
*
「ん? 寝ちまったのか…」
永岡は自分に掛けられた布団を見て、あのまま寝てしまった事に気づいた。そして、この布団をみそのが掛けてくれたのだと思い、みそのをはどうしているかと身体を起こすと、永岡のすぐ横で永岡を覗き込む様に、頬杖をついたまま眠っているのに気がついた。
「ふふ、こんな格好で寝ちまいやがって」
永岡は独り言ちて、自分に掛けられた布団をみそのに掛けてやると、みそのの隣に座りなおし、未だ夜明け前の外の様子に安堵した。
永岡は暫くみそのを眺めていたが、すっくと立ち上がると、みそのを起こさない様に、そっとみそのの家を後にするのであった。




