第三十六話 待つ
「ほんだけんども、オラ達ぁなぬこさえてんだぎゃなぁ」
男はふと疑問に思ったことを口にした。
「おぃ猪吉、オンメェはいらん事ぁ、口走るでねぇだよぉ。オラ達ゃぁ何も考えんでええし、他にこの事ぁ言っちゃいかんつう約束事だで、お役人様にゃ特別選んばれてぇ、過分な手間賃いただいてるんだでなぁ。その辺のとこりゃぁオラ達ゃ知らんでええ。そんたら事ぁ、お殿様がうっつくしょうお考えあっての事だでぇ。オメェのせいで、こん仕事ぁ取り上げられるのだきぁ、勘弁してけろよぉ」
「あぁ、そんだったそんだったぁ。悪がった悪がった、長助の言う通りだでなぁ。辞めさせられんよぅ、すっがりやんだがねぇ」
長閑に語り合う二人は、小屋の中で先ほどから、乾燥した藁やら草やら、色々な物を石臼で細かく挽きながら、手を止めずに話していた。
二人共かなり手慣れた感じで、もうかなり前からこの作業に従事していそうだ。
「まぁ、こんでオラ達の家族親類らは、餓えんでええだでなぁ。ありがてぇありがてぇ」
「んだきゃぁ、ありがてぇわなぁ」
*
「由蔵、どうやら嗅ぎつけられた様ですねぇ。中々どうして、早いのやら遅いのやら。ほほほほ」
西海屋の主人、西海屋宗右衛門は、笑いながら煙草盆から煙管に火を移した。その笑い顔は、能面の様な顔をしているせいか、怒った様にも見える。
宗右衛門は、美味そうに煙管から煙を吸い込むと、吐いた紫煙の行方を楽しむかの様に、暫く煙草を堪能する。
「コン」と、宗右衛門が煙管を煙草盆に打ち付けると、それを合図の様に由蔵が話し出した。
「旦那様、手配りは終わらせておりますが、本当によろしいのでございましょうか?」
「ほぅ、由蔵はそんなに心配かね?」
宗右衛門は、愉快げに由蔵を見て言っているのだが、能面の様な顔の上に三白眼でもある為か、由蔵は背筋に冷たい物が走る思いになる。
「いえ。旦那様のお考えになった事でありますから、先ず間違いは無いと思っております。ただ、相手あっての事でございますから、時折少々手を加えたくなるのが、手前の堪え性の無さなのでございましょう」
由蔵は平伏して宗右衛門の言葉を待った。
「ほほ、私も昔は堪え性が無くて、痛い目に遭いましたよ。まぁ、じっくり待つとしましょうかねぇ。誰かさんみたいに。ほほ」
今日は余程機嫌が良いのか、宗右衛門はまた嬉しそうに由蔵を見て言ったが、由蔵は益々背中に冷たい物を感じるのであった。
*
「なんだよ永岡ぁ…」
希美は仕事の休憩時間に、紅茶を飲みながら独り言ちている。
昨日の夜、待てども待てども現れぬ永岡を、夜更け過ぎまで酒の用意をして待っていたのだ。
「まぁ、微妙だったんだけどねぇ…」
実際に夫への後ろめたさと、永岡が泊まりに来るのでは無いかとの期待とで、内心複雑な思いが、ひしめき合っていたのは確かだったのだ。
「あら店長、やけに浮かない顔してますねぇ?」
永岡の事を考え、ぼぅっとしていた所へ、スタッフの雅美が現れた。
「あれ、雅美ちゃん今日は休みだったでしょう? あぁ、またあれなのねぇ」
今日は休みのはずの雅美に驚いたのだが、すぐに合点が行くと、思わず希美は笑いがこみ上げてしまう。
「でも雅美ちゃん、職場でもあるんだから、余り頻繁に塗り逃げしない方が良いわよ? あはははは」
雅美は休みの日には良く、丸越1階の化粧品売り場で、化粧品を試供しに来たりするのだ。
「店長、リサーチって言ってくださいよねぇ。しかも頻繁って言いますけど、シーズンに一回くらいですよぉ」
雅美はプリプリしながら口を尖らせる。
「でも緑ちゃんが、紀勢丹で塗りまくってる雅美ちゃんを見たって言ってたわよぅ? うちじゃなくても、休みの度に行ってるんじゃないのぉ? ふふふふふふ」
希美は悪戯っぽく笑って、雅美を揶揄った。
「もぅ〜、緑ちゃんったらベラベラとぉ。あの娘も直ぐに、笑ってなんかいられなくなるんだからっ。ねぇ〜?」
雅美は笑っている希美の顔の近くまで、まじまじと自分の顔を寄せ、やり返してくる。
「はいはい。私も笑ってなんかいらないのでした」
希美は反省する様に首を竦めて舌を出す。
「で、店長は私に抜け駆けして何使ってるんです? そろそろ教えてくださいよぉ〜」
雅美が意外と真剣に言ってそうなので、希美は少し返答に困ってしまう。
「ずるいんですから店長はぁ〜。私は良いのが有ったら、教えてあげてるんですからねぇ?!」
『在り来たりの化粧品の話題しか、した事ないっつーの』と、希美は心の内で思ったが、雅美のパワーに押されて、ただ笑って誤魔化す内に、希美の休憩時間が終わってしまった。
*
「留吉兄ぃ、ありゃ、なんでやしょうかぇ?」
長命堂を探る事になった伸哉と留吉は、長命堂の裏口から武家らしい男が、そそくさと出て行く所を見て訝しんでいる。
武家ならば普通、表から出入りするものなので、裏口から出入りしているのは珍しく、伸哉の目には怪し気に映ったのだ。
「そうだなぁ。ありゃぁ、お家の訳ありなのかも知れねぇが、捨て置くのも勿体無ぇ代物だなぁ。伸哉、無駄足かも知れねぇが、お前が後をつけて、あの侍が何処の家中で、そこでは病人が出てるのかなんかを、探ってみねぇかぇ?」
留吉も身なりの良い武士が、裏口から出入りするのが気にかかる様で、伸哉に探ってみる様に促した。
「へい、ではこっちは兄ぃにお任せしやすんで、ちょっくら行ってきやす」
伸哉は言うや否や、小さくなって行く武士を見失わんと、機敏な動きで追いかけて行った。
*
「おぅ、やっと動き出しやがったぜぇ」
今日の永岡は同心姿では無く、腰には太刀を一本刺しにした、着流しの浪人風を装っている。智蔵とは、やや年のはなれた遊び仲間というところか。
「では行きますかぇ、旦那」
もう昼九つになろうかと思える時刻に、やっと巳吉が動き出した様だ。
「やっこさん、また押上村でやすかねぇ?」
智蔵が言いかけた時、巳吉はふいっと、押上村に向かう道を横道に曲がって行った。
「ちょいと今日は違ぇみてぇだなぁ。こう来なくっちゃな」
永岡は巳吉の新たな動きに、俄然やる気が出て来てニヤリと笑った。
*
「しかし長閑なもんだなぁ。私もこんなのんびりしたところで、余生を送りたいものだねぇ。なぁ松次ぃ?」
「北山の旦那ぁ、あっしら未だ、二十をちょいと越えたばかりでやすぜぇ? 勘弁してくだせぇよぅ」
「おっ、松次は未だ未だ生きる気だねぇ。浅ましいねぇ。お前は本当にわかってないねぇ。そう言うのが若気の至りと言うんだろうねぇ」
北忠はしたり顔で言う。
「ちょ、ちょっと待ってくだせぇよぅ。あっしはもう数えで二十一でやすよ。北山の旦那と、一つしか違わ無ぇんですぜぇ?」
「それが若いというのだよ松次。そんな細かい事で目くじら立てて、お子様だねぇ。その点私は、そう言う細かいところなんかは気にしないねぇ。しかも私は武士だからねぇ。日々いつ死んでも良い様に心掛けているのさぁ」
北忠は見栄を切った様にして松次を見た。
「旦那がねぇ…」
「そりゃぁそうさぁ。今でこそ不肖役人と蔑まれど、元は私も三男坊とは言え、歴とした千五百石の直参旗本ですからねぇ。それくらいの気概は、持ち合わせていて当然って事なんだねぇ。それに松次、本当にいつ私が餅や饂飩を喉に詰まらせて、ぽっくり逝ってしまうかなんて、誰にもわかりはしないだろぅ? 武士と言うのは、夜寝る時に死んで、朝の目覚めと共に生き返る。一日一日をそのつもりで生きているのだよ。大変なもんだろぅ?」
松次は、「旦那の死ぬってのは、食いもん喉に詰まらせて死ぬしか考ぇが無ぇんですかぃ」との言葉を呑み込んで、
「いやぁ、あっしは町の出なもんで、お武家の事ぁ良くわかりやせんでさぁ」
松次は笑って誤魔化したが、太平の世にその位の気概を持っている武士など、数えるほどしかいないのではないかと思うし、まさかその中に、この北山の旦那が入っているとは、露ほど思っちゃいない。
「誤解しないでおくれよ松次ぃ。私が言っているのは、町の者だろうが武家だろうが、肝心なのはここって事なんだよ」
北忠は自分の胸を叩きながら、したり顔を向けて来る。
松次は、「自分は武士だからと、北山の旦那の方から持ち出したんじゃ無ぇですかぃ」との言葉をまたもや呑み込んだが、
「へ、へぇ」
と、流石に返事は気の無いものになってしまった。
「まぁ、気持ちを大きく持って、ほら、今からそんな弱気でどうするんだよぅ。松次は見所があるんだから大丈夫さぁ」
松次の気の無い返事が、弱気になっていると勘違いした様で、今度は松次を元気づけようと、話しの矛先も変わって来そうだ。
「あの猪牙の櫂捌きなんて、本当大したもんだと思うよぅ? 松次は存外こっちの方もやっていたら、凄い剣客になっていたのかも知れないねぇ」
北忠がチャンバラの様な格好で話す。
「そう言えば永岡さんは、相当やるんだろぅ? 松次は、永岡さんが刀抜いたとこ見た事あるのかぇ?」
松次は、『北山の旦那の話し好きにも困ったもんだ』と、内心思いながらも、今日みたいな人気の無い所で、しかも何も相手の動きが無い見張りでは、松次にとっても、丁度良い時間つぶしになっているのは事実で、松次は不思議と、感謝に似た感情さえ湧いて来るのだった。




