第三十五話 甘い吐息と苦い酒
プシュ
「あぁ〜、美味しいねぇ〜。うんうん、これよねぇ〜」
コクコクと喉を鳴らした希美は、感嘆の声を上げている。
希美が江戸から戻ると先ず最初に行う儀式だ。
希美はこの一杯が、何よりの楽しみの一つなのだ。
しかし、ここ最近はビールの味もほろ苦いものでしかなく、本来のビールの味を楽しむ事が出来ずにいた。
しかしながら、希美もここへ来てやっと心の整理も出来たのか、それとも出来ずに諦めて開き直ったのか、何れにしても、やっと至福の時を過ごせる様になっていた。
「それにしても本っ当にお春ちゃん、元気になって来てくれて良かったなぁ〜」
希美は、お春がお礼を言いながら浮かべた、可愛らしい笑顔を思い出して、心底、安堵と喜びが湧いて来る。
「ん〜。美味しいねぇ〜っ」
そんな思いに浸りながら、また一口ビールを口にすると、更に格別な味になった様で、希美はもう一度、琥珀色の奇跡に感嘆した。
「まぁ、辰二郎さんのお仕事も順調みたいだし、これから本当に楽しみよねぇ…」
お春の家族のこれからの幸せを思いながら、希美はまたグラスを傾ける。今日は祝杯をあげる様な心持ちで、いつもよりビールが進みそうな希美である。
プシュ
早速希美は、二本目のビールを持って来ると、嬉しそうにグラスに注ぎ、そのふんわりと泡立ったビールを、愛おしく眺めている。
「でも明日よ。永岡の旦那が本当にお泊りに来たらどうしよぅ…」
希美は複雑な思いが絡み合いながらも、自分が永岡を揶揄う様に言った事を思い出し、身体の中が熱くなって疼いてしまう。そして自然に、手が下へと伸びて行く。
「あら私ったら…どうしよう」
ふと、自分のしようとしている事に気がつき、希美は手を止めて独り言ちた。
「もう、どうしちゃったんだろうなぁ私……」
心を落ち着かせようと、綺麗に泡立ったビールをもう一口飲んでみる。
しかしビールの鼻を抜ける香りに、何故か永岡を感じてしまう。
静かな部屋に希美の切ない息遣いが、小さく聞こえて来る。
希美は独り、甘い吐息を吐くのであった。
*
「あいつだな?」
永岡が囁くように問いかけている。
伸哉と留吉が探っている船問屋の西海屋には、これと言った動きが中々見られないのだが、北忠こと北山忠吾と、松次が最近探りを入れていたヤクザ者の中に、怪しい動きをする男が居るとの報告で、今日は浅草寺、伝法院近くの田原町まで出張り、永岡は智蔵を引き連れ、北忠と一緒にそのヤクザ者の男を見張っていた。
「はい。昨日は松次と一緒に後をつけたのですが、押上村の、元は農家らしい空き家に入って行きましてね。一刻半ほど出て来ませんでしたが、出て来たかと思いましたら、例の薬種問屋へと向かったと言う訳ですよぅ。今日のところは、松次にその空き家を探ってもらっています」
北忠は、最近ヤクザ者らしい輩が出入りしていると噂があった、ある薬種問屋に目を付けていた様で、その男が出入りするのを見張っていたのだ。
そして昨日、漸くその男が店に現れ、つけて行った先が押上村の一軒家と言う事で、その後また店へと戻って行き、店に入って直ぐさま出て来たかと思えば、その後は居酒屋で飯と酒を飲み、この裏長屋の住処へと戻ったとの事だった。
その後の長屋周辺での簡単な聞き込みで、その男は、無職の巳吉と言う名前だと分ったのだと言う。
「そうかぇ。上出来だな忠吾」
永岡は最近、探索に掛けては一目置く様になっていた北忠を、改めて見直す気分で北忠を見た。
「その薬種問屋は、なんてぇ名前だったんでぇ?」
「はい。長命堂と言いまして、余り良い噂を聞かないと言うだけで、調べの方は未だこれからなのですよ」
北忠は申し訳無さそうに言った。
「まぁいいさ。店の方は逃げ無ぇさぁね。その内調べりゃわかんだろうょ。それよか長命堂って名前で、毒みてぇな薬売ってやがんのかぇ? 本当にふざけた店だなぁ。ったくよぉ」
永岡は智蔵へ目配せすると、北忠にはこの男に絞って正解だったのだと、改めて北忠を労った。
「では、あっしらの方で長命堂を調べるとしやすかね。伸哉達も一度引き上げさせて、今はこっちに絞り込みやしょうか旦那」
永岡の目配せに気づいて智蔵が言うと、永岡も意図した通りでニヤリと頷いた。
「行きますよ、永岡さん」
北忠が巳吉に目を向けたまま、永岡に声をかけた。
「おぅ。智蔵、宜しく頼むぜぇ」
永岡は先に打ち合わせていた様に、永岡と北忠は、黒羽織りの八丁堀の格好で目立つので、智蔵に男をつけさせ、その智蔵をつける様な形で、永岡と北忠が遠巻きについて行った。
「今日は直接押上村へ行きそうな雰囲気ですねぇ」
北忠は、永岡と一緒に智蔵の背中を追いながら予想を話した。
「どうやらそうらしいなぁ。松次は大丈夫なのかぇ?」
永岡は、松次の事を気にかけた。
松次は一人、朝から押上村の一軒家を見張っている。
「はい。松次には、巳吉が後から来る事を考えて見張る様に、言い聞かせていますから大丈夫でしょう」
「お前も慣れて来たみてぇだな。そろそろ木戸様に言って、見習ぇを解いてもらわなきゃいけねぇなぁ。ふふ」
「いやいやいや、未だ未だ私は未熟者なのですから、永岡さんに色々教わらないといけませんし、これからも永岡さんについて回りますよっ。お願いしますよ、永岡さーん」
北忠は永岡に慌てて頭を下げる。
「お前は『豆藤』で、美味ぇもん食いてぇだけなんだろうがよぅ。ったく良く言うぜぇ」
永岡は呆れた様に言うと、北忠はニヤニヤと頭を掻いて首を竦めた。
*
「永岡さん、そろそろですよ」
北忠は昨日の一軒家まで、あと少しだと言うと、前を行く智蔵にも知らせて来ると、小走りで追って行った。
巳吉は北忠が思った様に、今日は押上村の一軒家へ直接やって来て、慣れた様子で入って行った。
智蔵は一度、その一軒家をやり過ごすと、何か忘れ物でもしたかの様に、永岡達の元へ引き返して来る。そして智蔵が戻って来ると、それを追う様にして松次も駆け寄って来た。
「おぅ、ご苦労だったなぁ」
永岡は智蔵と松次を労うと、松次にどんな様子だったかと目顔で促した。
「へい。あっしも明け六つにはここへ来てやしたが、未だ変わった様子は何もありやせんでしたんで、今は空き家だってぇ事も、昨日さっと調べただけでやしたんで、もう少し聞き込んでみようと思いやして、周辺を聞き回ってみたんでやす。しっかし、皆、大抵言う事ぁ似た様なもんでやしてね。でも中にゃ、盗賊か何かが住み着いたんじゃねぇのかってぇ、不審に思っていた者もおりやして。そいつが十日に一度か、月に二度か、そん位の割合で、何処かの田舎百姓みてぇな二人連れが、荷を抱えてやって来るのを、見てやしたんでさぁ。そいつぁ、あっしがあの家の事を聞くもんでやすから、逆に、あの荷は何なんだってぇ問い質されやしてね。終ぇにゃ本当はあっしも盗賊の仲間で、口止めに来たんじゃねぇのかと言い出す始末で、えらい目にあったんでさぁ。まぁ、そいつが捨て置けねぇ話しでやすかねぇ」
松次は昨日の聞き込みの裏を取っておこうと、見張りの合間に聞き込みをしていた様で、そこで新たな情報を得た様だ。
「面白ぇじゃねぇかぇ。ただ食料を運ぶにしちゃぁ、二人連れってぇのも気にかかるし、もし何にも出て来ねぇにしても、当たりをつける価値は有りそうだな? 松次、でかしたぜ」
永岡は十分興味が湧いた様子で、松次の機転を褒めてやった。
「旦那ぁ、いよいよこっちの手が足りなくなりそうでやすねぇ。これからでも伸哉と留吉を、こっちへ呼びに行きやしょうかぇ?」
智蔵は先程言った手配りを、直ぐにでもやるのか永岡に伺いを立てた。
「まぁ、早ぇに越した事ぁ無ぇが、もし呼びに行くとしても、オイラ達ぁこんな格好でぇ。そん時ぁオイラか忠吾が行くんで、心配するねぇ」
永岡は智蔵に応えると、松次に目を向け直し、
「それで松次、その不審な百姓を見たってぇ奴は、最近だとどのくれぇ前に見たのか、聞いたのかぇ?」
と、気になった事を問い質した。
「へい。そいつの話しでやすと四、五日 前くれぇだと言ってやしたが、はっきりとは覚えて無ぇそうでやす」
「なら十日に一度か月に二度ってぇのなりゃ、はっきりし無ぇとは言え、今日は現れる事もまず無ぇだろうよ」
松次の話しを聞いて、今日のところは、伸哉と留吉を呼びに行くまでも無いと判断して、永岡は、智蔵と北忠に、巳吉が入って行った一軒家の見張りを託し、自分は不審な百姓を見たと言う男の所へ、松次と一緒に向かう事にした。
*
「で、そいつらは、どのくれぇの大きさの荷を運んでるでぇ?」
「へ、へぇ。どのくれぇって言われっと、わがらねぇがぁな。こんぐれぇだったがな?」
永岡は松次に案内されて、不審な百姓を見たと言う男、佐吉の家にやって来て、佐吉に気になっていた事を聞いていた。
そして今、永岡の問いに、佐吉が側にあった南瓜を指差して答えている。
「ほぅ。案外小せぇんだなぁ。で、二人共同じくれぇの大きさの荷物だったんだな?」
「へ、へぇ。こいつが二個ぐれぇの大きさだったがねぇ。へぇ」
「そうかぇ。ところでなんでお前は、そいつ等ぁ見て田舎の百姓だと思ったんでぇ?」
「そりゃ、見たらわがるさぁ。オラも百姓だで、オラよか、よっぽど田舎臭ぇやつ等だったでなぁ。ありゃぁ田舎百姓に違ぇ無ぇだよ」
その男達は日焼け具合からして、百姓にしか見えず、格好からしても自分より大分見すぼらしかったのが、そう決め付けた決め手だったらしい。
「まぁ、案外当たってるのかもなぁ。あぁ、あと一つ良いかぇ?」
「へぇ?」
「オイラ達ぁ、お上の御用であの家を見張らなきゃなら無ぇんだが、そこんところを伏せて、お前ん家をその拠点にしてぇんだが、協力してくんねぇかぇ?」
永岡はあの一軒家から程近い、この佐吉の家を探索の拠点にする事を願った。そして最初は難色を示していた佐吉も、奉行所から幾ばくかの謝礼金も出ると聞くと、嬉々として受け入れてくれた。
*
「まぁ、そう言う訳だ。早速今日から松次に泊まり込んでもらったが、明日っからみんなにも働ぇてもらうぜぇ」
あの後永岡達は、松次をその場に残し、例の一軒家から出て来た、巳吉をつけて行ったのだが、巳吉は何処に寄るでも無く、家に帰って行ったので、今日の所は西海屋の調べに出ている、伸哉と留吉を『豆藤』に呼び寄せて、今後の手配りをする事になったのだ。
「伸哉と留吉はそのまま組んで、長命堂を探ってくれねぇかぇ。そして忠吾は、松次と一緒ににあの一軒家を張ってもらいてぇ。オイラと智蔵は巳吉を張りながら、それぞれの繋ぎに回るのが良いと思うんだが、どうでぇ?」
永岡は智蔵に意見を求める様に顔を向けた。
「へい。それが良いんじゃねぇでやすかぇ。他に人が必要なりゃぁ集めてみやすが、如何しやすかぇ?」
「そうだなぁ。オイラもいよいよ手が足りねぇ様なら、隠密方の手下を借りようとは思っていたんだが、智蔵もその辺の事ぁ考ぇておいてくれや」
「はい、お待たせ様ぁ〜。熱いの持って来ましたよぅ」
慌ただしく智蔵の女房のお藤が、熱々の鍋を持ってやって来た。
「北山の旦那、今日は良い軍鶏が入ったので、軍鶏鍋にしましたんですよぅ。この七輪でやって下さいねぇ」
真っ赤に炭がたった七輪を置き、その上に熱々に煮立った鉄鍋をかけると、お藤は後を北忠に託す様に具材を置いて、調理場へと戻って行った。
今日は寒いせいか、鍋物の美味いお藤の店は混み合っている様だ。
「松次には悪りぃが、いただくとするかぇ」
永岡が鍋に手を伸ばして皆に声をかけた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ったぁ〜」
北忠の声で、永岡はビクリと伸ばしかけていた手を止めた。
「だ、だめですよ永岡さん。先ずは軍鶏を入れて、軍鶏に火が通るかなって時に、野菜を入れてくださいよねぇ〜。だ、だから根菜は先に入れても良いですけど、葉物は後ですってぇ!」
いちいち北忠から注意を受けた永岡は、舌打ちをすると、
「煩ぇんだよ、お前はぁ。オイラは食いてぇもんから食うんだから、余計なお世話だってぇのさぁ」
「いやいやいやいや、永岡さん。お言葉ですけど、それは違いますよぉう。食べ物をより美味しく食べるのが、食べ物を食べる何よりの美徳。武士とは何事も美徳を持って生きなくては…ちょ、ちょっと、だから今豆腐を入れたばかりじゃないですかぁ〜。あぁもう〜」
永岡は面倒になって、未だ半煮えの豆腐を口に放り込み、なるほど美味く無いなと思いながらも、北忠を無視して酒を飲む。
「ほらそこぉ! 伸哉っ、未だニラは入れないっ!」
今まで居なかったかの様な北忠が、急に存在感を発揮し出した様子を見て、永岡はまた舌打ちを肴に、苦そうに酒を舐めるのであった。




