第三十四話 みそのの蒔いた種
「忠相、お主はどう思っとるのか遠慮のう言ってみろ」
今日は朝から南町奉行の大岡越前守忠相が、将軍である徳川吉宗に呼び出されていた。
「その前に、上様にはお聞き届けいただきたい事がござれば」
大岡が頭を伏せたまま、吉宗に厳しい目で伺いを立てる。
「どうせ忠相はワシに、町場へそう気安く出るなとかの、小言を言いたいのであろぅ。良い良い、わかったから早う答えぃ」
「はは」
大岡は大仰に平伏してから、にっこりと笑って顔を上げた。
将軍に対して、断りも無く顔を上げるなど以ての外なのだが、二人の間にはその様な遠慮も要らない様だ。
それはには理由がある。吉宗が若くして大岡を町奉行に引き立てたのは、その才を見込み、人品にも優れた男であった為ではあるが、それだけでは無い。
吉宗が未だ将軍職に就く前の紀州藩主だった頃、当時山田奉行だった大岡と一悶着有り、その時の大岡の裁きを吉宗は大層気に入り、一目置く様になると、それよりは懇意にする様になり、次第に吉宗は、大岡を友として接っする様になったのだった。
「では申し上げまする」
大岡は吉宗に悪戯っぽく頷くと語り始めた。
「上様も仰られました様に、その様な事が町場で起こっているとの報告は、某の所にも上がって来ており、その裁可を求めんと御老中様方へは某、忠相の口から直接、ご報告をしていまして御座います。しかし、上様のお耳に未だ入らないのは、裁決する事柄の優先順位が、御老中様方の中では、最優先される物では無いと判断されたが為で、それも幕府を取り仕切る大事を任され、多大の議題を詮議する役柄として、致し方無い仕儀かと思われます。それは他にも幕府の為に裁決をし、事を動かして行く事柄が多いと言う事でございますれば…」
「そんな事はワシにも解っておる。そこを忠相が、何とか出来ないのか聞いておるのじゃ」
吉宗は大岡の話しの途中、せっつく様に言い放つ。
「それでは申し述べさせて頂きますると、そのみそのと言う女子の言う様な事を、全て逐一上様のお耳に入れるのは、今の幕府の仕組みでは難しゅうござれば、上様がその仕組みを変えられては如何かと、忠相、愚考致しております」
大岡はにこりと、吉宗を見る。
「ほぅ。で、どの様にワシに仕組みを変えよと言うのじゃ」
吉宗は嬉しそうに大岡に話しの続きを促す。
「今の幕府の仕組みを、大々的に変えるのは難しゅうござれば、上様におかれましては、民の声を聞き届けていると、慈悲と度量の大きさを示せる事もございますし、民の声を聞く為の目安箱なるものを城門へ設置し、多く民からの目安状を募り、それを上様が直接目を通し、急ぎ裁決が必要な物が有りまする場合、上様の方から御老中様方や我等へ、御下知なされば良かろうかと忠相は考えております。そして、貧しい者への病気治療に関しても、上様の薬番、お庭処が仕切っております小石川の薬種園に、養生所と称して薬の効能を確かめ、実践させる為にも、無料で民を医者に診させる場をお作りになるのも、良いかと思いましてござりまする」
うんうんと、満足気に頷きながら聞いていた吉宗は、大岡に大きく頷くと、
「面白い。忠相、早速取り掛かろうぞ!」
吉宗は満足気な顔をして、嬉しそうに笑うのであった。
*
「旦那ぁ、何やら正式にお調べが認められた様で?」
「そうなのさぁ。急にお奉行から下知があってなぁ。本当に勝手なもんだぜぇ」
智蔵と永岡は奉行所を出て歩き出している。
昨日、町廻りから奉行所に帰ると、奉行の大岡から、闇薬に関する調べを進め、取り締まれとの下知が有ったのだ。
「まぁ、これでこそこそと、調べを進め無くて済むってもんだがなぁ。でも慎重にやらねぇといけねぇぜ?」
「へい。探りの方は一昨日打ち合わせた通り、手分けして慎重に進めやす」
智蔵が答えた時、
「な、永岡さん、待ってくださいよぉ〜」
「ちっ」
と、北忠こと北山忠吾が小走りで走り寄って来て、永岡から舌打ちが漏れる。
「お前は松次と一緒に、ヤクザもんらを洗って来いって、言ってあるじゃねぇかぇ。このまま松次と待ち合わして、調べに行って構わねぇんだぜぇ? いちいちついて来るねぇ」
永岡は追いついて来た北忠を、面倒くさそうに言いながら見る。
「そ、それは解っておりますよ永岡さん。で、今日の調べの報告は、豆藤で良かったのですよねぇ?」
北忠は嬉しそうに、永岡に居眠り顔を寄せて来る。
「あ、あぁ。伸哉達にも伝えてらぁ。お前達も調べがついたら、頃合い見計らって適当に集まってくれや」
「承知しました。では永岡さん、行ってまいります!」
永岡がそう言ってやると、北忠は勢い込んで探索へ向かうのだった。
「まぁ、あれでも存外、良い仕事して来やがるからなぁ。悪りぃな、智蔵」
「いやいや、旦那。滅相も無ぇ」
永岡は案外北忠の調べて来る事が的を射ていて、今では何かと重宝している。
それも人参をぶら下げる様に、智蔵が女房にやらせている居酒屋、『豆藤』で、美味い物を食べさせる事が、北忠のやる気に繋がっているので、智蔵には頻繁に豆藤を使う為、商売に障らないかと申し訳無く思っている。
「要らねぇって言ってやすのに、旦那にゃちゃんとお足もいただいてやすんで、何も旦那が気にする事ぁ無ぇでやすよ」
智蔵は、永岡から探索費と称して、少なからぬ金を受け取っているし、女房にやらせている居酒屋も繁盛しているので、店は探索の打ち合わせに使うのだから、金は要らないと言っているのだが、永岡は律儀にも毎度毎度の心付けを置いて行くのだった。
「まぁ、町方が毎日の様に顔を出して、店をうろちょろしてたんじゃぁ、客の入りにも障るじゃねぇかぇ。お藤にも謝っておいてくんねぇ」
「いえいえ、それこそ滅相も無ぇ。あいつと来たら近頃、北山の旦那に食ってもらうのが、楽しみの様でしてね。なんでも、北山の旦那がこうした方が良いとかの助言が、他の客にも好評の様でして、最近じゃぁ新しい料理を作ると、北山の旦那に早く食べて欲しいなんて、抜かす始末なんでさぁ」
智蔵は面目無さそうに苦笑いをした。
「まぁ、北忠も存外いろんな使い道があるって事さぁな。ははははは」
二人は呆れた様に笑い合いながら、今日の探索へと向かうのであった。
*
「みしょのしゃん、ありがとうございまちた」
今日は辰二郎とお秋の娘のお春が、大分元気そうに身体を起こして、みそのに挨拶をしている。
あれからみそのは、粕漬けの材料が揃ったと連絡を受けて、お秋と辰二郎へ、その配分と作り方を教えていた。今日はそれより数日経っていて、お春の様子も気にかかっていたので、お見舞いも兼ねて、粕漬けの売れ行き具合を聞きにやって来たのだ。
「顔色も良くなって来たみたいですし、本当に良かったですねぇ?」
みそのは薬の事は、夫に分析してもらってから、直ぐにお秋に内容を伝えていた。そして、東京から風邪薬を持って来て油紙に包み直し、お春に飲ませる様、お秋にそっと渡していたのだ。
「本当、みそのさんのおかげですよぅ」
お秋は涙ぐみながらみそのに感謝する。
「商売の方も凄く順調なのですよぅ。あの人もこんなに評判が良いとは、思ってもみなかったみたいで、いつも嬉しそうに仕事へ行っているんですよう」
初日こそ、粕漬けの売れ行きも、パラパラとした物だったが、それを食べたおかみさん連中や、噂を聞いた者達がこぞって買う様になり、日々量を増やして仕込んでも、あっと言う間に売れてしまうとの事であった。
「それはそれは良かったですねぇ。お春ちゃんも良くなって来ていますし、これから益々楽しみですねぇ」
みそのは、お秋と一緒にお春が早く全快する事を祈り、その後の忙しくなるであろう、この家族の幸せを願った。
*
「おう、遅くに悪りぃな、邪魔するぜぇ」
最近の永岡は、遅くなってからみそのの家に顔を出す事が多い。
探索終わりに、智蔵が女房にやらせている居酒屋の『豆藤』で、探索の調べ合わせを行っているからだ。
「毎日ご苦労様ですねぇ?」
みそのは、永岡がそろそろ来る頃かと思っていたので、酒の用意をして待っていたところだった。
「お酒、召し上がります?」
「あぁ、悪りぃな。直ぐ帰るからよぅ」
あれから永岡は、みそのの仕舞屋へと、帰りがけに寄ってくれる様になったのだが、酒をちびちびやりながら、みそのと軽く話しをすると、そそくさと帰って行くのが常になっていた。
「あぁ、それとお前が言っていた様に、正式に奉行所でも、薬の取り締まりに乗り出す事が決まったぜぇ。今日はそいつを伝えておきたくてなぁ」
みそのがさっと酒を出してやると、一口舐めた永岡が、そう嬉しそうに話した。
「良かったですねぇ。私も今日、お春ちゃんの様子を見に行って来ましたが、すっかり回復へ向かっていて、ほっとしていたところだったのですよう」
「そうかぇ、そりゃぁ良かったなぁ。早ぇとこお前が、薬飲むのを止めさせたのが良かったんだなぁ」
みそのが嬉しそうに頷く。
「で、商売の方はどうなったんでぇ? お前が、あの粕漬けの作り方教えてやったんだろう?」
「ええ。最初はパラパラとしか、売れなかったみたいですけど、買ったお客さんが次の日も買ってくれたり、それが評判になって、噂を聞いた人達が、こぞって買ってくれるものだから、辰二郎さん達も、日に日に量を増やしているらしいのですが、それも追っつかないみたいで、嬉しい悲鳴をあげていましたよ」
辰二郎は毎日嬉々として仕事に出掛けて行くのだと、お秋が嬉しそうに言っていたと、みそのも嬉しそう永岡に説明した。
「あの粕漬け食ったらそうなるだろうよ。ふふ、でもお前も欲が無ぇなぁ。オイラが売れるって言ったからって、自分で売り出すんでも無ぇで、赤の他人に教えちまうんだからなぁ。何もタダで人に教えてやる事ぁ無ぇのによぉ」
「あら、永岡の旦那にだって、お金もらって無いのですからいいじゃないですか。ふふ、それに旦那みたいに、美味しそうな顔をする人が増えるのは、嬉しい事ですし、辰二郎さん達も、それで滞り無く私に借金を返せるのですから、私も万々歳ですよう」
みそのは可笑しそうに笑って応えた。
「今日は泊まって行きます?」
そしてみそのは笑みを浮かべながら、さり気なく永岡を揶揄ってみる。
「お、おぅ、ま、まぁ、そうしてぇとこだが、明日が早ぇんでな。あ、明日出来たらそ、そうするとしようかぇ」
永岡はしどろもどろになりながら、今日の所は帰ると言って腰を上げたのだった。
そして、通りまで出て永岡を見送ったみそのは、
「永岡の旦那も可愛いところがあるんですねぇ」
と、可笑しくなりながらも独り言ちると、夜の闇に消えて行く永岡の後ろ姿を、いつまでも眺めているのであった。




