第三十三話 みそのの鬱憤
「あれ? 新さん?」
みそのは見知った顔を見つけ、思わず声をかけていた。
みそのは先日の夫に頼んだ分析を、どう上手く伝えたら良いのか、考えあぐねてはいたが、何としてもこの事はどうにか伝えて、今すぐにでも取り締まってもらおうと、居ても立っても居られない気分で、半分出たとこ勝負のつもりで、永岡に会いに奉行所へ行ったのだ。
しかし、永岡はもうすでに町廻りに出掛けた後との事で、諦めきれずに永岡の町廻り先へとやってきて、両国、浅草へと歩き回っていたところ、その途中の安倍川町で、以前破落戸に絡まれた際に助けられた、滅法強い浪人風の男に出逢ったのだ。
「ん? お前さんとは何処かで会ったかねぇ」
みそのに新さんと呼ばれた浪人が、不思議そうに首を傾げてみそのを見遣った。
「つい一月ほど前に、この先で男の人達に絡まれていたところを、助けていただきました。その節はお礼も言えず失礼しました。改めまして、その節は本当にありがとうございました」
一気に今まで言いたかったお礼を言ったみそのは、残された野次馬達が「新さん」と呼んでいたので名前は覚えていたのだと、自分も「みその」と名乗って、また大きく頭を下げた。
「おぉ、そんな事もあったかねぇ。ワシは新之助と言う者じゃ。まぁ礼なんていいさぁ。あの後はもう大事無かったのじゃな?」
新之助と名乗った男も思い出したのか、みそののその後を聞き返して来たので、みそのは頭を上げ、
「はい、おかげさまで…」
と、言いかけて、あの直ぐ後は確かに何も無かったが、つい最近拐かしに遭ったり、他にも絡まれる事が遭ったりと、江戸に来てからと言うもの、色々な危ない目に遭っている事を思い起こして、少し言い淀んでしまった。
「ん? 何かあったのかい?」
そんな機微を感じ取った様に、新之助がみそのに好奇心の目を向けて来た。
「い、いえ。あの後は助けて頂いたおかげで、無事お家へ帰れましたし、本当に何事も無かったのですが、そう言えば最近は、良く危ない目に遭う様な気がするなぁって、ふと思ってしまっただけなんです…」
「何が有ったんだぃ? ワシは暇を持て余してるでな。なんぞ面白い話しが有るなら、ワシに聞かせてくれんかのう」
爽やかに笑いながら、みそのを目に入った茶店に誘った。
「おっ、新さんいらっしゃい。今日はべっぴんさん連れてるじゃないかぇ。憎いよこの色男っ」
「ワシもこのくらいのところを見せとかんとな? お前さんに食われでもしもうたら、敵わんからなぁ」
茶店に入るなり新之助は、店主らしい老婆に声をかけられ、軽口を言い合って笑っている。
みそのはこの新之助と言う浪人は、皆に頼りにされ、愛されているのだなぁと、ほのぼのした気持ちになった。
「新之助様のお住まいは、この辺りなのですか?」
みそのは出されたお茶を一口飲んで、新之助に話しかけた。
「まぁ、そんなとこだな。ふふ、それより新さんで良いぞ、新さんで」
新之助はおかしそうに笑って、最初に声をかけて来た時の様に、気さくに呼んでくれと頼んだ。
「で、お前さんの面白い話しを聞かせてくれんかのぅ?」
人懐っこい笑顔でせがむ様に、新之助は興味深気にみそのを見て来る。
みそのは、『新さんが皆に愛されている、人ったらしたる所以は、この人懐っこい笑顔にあるのだろうなぁ』と思いながら、自分も初対面に近いはずの新之助に、既に親しみを覚えている。
「面白い話しなんかは有りませんよう。ふふふふ」
「どうせワシは暇な浪人なんじゃ。何でも面白く聞くで、安心して何でも話してくれれば良いのさぁ。はははは」
みそのの肩の力を抜く様に、新之助はまた人懐っこく笑う。
「いや、本当に面白い話しなんて無いんですよ。ただ最近は、知らない人が家に逃げ込んで来たり、この間、新さんに助けられた時の様に、余所見してたら、ヤクザ紛いの人にぶつかってしまって絡まれたり、江戸に来てからと言うもの、案外そういった事が多いのかなぁって、思ってしまっただけなんですよう」
新之助は嬉しそうにふんふんと聞きながら、
「そう言うのが聞きたいのじゃよ」
と、みそのに言い、すっかり聞く準備に入ってしまった。
みそのは、そんな新之助にクスリとしながら、
「可笑しな人ですねぇ、新さんも。まぁ、そんなんで良いのでしたら…」
と、観念し、甚平が突然家に逃げ込んで来て、それが縁でお金を貸す様な流れになり、お加奈の才能もあって、お店が繁盛している事や、搗き米屋の善兵衛の話し、ついうっかり人にぶつかってしまっては破落戸風の男で、折良く永岡や新さんに助けられた話しなど、抜け荷に絡んだ事件で拐かしに遭った事なども、新さんの気持ちの良い相槌も手伝って、喋り過ぎかと呆れられてしまうのではと思う程、半刻あまりもぺらぺらと話してしまった。
「あら私ったら、こんなに話しちゃって」
みそのは、『抜け荷の事なんかは、余り話したらいけなかったかしら』と、色々な思いで恥ずかしそうに首を竦めた。
「いやいやいやいや、実に楽しい話しであったぞ。中々その様に流暢に、面白く話せるものではないからなぁ。ほんに大したもんだぁ」
新之助は鷹揚に感心しながら笑っている。
「それに、ろくに利息も取らずに金を貸して、商売繁盛の指南をする女がいるって話しは、ワシも噂では聞いた事があったが、まさかお前さんだったとはなぁ」
そう言って、新之助はカラカラと嬉しそうに笑った。
「本当大したもんだよ、お前さんは」
みそのは自分の事が新之助にまで、噂で届いているなど思ってもみず、恥ずかしくて顔が熱くなって来た。
「でも、なんで木箱に、抜け荷の品が入ってるなんて解ったんだい?」
楽しそうに新之助が聞いてきて、みそのはドキリとした。
「い、いえ。何だか見た事も無い字が木箱に書かれていたもので、抜け荷ならば外国の字なのかと思ったのですよ…」
何とか用意していた言葉で取り繕って、みそのは小さく笑った。
「ほぅ、やはりお前さんは大したもんだぁ。はっははははは」
新之助はまたカラカラと笑うと、
「それに今日は、その偽薬を町方の役人に知らせに、わざわざその役人を探しに来たのだろう? 中々出来る事では無いぞう」
と、続け、悪戯っぽくみそのを見て来る。
「い、いや、このままだとお春ちゃんみたいな小さな子供が、あ、危ない目にあってしまうじゃないですか。そんなやめてくださいよ新さん、別にお役人に逢いたい訳では無いんですよう」
新之助が永岡との関係を疑った様な目で見るので、みそのは、思わず言わなくて良い事まで答えてしまっていた。
「ほぅ、その町方の役人も幸せな男よのぅ。ふふ」
「もう、嫌ですよ。新さんったら勘ぐらないでくださいなぁ」
「悪ぃ悪ぃ。でも本当に、その男が幸せ者だと思ってしまったでなぁ。ふふ、すまんすまん」
新之助は頭を掻きながら人懐っこく笑うと、
「で、その薬は何で偽薬だって解ったんだい?」
と、また鋭い指摘をされて、みそのはドキリとする。
「そ、それはですねぇ、そう。私の知り合いのお医者さんに、薬を作っている人がいまして、その人に何が入ってるのか調べてもらったのですよ」
少し苦しかったが半分本当なので、とりあえず今までどう説明したら良いか、考えあぐねていた事が、ぱっと解決した様で最後は力強く答えていた。
「ほぅ、お前さんは、そんな知り合いも居たのかい。益々大したもんだぁ」
新之助は真顔になって感心している。
「その薬は今持っているのかい?」
自分も浪人ながら、意外と薬には詳しいのだと新之助は言う。
「そうなんですか? では是非見てみてくださいよ。詳しい人に更に見てもらったら、尚更信憑性が上がりますからねぇ」
みそのは夫の分析から戻って来た、一服分に小分けされ油紙で畳まれた袋を、新之助に差し出した。
「ほぅ。これでその知り合いは、稲藁や雑草なんかの中に、阿片とトリカブトが、微量に含まれているって検討をつけたのだなぁ。それは大したもんだぁ。ワシも薬に詳しい方じゃが、ここまで細かくなっていては、そこまで解るのに相当日数が入りそうじゃ。余程その御仁は薬に精通していると見えるなぁ」
余程感心したのか、唸りながら中々薬から目を離さない。
「でもその人も、四、五日はかかりましたし、新さんも道具か何か有れば、その位で解るのでは無いのですか? それとも適当に言われたのかしら」
夫はきっと、仕事の合間にささっと分析してくれたのだろうが、余り詮索されたくなかったので、みそのは適当に誤魔化して言葉を返した。
「四、五日でなぁ〜。ほ〜ぅ。いや、才能は埋もれているのもじゃのぅ。その御仁は大した御仁じゃぞっ」
新之助はやけに真剣な顔をして、みそのをまじまじと見た。
「機会があったら、その御仁と会って教えを請いたいものじゃのう。もしその様な機会を設ける事が出来るのならば、頼みたいのじゃが?」
『薬が好きならやっぱりそうなっちゃうわよねぇ』と思いながら、みそのは、度々長崎へ行ってしまったり、薬草を探しに行ってしまったり、中々捕まらないのだと心苦しい言い訳をして、何となく請け合う様な請け合わない様な、微妙な返答をしてしまった。
「そうか、ならばワシと繋ぎを付けられる様にせねばなぁ…」
新之助は少し思案してから、みそのの住まいを聞いて、そこからほど近い煙草屋の老婆に伝えてくれれば、その日は無理かも知れないが、三日の内には何かしらの繋ぎを立てると説明した。
そんな新之助に、「新さんの住まいに、知らせに行っても良いのですよ」と、みそのが気を回したが、決まった住まいは無いとの事で、良くわからないが、新之助との繋ぎは、とにかくその様に決まったのだった。
とは言っても、みそのはその機会は訪れないと思っているのだが。
「おぅ、こんなとこでどうしたんでぇ?」
そんな時に偶然永岡が、智蔵と北忠を連れて現れ、声をかけて来た。
「あっ、永岡の旦那ぁ」
みそのは、ぱっと顔を明るくさせて声を上げた。
あの夜からこの二人は、未だ顔を合わせていないのだ。
永岡は永岡で忙しいのもあるのだが、どうも気軽に訪れる程、未だ心の整理がついて無いらしい。
「おっ、まさかこの御仁が、例の幸せな御仁かね?」
「し、新さんっ!」
新之助は悪戯っぽくみそのを見て言うと、みそのは顔を真っ赤にして新之助を睨んだ。
「ま、まさかお前さんが、噂の新さんかぇ?」
永岡もみそのが名前を呼んだ事で、会ってみたかった『新さん』だと気がついて、奉行所でも噂になっている、有名人に初めて逢えた事を喜んだ。
「確かに相当遣いそうですなぁ」
永岡は自分と同じかやや大きい、六尺を越えているのではと思われる、新之助の身体をまじまじと見て、自分も剣の遣い手として解る、気を感じとった様だ。
「いやいやワシなど道楽の様な物でなぁ、それよりこの娘さんが、貴殿に大事な話しが有るそうじゃぞ。のう?」
新之助は照れ隠しも有るのだろうが、みそのに話を向けて来た。
「あっ、そうでした!」
やっと会えた喜びと、新之助の要らない一言で、すっかり自分が何しに来ていたのか、失念していたみそのは、その要因を作った新之助によって、元々の用事を思い出させてもらう形になった。
「おぅ、どうしたんでぇ?」
永岡はみそのが自分を探していたと聞いて、俄然興味が湧いた様だ。
みそのは新之助に言い訳をした時の筋書きで、お春に出された薬を、知り合いの医師に調べてもらったら、薬どころか下手をしたら毒になる様な、とんでもない物であった事を伝えて、早く取り締まって止めさせて欲しいと願った。
「お前の知り合いも、被害に遭ってたみてぇだなぁ」
永岡は今奉行所でも、その被害の訴えが上がって来ている所で、今日も怪しい薬を服用しない様に、ふれ回っているのだと説明した。
「どうして薬を売っている所を、止めさせるなり捕まえ無いのですかっ!」
みそのは永岡に食ってかかる様に、薬の出処を取り締まるのでは無く、被害者の方を取り締まる様な、奉行所の対応を非難した。
「そうなんだがなぁ。未だその薬がどんなもんなのかも判ら無ぇし、その薬を飲んで治ったってぇ奴もいるらしいんで、上も中々動け無ぇみてぇなのさぁ」
永岡は苦い顔で申し訳無さそうに、首筋を掻きながら答える。
「でも、辰二郎さんやお秋さんみたいに、自分の子供が苦しんる人は、それに効く薬が有ると聞いたら、無理してでも手に入れて、与えてあげたくなるのが道理じゃないですかぁ? それが親でも一緒ですよ? それに、怪しいか怪しく無いかなんて判らないですし、みんなお金を沢山持っている訳では無いのですから、少しでも安いお薬があるのなら、怪しくてもその安いお薬を買うのが、精一杯だったりするんですよ!」
みそのの憤懣は中々収まらないらしく、永岡に更に言い募った。
「お前の言ってる事ぁ、最もなんだがなぁ。中々難しいのよこれが」
永岡も思っている事だが、上の許しが出ないで取り締まったとしても、正式に処罰する事が出来ないのだと、小さくなりながら説明した。
「上って言うのはお奉行様の事なんですか?」
みそのは未だ納得出来ない様子で憤っている。
「お奉行もそうなんだが、その上もな? まぁ、役所仕事なんでなぁ、色々と手続きがあんのよ。解ってくんねぇかぇ?」
「じゃぁ、将軍様に掛け合えば良いじゃないですかぁ? そしたら誰も文句言わないんでしょ?」
「ば、馬鹿。お前なんて事ぁ言ってんでぇ。オイラがそんな事ぁ、出来る訳ぁ無ぇだろうさぁ」
永岡はみそのの声が大きいので、思わず周りを気にしながら答える。
「じゃぁ、将軍様の耳には、いつまで経っても届かないじゃないですかっ。その間に子供達が死んで行くんですよ? 江戸の町人は、将軍様の子供も同然なんでしょう? その自分の子供が、状況が耳に入らない為に死んで行くんですよ。将軍様もお気の毒って言うか、親として失格じゃないですかっ!」
みそのはお菊達や長屋に暮らす者達が、常に自分は、将軍様のお膝元に暮らす子供なんだと、自負しているのを聞いていたので、尚更熱り立っていた。
「おいおいおいおい、やめねぇかぇ。お前の言ってる事ぁ解るけど、将軍様の事ぁ、そんな風に言うもんじゃ無ぇぜぇ」
永岡は慌てて口に指を立て、みそのを注意した。
「わっはっはっはっはっはっはぁー」
二人のやり取りを聞いていた新之助が、急に笑いだしたので、永岡もみそのも驚いて、笑っている新之助を見た。
「あぁ、悪ぃ悪ぃ。やはりこの娘さんは、面白い事を言うと思ったのでなぁ。すまんすまん。でもワシも同じに思うぞ。はは」
「な、止めてくだせぇよ、新さん。オイラは役人なんですぜ? お前さんまでも、口に出さねぇでおくれよぅ」
永岡は困り顔で新之助を見ると、みそのにも目顔でもう止めてくれと訴えた。
「でも、そもそも貧乏人がちゃんとした所で、病気を診てもらえないのがいけないのよ。怪しい薬を飲むななんてふれ回るより、永岡の旦那が、そういう人達もちゃんと診て貰える様な所を、上と掛け合って作れば良いんですよっ!」
未だみそのは、口を尖らせて永岡を責め立てる。
「おいおいおいおい、無理言うねぇ」
永岡はすっかり今日のみそのの勢いに押されて、弱りきっている。
「まぁまぁまぁまぁ。みそのさんもそこいら辺で、旦那を許してやっておくんなさいやし。旦那も旦那なりに町の皆の事を色々考ぇて、励んでるんでやすから」
智蔵がやっと助け船を出して、話しに蓋をする様に間に入った。
「ま、まぁ、解っているんですけどね、私も。病気で臥せったお春ちゃんを見てるので、つい…」
みそのも智蔵にそう言われて、やっと落ち着いたのか、自分も言い過ぎたのだと反省した様だ。
北忠は、永岡がここまでやり込められているのを見た事が無かったので、そんなやり取りを見ながら、嬉しそうにニヤニヤとしていた。
そして新之助もまた同じ様にニヤニヤしながら、その様子を見ているのであった。
*
「旦那ぁ、どう思いやす?」
あれから北忠にみそのを送らせ、永岡と智蔵は、智蔵が女房にやらせている居酒屋、『豆藤』で、一杯やりながら話しをしている。
北忠は、永岡達が『豆藤』で、今後の打ち合わせをすると聞いていたので、不承不承ながらみそのを送る事を引き受けはしたが、みそのを送り届けたら、必ず引き返して自分も打ち合わせに参加すると、意気込んで別れたので、追って顔を出すはずだ。
とは言っても永岡は、北忠は打ち合わせが目的では無いのが明らかなので、勝手に智蔵と話しを進めていたのだ。
そもそもこの『豆藤』は、智蔵が岡っ引きの親分をやるにのあたり、奉行所からの給金などは当てに出来ない為、糊口を凌ぐ為に女房のお藤にやらせていたのだが、お藤の才が有ってか智蔵の人望も有ってか、この辺りでは知らぬ者がいない程の、繁盛店になっていた。
智蔵はこの店の他に、永岡からも少なからず手当てが出ている事もあり、手下にも十分に手当てを与えられる程なので、智蔵は岡っ引きにありがちな、悪辣な真似で、出入りのお店から金をせしめる事の無い、清廉潔白な岡っ引きの親分として知られている。
「まぁ、お前の言ってる様に、今回の闇薬は、抜け荷が枝葉にわかれて絡んでるってぇのも、解らなくは無ぇなぁ。でも一体なんで、薬なんだろうなぁ。しかも効かねぇ薬なんて、直ぐに足が付きそうじゃねぇかぇ? 金儲けしたけりゃぁ、もっと他にやり様が有る気がしねぇかぇ?」
「へい、そこなんでさぁ。あっしもそこが良くわからねぇんでさぁ」
二人はそれぞれ考え込んでしまう。
と、二人が重たい空気になりつつ、考えにふけっている時、
「はぃ、永岡の旦那。美味しいのが出来ましたよぅ」
と、声をかけながら、お藤が熱々の鍋を持って現れた。
「おいおい、鍋は忠吾が来てからって、言っておいたじゃねぇかぇ。あいつが来たらまた煩ぇぞ」
永岡は先程みそのを送る事を頼んだ際に、北忠がしつこく、「鍋は私が着いてからにして下さいね」と言っていたので、みそのを送らせた手前、お藤にはその様に伝えていた。
「まぁ、北山の旦那が来たら、特別美味しいのを出してあげますから、先にやっててくださいな。ふふ」
お藤は上機嫌で言って、調理場の方へ消えて行った。
永岡は今更下げさせる訳にも行かず、お藤の言葉を受け入れ、
「そうだな。じゃぁ先に始めるとするかぇ。その方が良い案も浮かぶってもんよぅ」
と、智蔵に促して早速鍋に手を伸ばした。
「とにかく、その線で探りはかけてみるとするかぇ?」
永岡はホクホクと豆腐を食べながら、先程の話しに戻って智蔵に問いかける。
「そうでやすねぇ。先ずはその辺のところを探って行くと、色々と見えて来るかも知れやせんしねぇ。へい、そうしやしょう」
智蔵も今あれこれ考えるよりも、色々と情報を仕入れて行く方が得策だと言う。
「西海屋の方から、何か闇薬に繋がる事が無ぇか探るのと、町場の医者やら薬屋、香具師やヤクザもんなんかからも、手繰った方が良さそうだなぁ」
永岡は手分けをして探りを入れようと、智蔵に持ちかけ、
「そうでやすねぇ。あっしもそれが良いかと思いやす。へい、西海屋の方は引き続き伸哉と…」
と、智蔵が言いかけた時、
「あぁぁああ〜」
と、北忠の頓狂な叫び声が響いた。
「な、何始めちゃってるんですかぁ〜。か、考えられないんですど、ど、ど、どぉう言う……」
北忠が珍しく大きく目を見開いて、小走りで駆け寄って来る。
「ちっ」
永岡はお藤が先程言っていた事も、北忠には教える気にもなれずに舌打ちをする。
そして、あれこれ口を尖らせて非難する北忠を、永岡は居ない者の様に、素知らぬ顔で熱々の大根を口に放り込み、美味そうにハフハフさせるのであった。




