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第三十二話 棒手振りにも繁盛指南



「辰二郎さん、居るのかぇ」


 裏長屋の戸を開けてズカズカとお菊は、みそのを連れて入って行く。


 あれから二日後、お菊は本所に住まう夫の寅一郎とらいちろうの弟、辰二郎たつじろうの裏長屋へ、みそのを案内しにやって来たところだ。


「狭い所どうもすいやせん。こちらへどうぞ」


 辰二郎は予め昨日の内に、今日お菊がみそのを連れて来てくれる事は、兄の寅一郎から聞いていたので、棒手振り仕事を早目に片付け、女房のおあきと一緒に長屋で待っていた様だ。


 土間の勝手口の奥に有るのは、四畳半程の一間しかない。土間を含め六畳程しかない狭い長屋だが、小綺麗にして暮らしているのが直ぐにわかり、辰二郎一家の実直な暮らし振りが伺えた。

 そして、辰二郎とお秋の直ぐ横には、三つか四つくらいの女の子が煎餅布団に臥せっていた。


「お具合の方はどうですか?」


 みそのは先ず、直ぐそこで今は眠っている辰二郎の娘を気にかけた。


「へぃ。薬を飲むと一時は楽になった様に、顔色も少しばかり良くなったりするんでやすがねぇ。次第に以前より悪くなるみてぇに、弱っていっちまうんでやすよぅ」


 辰二郎は娘の辛そうな顔を思い出したのか、思わず涙声になりながら答える。


「お薬が効いているのやら、効いていないのやら、おはるを見ていると、だんだん良くわからなくなって来てまうんですけど、お医者さんは暫く続ける様に言うものですしねぇ…」


 お秋も中々快方に向かわない娘が、心配と言った様に目に涙を溜めて、今はぐっすりと眠っている娘を見遣った。


「薬はどんな物を飲んでいるんですか?」


 みそのは生活を窮屈にする様な高価な薬を飲んで、お春の病状が良くならないので有れば、一時飲むのを止めて、様子を見てみるのも良いのではと、気になった事を口に出してみた。


「やはりそう思いますよねぇ。でも一度始めたからには、続けないと効能が無くなると言われると、中々思い切りがつかなくてねぇ」


 お秋も薄々感じていた事をみそのに言われ、


「あんた、これもいい機会だから、少しの間お薬はお休みしてみるかねぇ?」


 と、辰二郎と言いながら薬が入った、小分けされた薬袋を見せてくれた。

 油紙で畳んで小分けされた袋には、『善薬快元』と書かれてあり、如何にも効きそうな感じを受けたが、中身が何なのかはみそのにもわからない。


「もし良かったら、このお薬を一つ私に譲っていただけませんか?」


 思ってもみなかった事をみそのが言い出したので、辰二郎もお秋も目を丸くして、お互いの顔を見合わせたが、とりあえず薬は一旦お休みしようと、今決めたばかりなので、半信半疑ではあるが、薬を一服分みそのに渡す事にした。


「ごめんなさいね、本題から逸れてしまって」


 薬を受け取りながらみそのは、辰二郎に今日来た来意である二両の貸し付金を、懐から袱紗に包んだまま出して、膝の前に滑らせた。


「こちらに二両入っております。お菊さんからあらましをお聞きしていますが、やはりここは、お菊さんのご亭主の寅一郎さんに用立てて頂き、それを薬代に回した方が良いと思うのですが、本当に私から借金する形で宜しいのでしょうか?」


 みそのはやはりこれだけは確認しておこうと、最初に切り出した。


「へぃ。兄弟に用立てて貰えるのは、大変ありがてぇのでやすが、あっしも兄貴に甘えてばかりじゃいけやせんし、自分の方の仕事も今以上に稼げる様に、指南していただけるのでやしたら、借金してでもその方が、ずっと良いと思ったのでごぜぇやすので、どうぞ宜しくおねげえ致しやす」


 辰二郎は意を決して、みそのにも改めて頼み込んだ。


「辰二郎さん、私が指南すると言っても、辰二郎さんのお仕事の事は、余り良く知らない訳ですし、そんなに期待なされる根拠など全くないのですよ?」


 みそのの言葉を聞いた辰二郎は、それでも良いのだという様に、真っ直ぐに大きく頷いた。

 みそのはそんな辰二郎を見て、『しょうがないかぁ』と、心の内で思い、あれから考えていた事を口にした。


「辰二郎さんのお仕事の棒手振りですが、余程大口の料理屋さんや、大店おおだなさん、お武家様の取り引き先が増えない限り、二両の借金の返済をしながら、今以上のお金を稼いで、お春ちゃんのお薬代などを払っていく事は、難しいと思うのです」


 辰二郎もいきなり正論と言うより、正しく現実を言われてしまい、ゴクリと唾を飲み込み、少し青い顔をする。


「だからと言って、大きく仕入れる元手も必要になりますし、そう易々と上手く行くとは思えませんよねぇ?」


 辰二郎は、コクリとうな垂れた様に頷く。


「では、余り元手をかけないで、以前、私が知り合いのお店で取り組んだみたいに、新たに利幅の取れる物を、一緒に売ったらどうかと思ったのですが、辰二郎さんは、他に何か、これは売れそうだ、と言う物は御座いますか?」


 困った様に辰二郎はお秋の顔を見たが、検討もつかない様で、またうな垂れた様に首を振った。


「私は先日、お家にいらしたお客様に、お酒の肴で粕漬けを出して差し上げたのですが、そのお客様に大層気に入って頂きましてね? これは売り出した方が良いなんて言われたのですよう。そんな事も御座いまして、辰二郎さんは、鮮魚の棒手振りをしていらっしゃいますし、仕入れたお魚の中で少し粕漬けにした物を、鮮魚と一緒に売ったらどうかと思ったのです。それに、もしその日に売り切れなかったお魚も、粕漬けにしてしまえば後日売る事も出来ますし、一石二鳥だと思ったのですが、どうですかねぇ?」


 みそのは辰二郎の顔を覗き込んだ。

 当の辰二郎は微妙な顔をしている。


「粕漬けの作り方は私がお教えしますし、お秋さんにも手伝って頂ければ、出来ると思いますよ?」


 辰二郎とお秋は顔を見合わせて、お秋の、やってみましょうよ、との顔に、今度は辰二郎もしっかりと頷いた。


 みそのは永岡に、『佐島屋さじまや』で買った粕漬けを、自分の手作りだと偽った手前、あの後色々と調べて、かなり良い線まで、似た様な味に仕上げるまでに習得していたのだ。


「では辰二郎さん、材料はここに書いておきましたから、用意しておいてくださいね。用意が出来ましたら、また改めてお伺いしてお教えしますので、お声をかけてくださいね?」


 そう言ってみそのは、半紙に書いた粕漬けの材料を辰二郎に渡すと、にっこりとお菊を見て、


「お春ちゃんの事もありますので、そろそろお暇しましょう」


 と、早々に腰を上げるのだった。



 *



「旦那ぁ、やはり西海屋さいかいやの方は余り出て来やせんねぇ?」


 永岡はクツクツと未だ煮立った鍋を前に、智蔵ともぞう北忠きたちゅうこと北山忠吾きたやまちゅうごと三人、顔を突き合わせて話しながら鍋を突いている。


 永岡は、先日奉行所で口を尖らせながら、文句たらたらだった北忠を黙らせようと、昼飯を奢ると言ってしまったのが災いして、北忠に何だかんだと言い立てられ、智蔵が女房のお藤にやらせている居酒屋、『豆藤』で、まんまと鍋を食べさせる羽目になってしまったのだ。


 先程から北忠は、眠った様な細い目を更に細め、お藤の水炊きに舌鼓を打っている。

 今日は先日の北忠の要望通りに、お藤は柚子の皮を薄く削った物を薬味に加え、その残りも小皿に乗せて北忠に出してやっている。

 なので北忠は尚更盛り上がってしまって、「ほぉ〜ら、そうそぅ」やら、「ん〜、流石にお藤さんですなぁ〜」などと、一人唸りながら嬉々として舌鼓を打っている。

 そんな北忠を横目に舌打ちをしながら、永岡は智蔵の報告を聞いていたのだ。


「そうだろうなぁ。彼方あちらさんも、そんなに簡単に出て来る様じゃぁ、あっこまで手ぇめえした甲斐がぇってもんさねぇ。こっちもあの件じゃぁ、調べは打ち切りにされちまってる手前てめえ、大っぴらに探索も出来ねぇし、当たり障りぇところっから、先ずはやって行こうや」


 永岡は、ずばり抜け荷を探るのでは無く、先ずは交友関係や取引き状況など、周りから調べを進めて行く事を口にした。


「でも一つ気になる事が有りやしてね? まぁ、何でもぇって言ゃぁ、それまでの事なんでやすが、あの日のめぇの日に、宗右衛門の右腕ってのが、上方での用を済ませてけぇって来てたってぇ、話しがあるんでやすよ。それがどうしたってぇ訳ではぇんでやすが、その右腕は由蔵よしぞうってぇ言うんでやすがね。その由蔵は、けぇって来たばかりだってぇのに、二日程顔を見せ無くなって、手代らが大層困ってたってぇ、台所向きの下女が話していたんでやす」


 智蔵の目が少し光った様子に、永岡も、


「確かにくせぇなぁ」


 と、ニヤリと智蔵を見た。

 どうやら永岡も、捨て置けない事だと思った様だ。

 永岡は身を乗り出して話し出そうとした時、


「やられたぁ〜。こう来たかぁ〜」


 と、北忠の素っ頓狂な声で、永岡も気を削がれてしまう。

 智蔵もがっくりと目を瞑って下を向き、二人は顔を顰めながら、お互いの猪口に酒を注ぎ合い、この話しは北忠の居ない時にと、お互い目顔で了承すると、二人は勢い良く猪口を傾けるのであった。



 *



「永岡、おめぇのとこはどうでぇ?」


 奉行所の同心詰所で、永岡は久々に先輩同心の新田に声をかけられた。


 最近、江戸の町では俄かに風邪が流行って来ていて、風邪とは言え、それを拗らせて亡くなる者も少なくないのだ。

 そしてここ数日、闇の薬が出回っていて、それが元で病状を悪化させ、特に幼い子供や、老人などが亡くなっているとの事で、その訴えが多くなって来ているのだった。

 新田の町廻りの内でも、昨日二軒の家が訴え出ていて、新田は永岡の担当の地区でも話しは聞かないか、聞いて来たのだった。


「オイラの廻りでも有りましたねぇ。最初の内は効くもんだから、いくら普通よかぁ安いとは言え、それでもたけぇ金払って、無理して続けていたってぇ話しでしたが、段々悪くなって逝っちまったみてぇで。ーーまぁ、その家族は、未だ訴えるとかの余裕はぇみてぇで、こんな理不尽な話しが有るってぇ、噂の段階なんですがねぇ?」


 永岡が苦い顔をして答えると、新田も同じ様に顔を顰めた。


「どうも潜りの薬屋が、通常の半値以下で卸してるってぇ話しでぇ。それを飲んで完治したってぇ奴も、いるにはいるみてぇだが、永岡んとこの奴らにも、そんな薬にゃ手を出さねぇ様に、充分に言い聞かせるんだな」


 新田は今は未然に防ぐ様に、触れ回る事が先決とばかりに言って、町廻りに出掛けて行った。


「永岡さん、私達もそろそろ町廻りに出掛けましょうか?」


「ちっ」


 永岡は、当初新田と半々の持ち回りで、見習い期間中の北忠を同行するはずだったが、いつの頃からか、すっかり新田に押し付けられた形になり、当たり前の様に自分について来る様になった北忠を見て、毎朝の日課の様に、舌打ちをして腰を上げるのであった。



 *



「なんだろう、これ?」


 希美は仕事の休憩時間に、お茶を飲みながら携帯をチェックしていると、夫からのメールに気がついてそれを眺めている。


 先日、お春の薬を辰二郎とお秋から預かっていたのだが、その薬の分析を夫に頼んでいたにも関わらず、その事をすっかり忘れていたのだ。

 夫は忙しい最中、希美の頼みを聞いてくれ、早速分析した結果を、メールで知らせてくれていたのだった。

 希美の夫は医薬品の開発研究をしているので、この手の分析はお手の物かと思ったのだが、頼むに当たってはお客様との世間話から、お客様が薬を飲んでるのだが、一向に良くならないと言う事を聞いて、安請け合いで、本当に効くのか、夫は専門家なので頼んであげる、と言う成り行きの嘘をついていた事もあり、夫には申し訳無い気持ちで頼んでいた為、勝手な物だが希美は、なるべく忘れる様にしていたのだ。

 しかし、夫は研究家なだけあり、妻の良く分からない頼みも、こと分析となるとオタク心をくすぐられるのか、余り詳しい詮索もせずに聞き入れてくれた様だ。


「しっかし、この数列見ても解らないんだけど…」


 専門家ならば一目瞭然なのかも知れないが、希美は学校の勉強でも、理数系にはとんと縁が無く、成績も2を行ったり来たりする程度の物で、長い数列を見た瞬間、直ぐに諦めてしまう。


「あぁ、ちゃんと説明してくれてんじゃないの。ふふ」


 長い数列や、記号と数式らしき物が続いていたが、妻のそんな器量も良く解っているのだと言う様に、最後には、希美にも解る様に文章が添えられていた。

 この薬は、薬としての効能は何れにしても望めず、含まれている内容物は、ケシやドクダミ、トリカブト等が微量に検出されたが、その殆どは稲藁や雑草の類の成分が殆どで、昔はトリカブト等はリュウマチの治療薬として考えられていた事もあるが、今はそんな事は常識的に考えられず、量も極微量なので尚更その線でも理解不能との事で、即刻そのお客様へは服用するのを止めさせ、出所を訴えるか、警察にでも被害届を出した方が良いとの、痛烈な物であった。

 とにかく、毒にはなっても薬にはならない代物との事だった。


「どうしよぅ…」


 希美はこの分析結果を、永岡に見せて止めさせる訳にも行かず、夫には本当の出所の説明をする訳にも行かず、夫からのメールを見て固まってしまった。


「でも何とか伝えないと、大変な事になってしまうわねぇ…」


 思ってはみたが、永岡にも夫にも、一向にどうやって伝えれば良いのか、希美は頭の中が真っ白になるだけで、中々良い案が浮かばないまま、休憩時間が終わってしまったのだった。



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