第三十話 終結
「だ、旦那ぁ」
みそのはほっとした様な声を出して、永岡を縋る様に見つめた。
永岡は表からの日の光を背中に受け、輪郭だけを浮かび上がらせる様にして立っている。
永岡は、松次の漕ぐ猪牙から蔵がはっきり見えた時、ぐったりした伸哉が蔵の中へと担ぎ込まれる所を、丁度目にしていた。そして岸へ上がるなり、そのまま蔵に走り込み、入り口でそれを阻もうとした人足達を、十手で薙ぎ倒しながら駆け込んで来たのだ。
「おぅ、また遅くなっちまったみてぇだなぁ。ギリギリ間に合ったかぇ?」
言いながらみそのに歩み寄って来る。
「何の権限でこちらにいらしたのでしょうか?」
先ほどの残忍な表情が嘘の様に、清吉は永岡に声をかけて、荒々しい真似をした永岡を非難した。
「こんな事をしてただで済むとは、思ってないのでしょうねぇ? この様な乱暴を働いて、うちの蔵に乗り込むとは許せません。この事は然るべき筋を通して、厳重にあなたを処分してもらいますよ!」
「やはりお前かぁ」
十手で首筋をぽんぽんと叩きながら、永岡はニヤリと笑った。
「然るべき筋の処分ってぇのを、受け入れるしか無さそうだなぁ。だがその前に、武士の情けでそこの荷を開けちゃぁくれねぇかぇ?」
永岡は今運び込まれたばかりの荷物を、十手で指して言う。
「だから何の権限があると言うのです。その様な横暴が通ると思っているのですか? ふふ」
清吉は小馬鹿にした様に笑ったが、荷の側にいた人足に顰め面になり顎で示しす。
「開けてあげなさい。このお役人さんは、何を言っても聞いてくれそうにありませんからねぇ。ご自分の目で見てもらって、納得して帰ってもらいましょう」
「まぁ、荷を改めて帰るのもいいが、そこの男はどう言うこってぇ?」
永岡は、地面にぐったりと転がっている伸哉を見て問い質す。
「本当に困ったお役人さんですねぇ。このお方は蔵の前で行き倒れていましたので、中へ運んで差し上げただけでございますよぅ。そうしたらこの騒ぎですよ。人助けしたところに殴り込まれたのですよ? 一体この事を何と説明するのですかねぇ?」
清吉はニヤニヤと笑いながら臆せずに答えた。
「どうぞ」
人足が木箱を開けて永岡を促す。
「おぅ、どれどれ」
中に入っている物は、細かい手彫り細工の工芸品の手鏡で、かなりの高価な物であろう事は分かったが、明らかに日本の物で、抜け荷とは関係の無い物ばかりだった。
目論見の外れた永岡は、他の荷も開けさせるが、同じ様に高価な工芸品であろうが、永岡から見ても、どれも日本の物ばかりしか無い。
「ちっ」
思わず舌打ちをした永岡に、清吉はニヤリと笑い、
「これでご自分がどんな横暴を働いたか、ご納得頂けたようですねぇ。無理に荷まで開けさせ、難癖も良いところでございます。さぁ、もうお引き取りください。丁度良いので、その男がお知り合いでしたら、どうぞ一緒に連れ帰ってくださいまし」
と、益々威丈高に言い放つ。
永岡は完全に騙し討ちに遭った心地になり、歯嚙みしながら何も言い返せず、伸哉が寝かされているところへ歩み寄った。
「でも、先程の事はお忘れなく。きっと厳しい沙汰が下る様に、取り計らせていただきますからねぇ」
清吉は嫌味なまでに念を押した。
「旦那ぁ」
その問答を見ていたみそのは、永岡に声をかけて隅にある木箱を指差した。
永岡はそれに頷くや、みそのが指差した木箱に近づいて行く。すると清吉は声を荒げ、
「な、何をなさるのですか。これ以上の横暴は許されませんよ!」
と、狼狽えながらも永岡を詰る。
「ほぅ、なんか慌ててるみてぇだなぁ。まぁいいじゃねぇかぇ。どうせオイラは、然るべき筋からのお咎めがあるんだろぃ? 下手すりゃ切腹にもなり兼ね無ぇやな? なりゃ最後にこの箱ぁ…」
と、言い終わらない内に、十手で木箱を叩き割っていた。
「はぁ〜、こいつぁ見られたく無ぇ訳さなぁ」
永岡は明らかに南蛮渡来と思しき、ガラス細工の壺の様な物と一緒に収まった、茶褐色の阿片の入った袋を取り出し、清吉を睨みつけた。
それでも清吉は、取り乱す事無く人足達に目配せすると、
「生きてここから出すんじゃぁないよ!」
と、本性を剥き出しにして叫んだ。
「ほぅ、やっと本性が現れたってぇやつかぇ」
永岡もニヤリと笑う。
そして、永岡を取り巻く人足達の輪が、徐々に小さくなって来るのを警戒しながら、十手を腰に戻して太刀を抜き払った。
永岡は十五、六人程の屈強そうな人足に囲まれている。
「だ、旦那っ」
みそのが悲鳴に似た声を上げる。
永岡はそんなみそのをチラリと見て、そこを動くなと目顔で言ったかと思いきや、さっと振り返りざまに、後ろの人足に斬りかかっていた。
未だ攻撃して来るとは思っていなかった人足は、虚を突かれてあっけなく永岡に斬り飛ばされ、同時に永岡は、返す刀で早くも隣の男の脇腹を切り裂いていた。
永岡の一瞬の早技に、他の人足達は間合いを詰める事を辞め、明らかに動揺して動けなくなってしまう。
「ほら、怯むんじゃないよ! 相手は刃引きだ、早いところやっておしまいっ!」
清吉の叱咤を聞いた人足達は、倒された仲間をチラリと見ると、一瞬で殺されたかと思った仲間が、地面で痛みにもがいているのに気がついた。
これでほっとして余裕が出たのか、俄かに湧いた動揺も無かったかの様に、
「おら、やっちまうぞっ! どうせ切れねぇ刀でぇ、一斉にかかっちまえ!」
と、一人が吠えると、
「おお!」
と、皆がそれに呼応した。
将軍のお膝元である江戸の町では、刀を鞘から抜き払う事自体、本来禁じられている為、町奉行所の同心はあらかじめ、刃を刃引きして潰した刀を帯刀し、もしも捕物で刀を抜く事が有っても、建前上これは刀では無いとの事にしている。
「ほぅ、刃引きでも痛ぇし、死ぬ事もあるんだぜぇ」
永岡は勢いを増した人足達に凄むと、次の瞬間には斬りかかっていて、一人二人と転がし、また刀を構え直した。
「そんじゃぁ、遠慮無く行くぜぇ」
永岡は目を細めると、一気に気を発した。
人足達は、永岡の身体が一回り大きくなった様にも見え、ジリジリと後退りしてしまう。が、「野郎っ!」と、意を決した一人が飛びかかるのを合図に、一斉に合口を構えて踊りかかって来た。永岡は人足達の間を踊るようにすり抜けると、通り過ぎた後に次々と人足達が転がって行く。
瞬く間に仲間を倒され、既に四人になっていた人足達は、力の差に完全に慄き、じわりじわりと後退りながら、永岡との距離を開けて行った。
「おぅ、未だオイラは本気が出きって無ぇぜぇ?」
永岡もじわりじわりと、間合いを詰めて行く。
「お、俺は抜けたぞっ」
そう言って一人の人足が、合口を捨てて入り口の方へと走って逃げた。
それが切っ掛けで、他の三人も競う様に合口を放り出して逃げて行く。
永岡はあえて追わず、刀を鞘に収めてみそのに駆け寄った。
「お前どう言うつもりなんでぇ」
永岡は怒鳴りつけながら、みそのを抱き寄せた。
「お前のせいで、下手人を逃しちまったじゃねぇかぇ」
永岡は言葉とは裏腹に優しく言った。
永岡は人足達に囲まれてる間、懐に手を忍ばせた浪人に威嚇されていたのだ。その目は完全にみそのを捉えていて、みそのを殺すと言っていたのだった。
もし追っていたら、懐に忍ばせた小太刀か何かを、みそのへ投げ付けられていたのだろう。
「無理すんじゃねぇよなぁ。んじゃ行くぜぇ」
永岡はみそのをそっと解放してやると、倒れている伸哉に喝を入れて目覚めさせ、伸哉を肩に担ぐ様にして表へと歩き出した。
みそのもその後をちょこちょこと追って行く。
「な、なんだぁ…」
蔵の外に出た永岡は、表の状況を見て愕然とした。
みそのを狙っている事で、永岡を牽制していた浪人に、護られる様に出て行ったはずの清吉だったが、その清吉が首を斬られて死んでいたのだ。
永岡に猪牙で待つ様に言い付けられていた、松次の話しでは、浪人風の男は外に出て直ぐに、清吉へ躊躇う事無く刀を一閃させると、急ぐ風でも無く歩いて行ったとの事だった。
松次も猪牙から降りて、その浪人をつけて行こうとしたのだが、それを浪人に一睨みされ、ガクガクと足が震え、一歩も動けなくなってしまったそうで、松次は何度も謝っていた。
「お前は、それで良かったんでぇ。そのまま下手に跡をつけでもしちゃぁ、お前もこうなっちまってたところだぜぇ」
永岡は地面に転がった清吉の亡骸を顎で示し、松次に言うのだった。
清吉は正に首の皮一枚で繋がった、凄まじい太刀筋で斬られている。
先に表に出た永岡が気づき、みそのを抱きすくめる形で、見せない様に猪牙舟まで連れて行ったので、みそのはその無惨な清吉の亡骸を見ていない。
遠目からでも清吉だと判る亡骸の前で、永岡と松次、伸哉が話しているのを、みそのは身を震わせながら眺めていた。
そうしてみそのが恐々と身を震わせていると、
「永岡さ〜ん」
と、遠くから北忠が声を上げ、智蔵と一緒に駆け寄って来たのだった。
*
「…そんでオイラの蟄居も解けて、一件落着になっちまったってぇ訳よ」
二日後の夜、みそのの家に顔を出した永岡が、みそのの酌で酒を飲みながら、事件のあらましを語っていた。
あれから永岡は、智蔵に人足達の大番屋への連行や、清吉の亡骸などの後始末を任せると、みそのと一緒に松次の漕ぐ猪牙に乗り、永岡は報告の為、証拠の抜け荷の品と共に奉行所へ帰り、松次には、みそのを家まで送らせていたのだ。
奉行所では、蟄居しているはずの永岡が、抜け荷の証拠を持って現れたので、少々問題になったのだったが、奉行の大岡の計らいもあり、特別処罰される事は無く、事件の詮議も、上手く行き過ぎな程とんとん拍子に運び、この一件は、無宿人清吉なる者の企みによる、共犯者不在、主犯死亡の抜け荷の事件として処理されそうとの事で、永岡の蟄居もその日のうちに許され、出仕が叶っていたとの事であった。
永岡としては、断然納得は出来ていない。必ず共犯者がいるはずで、ましてや清吉が主犯者などとは思ってもいない。永岡は黒幕が今もほくそ笑んでいると考えている。
しかし上が決めた事で、蟄居明けの永岡としては、いくら掛け合っても相手にしてもらえなかった。
異様なまでに早い詮議の事を考え、既に筋書きが決まっていたのだと判断して、永岡も余計な事を言うのを諦めた節がある。
「あ〜、やだねぇ、お役所勤めってぇのもよぉ」
そういう訳で、永岡は少しばかりやけになっていて、先ほどから酒の量が増えている。
「旦那ぁ、少し飲み過ぎなんじゃないですか?」
みそのは少し心配になり、永岡に声をかけながらも、今日は飲ませてあげようと心に決めていた。
「いいんでぇ。飲み過ぎってぇ事ぁ無ぇやぃ。オイラにゃそんな言葉ぁ無ぇんでぇ」
「それにしても、この粕漬けは美味ぇなぁ」
永岡は上機嫌で酒を飲む。
かなり気分良く酔って来ている様だ。みそのもそれを見て、癒される様な心持ちになって来る。
「なぁ、みその」
「はい?」
永岡は急に改まった様にみそのを見た。
「………」
みそのはまた悩ましい沈黙に、胸が締め付けられる様な心地で耐えている。
程良く酔った永岡が、みそのを見つめながら近づいて来ると、みそのの肩を抱き寄せた。
みそのもそのまま永岡の胸へ飛び込む様に身を委ねて行く。
みそのは永岡の胸から這い出る様に顔を上げると、永岡の唇へ自然と自分のそれを重ねて行く。
とうとうこの時を迎えてしまったみそのは、今までの想いをぶつける様に、永岡の背中に手を回して必死にしがみつく。
みそのは堪らず甘い吐息を漏らすと、永岡の唇を求め、更にその身を任せて行く。
そしてみそのは、永岡の鼓動を間近で感じながら、自らも呼応する様に、その胸の鼓動を高まらせるのであった。




