第三話 ビール最高!
プシュ
「あ〜、やっぱりルービーだわ〜」
希美が江戸から戻って、最初にするのがこれである。
「江戸にも冷たいビールがあると、完璧なんだけどなぁ〜」
満面に至福の笑みを浮かべつつ、希美はスマホの着信を見ながら独り言ちた。
職場のスタッフからのメッセージと、学生時代の友人からの、グループラインの履歴等がどっさりあるのだが、夫からの連絡はメールが一件。
今日も終わらなそうなので会社に泊まります。との事。
決して夫婦仲が悪い訳ではない。むしろ子供もいないせいか、周りの夫婦に比べて仲が良い方だと自他共に認めるくらいだ。
結婚して暫くは、同棲時代と同じマンションに住んでいたのだが、結婚を期にマイホームをと、色々な物件を見て回った。
そして夫の実家の側に、一軒家が考えられない価格で売りに出ていて、夫や義父母が、どんどん話しを進めてしまった時もあったのだが、どうも希美はその家に入った途端から、なんとも言えず嫌な気を覚え、一生をこの家で暮らす事を考えると、どうにも堪らず、夫に泣きながら違う所にして欲しいと懇願し、実家からは少しばかり離れるが、希美の仕事場からは便利な立地の、新築マンションを購入する流れになったのだ。
マンションを購入すると、すぐに夫の昇進があり、栃木県にある研究室の室長として、夫が栄転する事になったのが、希美夫婦の半同棲ならぬ、半単身赴任の始まりだった。
それでも二人は、合わせられる休みの日には、リゾートホテルや温泉などに行って楽しむ、仲の良い夫婦で通っている。今でもお互いの仕事を認め合う、理想のパートナーと言うところだ。
「でも本当、カッコよかったなぁ〜、甚平っち」
「なんであれでモテないんだろうねぇ。それに私をいい女扱いしちゃうし、一回り以上も若く見ちゃうし、ムフッ」
プシュ
二本目のビールを開けると、希美は今日の出来事を思い出す。
夫の半単身赴任生活が始まってからは、やけに独り言が多くなった希美である。
「でも、あのお菊さん達だって、きっと私よりも一回りは若いんだろうなぁ」
甚平が16歳差なのだから、あのおかみさん連中もきっと甚平の少し年上くらいのはずだ。
希美の事を自分よりも歳下だと思い込んでいる、お菊、お若、お静だが、現代と食事の違いも有るのだろうが、電気やガスが無い頃の家事仕事は、過酷な労働だ。スキンケアすら出来ない彼女達は、現代の女性に比べて、かなり年配に見えるのは頷ける。
「本当江戸って人もいいし、綺麗だし、私にとっても凄く合う所なんだよなぁ〜。まぁ、少し雪隠の臭いが玉に瑕だけどねぇ〜」
希美は、これからの生活が楽しみで仕方ない気持ちになった事は、以前にもあったかもしれないが、ここまでワクワクするのは、生まれて初めてかも知れない。
「でも、それも全部、園さんのおかげなんだよなぁ」
少し酔って来たのか、希美は涙腺を緩ませながら、園さんの事を思い返す。
*
園さんがお店に現れ、家に招待してくれてから四日後、希美は自分の働く日本橋丸越からほど近い、呉服橋を歩いていた。
「多分この辺なんだけどなぁ」
希美はスマホの地図アプリを見ながら、先ほどから同じ所を行ったり来たりしている。
お店で話していた時に、園さんが簡単な絵図を描いてくれるといったのを、「最近は良いのがあるので大丈夫ですよ」と、言ってしまった手前、わからないと連絡し辛い。
『やっぱり、人に聞いた方が早いかな』
希美も不安になって来て、何人かに道を聞くも、やはりぐるぐると同じ所を回ってしまう。
それでもどうにか、一度その家に配達した事があると言う、トヤマ便のドライバーに教えられ、ビルとビルの間に挟まれた、一見見過ごしてしまいそうな、ポストの前まで辿り着いたのだった。
「凄〜い。ここが園さんのお家の入り口なんだ〜」
思わず声に出してしまう程、感心してしまう。
目の前に見えるのは、ビルとビルの間、人が一人通れるかどうかという隙間に、石畳が続いているのだった。
好奇心を唆る超レアな風景に、希美は心を躍らせ入って行く。
石畳の途中で上を見上げると、地割れした谷底に落ちて、もう地上には這い上がれないのでは無いかという様な、異様な心地になって息苦しさも感じてくる。
しかしビルの間の石畳を抜けると、先ほどの異様な心地から解放された分なのか、田舎に来たかの様に、空気が格別に美味しく感じた。いや、本当に空気が美味しいのだ。
「へぇ〜、園さんのお家って素敵〜っ!」
こじんまりとした庭のある、木造の古民家だ。
『ここはいつから建ってるんだろう』
周りを見渡すと、周囲をビルに囲まれている。
しかし不思議な事に日の光は届いていて、閉塞感も全く感じ無いのだ。
まるで園さんのお家を守る為に、ビルが建てられたのでは無いかと思うほど、希美は安心感すら感じる。
以前結婚してから、家を探していた頃に決まりかけた、何とも言えない嫌な感じを覚えた家と真逆の、心地良ささえ感じる第一印象だ。
玄関先に立ち、呼び鈴を探すも見つからないので、希美は大きな声で来意を告げた。
程なく、中から嬉しそうな園さんが出て来ると、希美は家の中へと促され、客間と思われる六畳間へ通された。
「良く迷わずに来れましたねぇ。今お茶を淹れて来ますから待ってて下さいね」
希美はこんなに古い家には入った事が無く、何処を見ても珍しく、綺麗に磨き上げられた黒い柱や梁に魅入っていて、園さんが声をかけて出て行くのにも、全く気がつかないでいた。
「素敵ですねぇ〜」
希美は振り向いて言うと、園さんはお茶を淹れながら嬉しそうな笑みを浮かべ、ゆっくり二度頷いた。随分な時間、希美は家の様子に魅入っていたらしい。
「さぁさぁ、お茶も入りましたし、こちらにお座りなさいな?」
園さんは立ち上がると、庭に面した障子を開けながら希美を促す。二人は向かい合って座り、お茶を喫しながら、開けられた障子の先にある、黒光りした縁側に柱と梁で収められた、一枚の絵の様な庭を眺めた。
「お家もお庭も本当に素敵ですねぇ。物凄く落ち着きますよぅ」
希美は先程から、素敵素敵としか言っていない事に気がついて、園さんを見て首を竦めながら照れ笑いをする。
「お店でも和服の園さんがいらっしゃると、とてもお似合いで、格好いいなぁって思っていましたが、こちらで見ると更に極まって見えて素敵ですねぇ。しかも馴染んでいますよねぇ。まるで江戸時代から来てる人みたいです」
希美は冗談交じりに言うと、更に続ける。
「でも私が、江戸時代にタイムスリップして来たって方が、面白いかしら。あの石畳がタイムトンネルだったりして、ふふ」
希美は途中から笑いながら言ったが、本当にそんな不思議な感覚になって来た。
園さんはまた嬉しそうに笑いながら、今度は大きく一つ頷いた。
「でも希美ちゃん、人間と一緒で古い物は手入れが大変なのよ。私も歳だから最近は疲れてしまってねぇ。時折さぼる物だから、このお家に怒られてしまっているのよぅ」
園さんは周りを見渡しながら、少し戯けて言った。
希美は「お園さん」と「お」を付けて呼んでみたくなって、思わず呼んでみると、「何ですか?」っという顔で園さんは自然に希美を見る。
「お園さんって、ここでは呼びたくなりますね? 私の格好が違和感あるみたいに思えて来るくらい、お園さんとお家がとてもお似合いで、時代劇風に呼びたくなっちゃいました」
希美はクスリとすると、悪戯っぽく、
「お園さんって呼んでもいいですか?」
と、希美は目を輝かせて聞いていた。
「お園さんっていうのはね、良く呼ばれたものなんですよ? 希美ちゃんもこのお家に来た時は、私の和服をお貸ししますから、着替えてみたらどうです?」
お園さんも、何かこれから面白い遊びをしましょうよ、っという顔で希美を見て来た。
「希美ちゃんと私は、背丈もそれ程変わらないので、きっとお似合いよ。うぅぅん、どれが良いかしらねぇ…」
楽しそうに言いながら立ち上がったお園さんは、少し待つ様に希美に言うと、部屋を出て行った。
*
綿物だが仕立ての良さそうな藍色の着物に、お園さんに手伝ってもらいながら着替えた希美は、何か時代劇にでも出演する心地になって、益々楽しくなって来た。
「随分と似合っていますよぅ」
お園さんは和かに頷きながら、希美を惚れ惚れと上から下まで愛でる様に眺める。
「この着物は私には柄が若いから、希美ちゃんに差し上げますねぇ」
お園さんは、孫の晴れ姿を見るかの様に嬉しそうに言った。
「本当ですかぁ。でもこんな良い物をいただいちゃって…」
「気にしなくても良いんですよ。どうせ着ていない物なのだから、希美ちゃんに着てもらった方が、着物も喜びますからねぇ?」
希美は少し考えて、深々と礼をする。
「お園さん、ありがとうございます。そしたら私、お礼も兼ねてお店も近いですし、お家のお掃除とかのお手伝いしがてら、ちょくちょく遊びに来てもいいですか?」
希美はこのお家が気に入ったので、また来る口実でもあるのだと付け加えて、お園さんに願った。
そして希美は、最初はお園さんに、「あまり気を使わなくても良いんですよぅ」と言われながらも、最後には「そういう訳ならば、いつでも来てくださいねぇ」とお園さんに言わしめた。
「そしたら私も、ここではお園さんみたいに呼んでもらおうかしら」
希美はそう言って考えたが、『希美』にそれらしく呼べる様な物が浮かばない。
少しの間、沈黙が流れると、お園さんがポツリと言う。
「ーーーみその…」
「みそのちゃん、はどうかしら?」
考え込む希美に、お園さんが名案を思いついたばかりに、嬉しそうな、照れ臭そうな顔で言った。
「あぁ〜、のぞみを反対にしたんですね!」
「お園さんに、みその。親子みたいだし、みそのって可愛い響きだし、私、みそのがいいです!」
二人共、新しい遊びを見つけた嬉しさなのか、小娘の様に手を取り合って笑った。
*
「みそのちゃん、あまり無理して来ることないんですよ。みそのちゃんの来たい時に来てくれるだけで、私は大助かりなんですからね」
お園さんは、それでも時折来てくれるであろう希美のことを、名残り惜しそうに玄関先で見送った。
「毎日の様に来ちゃうかも知れませんよ。覚悟しといてくださいね?」
希美も半分本気で言うと、また、あの石畳のタイムトンネルを潜るのであった。