第二十八話 後ろめたい肴
「へぇ〜、凄い人気なんですねぇ〜」
みそのが嬉しそうに声を上げている。
みそのはお加奈と一緒に、鳥越にある善兵衛の搗き米屋に来ていた。
あれから五日ほど経っていて、昨日お加奈の使いで、甚平が今日の誘いを伝えに来てくれたのだ。
「そうなのよぅ。私もそれを聞いて、自分の目で見てみたくなってしまってねぇ。ほら、この前の初売りの日はあんな事が有って、みそのちゃんの事が心配で店の様子なんて、全く覚えてないものですからねぇ」
お加奈は、はっとして、
「ごめんなさいねぇ、みそのちゃん。嫌な事を思い出させちゃったわよねぇ。私ったらそんな事にも気が回らないで…」
「いいのよ、お加奈さん。私もずっと気になっていましたし、本当皆さんのおかげで助かって、実際こうして無事だったのですから、気にしないでくださいね?」
お加奈が自分を責める様に謝って来るので、みそのはお加奈に気にしない様にとニコリと笑った。
「私もあの日は、ここへ顔を出した時には、もうすっかり売り切れた後でしたから、ずっと気にもなっていたので、お加奈さんに誘ってもらえて嬉しかったんですよう」
お加奈はやっと気を取り直してくれた様で、みそのの話しに、うんうん頷きながら聞いてくれている。
そんなやり取りをしている間にも、次から次へと人がやって来て、正に飛ぶ様に握り飯は売れて行くのだった。
「それにしても忙しそうですねぇ」
善兵衛があたふたとしながらも、次々と来るお客に握り飯とお金を交換して行く有様に、みそのは呆気に取られながらも、胸が熱くなる様な充実感を覚えていた。
「そうなんですよぅ。うちの人も本気で辻売りの事を考えていたみたいで、毎日ここへ売れ行きを見に来ては、自分の事の様に喜んでいてね。昨日なんて早速大工に、屋台を注文したくらいなんですからねぇ」
呆れ顔で笑いながら、甚右衛門の話しを出した。
「甚右衛門さんは、商才がお有りですから間違いないですって!」
みそのは太鼓判を押す様に言って笑うと、
「でも私に皺寄せが来るのがオチなんですよぅ。本当困った物なのよぅ」
戯けた様な困り顔でお加奈も笑った。
*
「どうしやす、旦那ぁ」
永岡は今、八丁堀にある自分の組屋敷で、智蔵と北忠こと北山忠吾を前に、胡座をかきながら煙管をふかしている。
永岡達は、智蔵が女房にやらせている居酒屋で今後の打ち合わせをすると、翌日から手配り通りに、それぞれが担当の持ち場で調べを進めていたのだが、俄か昨日になって永岡が奉行である大岡越前守忠相に呼び出され、老中筋からの圧力を匂わせながら、蟄居する様に言い渡されていたのだ。
その際に大岡は永岡に「暫し耐えよ」と、短く言って頼もし気に頷いていたのだった。
「どうするもなぁ。大岡様には釘を刺されちまってるからなぁ。ま、あの様子なら大岡様も良きに計らってくれんだろうがよぅ」
永岡は不貞腐れ気味に言って、煙草盆に煙管を叩きつけて火種を落とすと、
「まぁ、これはこれで、私はやってますってぇ言っている様なもんだぜぇ。まぁ気長にやろうさぁね」
と、呑気な口調で言いながら、小春日和の様な陽気の中、庭木に羽を休める雀の群れに目をやった。
「永岡さん、大黒屋の方は、私に何もお咎めがないって事は、白って事で良いのでしょうか?」
北忠も同じ様に探索をしていて、西海屋を探っていた永岡だけが、蟄居と言う謹慎処分を突然言い渡されただけに、自分が探っている大黒屋は、ただ純粋に蔵を借りているだけで、暗に無関係と取れるのでは無いかと考えた様だ。
「今の所ぁ怪しいとこは無ぇって言ってたなぁ?」
永岡は大きく頷いて智蔵を見る。
「へい、今の所はなんつぅ事も無ぇんでやすが、未だ何とも言えねぇ中途半端な調べ具合でやす」
智蔵も、今の所怪しい所は無いとの見立てではあるが、それは未だ言い切れる物では無い様だ。
「そうだな。可能性が薄い調べになるかも知れねぇが、もう少し大黒屋を探ってくれねぇかぇ? 今は西海屋へは近づか無ぇ方がいいや。なんせ対応が早過ぎさぁね。もしかしたら、オイラが最初に見た清吉って野郎が、あの後早速、上の方へ働きかけたのかも知れねぇしなぁ。まぁ、そんなんだから、お前らはもう暫く大黒屋の方を頼まぁ」
永岡は、お奉行の大岡に、直接西海屋を調べるなとは言われていないものの、暗にそれを匂わせる言い回しだったので、特に北忠には西海屋を探らせたく無かったのだ。
「伸哉と留吉はどうでぇ。相変ぇらず手ぇ焼いてるのかぇ?」
「へい、あの日以来、清吉は蔵に顔を見せるどころか、清吉を知る者自体、姿をくらましちまったみてぇに、めっきりと証言が取れなくなっちまった様なんでぇ。あいつらぁ意地んなって調べ回ってやすが、あの蔵も最早お払い箱ってぇ事なんじゃねぇんでやすかねぇ? 一度大名や旗本の筋を当たらせて、気分転換でもさせやしょうかぇ?」
清吉の調べは、初日こそ意外と簡単に名前等を聞き出せたりと、順調と言えば順調だったのだが、次の日からパタリと清吉を知る者自体が居なくなった。
その中には先日聞き込んだ人足まで居て、昨日の話しは、どうも自分の見間違いだった等と、言い出す者まで現れる始末で、どうも金をつかまされているか、他に弱みを握られているのか、清吉を知る者も新たに現れなくなり、その証言を覆した者も今は姿をくらましていまっている。
「そうだなぁ。でも、相手はオイラ達の探索を、他に向けさせるのが狙いかも知れねぇ。まぁ、こっちも暫く今のまま続けてみようじゃねぇかと思うんだが、どう思うねぇ?」
「そうでやすねぇ。そんな狙いも考えられやすねえ…。でも旦那ぁ、もしそうでやしたら、尚更ぁ相手に乗っかっちまうってぇ、手も有りやすぜぇ」
智蔵が応えて永岡を見ると、永岡はニヤリとしていて満足そうに頷いていた。
どうやら永岡も敢えて相手に乗っかり、蔵の探索を一旦諦めて、他に向かわせる様に装うのも良いのではと、思いながらも迷っていた様だ。
「智蔵の言う通りかも知れねぇなぁ。一旦伸哉と留吉は引き上げさせ、噂に出て来た大名等に探索の目を向けて、そっちの筋から清吉を辿って貰うとするかぇ。そうさなぁ、そしたら蔵の方は、時折松次を使って見に行かせてくんな」
「へい」
永岡は松次を猪牙舟で流させ、蔵の監視は続ける様にする手配りで、一旦蔵の探索を引き上げる形にした。
「でも、未だあの浪人は姿を現していねぇ様だし、くれぐれも用心して当たる様に伝えてくんねぇ」
永岡の蟄居中の探索の手配りを終えると、北忠と智蔵は永岡の屋敷を後にして、それぞれの探索へと向かうのであった。
*
「あら旦那ぁ、いいんですかぁ?」
永岡は蟄居を命じられてから三日も経つと、流石に家の中に閉じこもっているのもうんざりとした様で、早速屋敷を抜け出し、みそのの家に何も無かった様にやって来たのだ。
「何がいいんでぇ?」
久々に顔を出した永岡は、みそのの反応が予想していた物とは違っていたので、拍子抜けして聞き返す。
「いえ、旦那が暫く謹慎する事になったので、顔を見せなくても心配する事は無いと、智蔵親分がそれを言いに、昨日寄って下さったんですよう」
みそのは心配そうに応えた。
「おぅ、そうだったかぇ。智蔵も気づかいし過ぎるみてぇだなぁ」
永岡は頬を掻きながら、悪戯がばれた子供の様にはにかんだ。
「まぁ、今のところオイラの屋敷に、誰か詮議しに来る事も無ぇやな。誰にも知られなきゃ、オイラは家に居るのもここに居るのも一緒さぁね。心配する事ぁ無ぇやな」
取り敢えず酒でもつけてくれないかと、みそのに頼んで、永岡は上がり込んで来た。
「はぁ、私は構わないんですけどねぇ」
みそのは、永岡がそんな時に、自分の所へわざわざ危険を犯してまで来てくれた事に、内心、心が踊る様な気分になったが、それを悟られぬ様にそそくさと酒の用意を始めた。
「っあ〜、相変ぇらず美味ぇ酒ぁ用意してんなぁ〜」
永岡は嬉しそうに、二杯目の酒を手酌で注いでいる。
みそのはそんな永岡の顔が見たくて、酒を切らさない様、職場の丸越で買い足していたのだ。
「お腹は空いてるんですか?」
みそのは以前永岡が空きっ腹で来た事を思い出し、永岡の顔を見た。
「何かあんのかぇ?」
永岡はニヤリとし、期待を込めた顔を向けて来る。
「何かあるって言う程の物は無いのですがね。冷や飯と粕漬けくらいならあるので、お酒の肴でお出しするとか、最期に湯漬けと一緒に召し上がる程度の事なら、直ぐに出来ますけど。ーーでは粕漬けは焼いておきましょうかねぇ」
話している最中に、嬉しそうな顔になって行く永岡の顔を察して、返事を聞かずにみそのはそそくさと肴の用意にかかった。
家の中に香ばしい粕漬けの焼ける匂いが漂って来て、永岡はその匂いだけでも肴に出来ると、嬉しそうに客間から声をかけて来る。
「はぃ、お待たせしました旦那ぁ」
焼いている間の永岡の声の様子に、湯漬けの為に焼いておくだけでは、済まされそうに無くなって来たのを感じたみそのは、未だ脂がプツプツと踊っている、程良く焼き色の付いた鮭の粕漬けを出してやった。
永岡は既に匂いでやられていた様で、待ちきれんと言わんばかりに、出された肴に箸を伸ばした。
「な、なんだこりゃぁ」
永岡は目を丸くしてみそのを見た。
「な、生なところがありましたか?」
慌ててみそのは焼き具合を気にすると、永岡は顔をぶんぶんと横に振り、
「う、美味すぎる。こいつぁ大したもんでぇ!」
そう言って、箸が止まらなくなったかの様に、熱々の鮭を黙々と食べ始めた。
実はこの鮭の粕漬けも、みそのが働く丸越の地下食の『佐島屋』で買っておいた物なのだが、今度ばかりは自分で漬けたのだと、後めたい嘘をついてしまっていた。
「お前は、こんな才もあったんだなぁ」
二切れ出してやった鮭の粕漬けの切り身を、ぺろりと一切れ平らげてから、永岡がみそのを羨望の眼差しで見る。
「旦那も上手いんですからぁ。そんな事ならこれからは堂々とお金とりますよ?」
みそのは後めたい気持ちを、茶化す様に言って誤魔化した。
「まぁ、こんなもん出されちまったら、金なんかは幾らでも出すってぇもんだぜぇ」
永岡は、「また鮭を仕入れたら食わせてくんな」と言って、満面の笑みで今度はゆっくりと、残りの切り身を大事そうに摘みながら酒を飲んだ。
みそのが最期に湯漬けを出してやると、残った鮭の粕漬けで、これまた美味そうにぺろりと平らげ、永岡はここのところの鬱憤が晴れたかの様に、幸せな顔で笑うのだった。
*
プシュ
「あぁ〜、あんたはやっぱり美味しいねぇ〜」
希美は江戸から戻り、早速至福の時を過ごしている。
希美はまじまじと、グラスに収まった琥珀色を眺めて、ニンマリとしながら先程の事を思い返す。
「でも美味しそうに食べてくれたなぁ〜」
幸せそうに食べる永岡の顔を思い浮かべて、クスリと笑う。
「佐島屋様々だけどねぇ。今度自分でも作ってみようかしら、ふふ」
何処で買ったか詮索されるのが面倒で、自分で漬けたと、嘘をついてしまった事を思い出し、自分の後めたい気持ちに可笑しくなって舌を出した。
「でも永岡の旦那も、今は大変な時なんだろうなぁ」
智蔵から聞かされていたのは、探索している店が裏から手を回して、永岡を謹慎させている節があるとの事だった。そこの所は、特別話しには触れようとはしなかったが、永岡が何かしらの屈託を抱えているのは、みそのにも容易にわかった。
「でも永岡の旦那ったら、お腹一杯になったらとっとと帰りやがったなぁ〜。ふふ、まぁしょうがないかぁ」
永岡は湯漬けを食べ終わると急に、「もしかして、奉行所の人間が屋敷に来るかも知れねぇ」などと言い出し、そそくさと帰って行ったのだ。
「特に何を話した訳でも無いんだけど、楽しかったなぁ〜」
希美はまた、美味そうに食べていた、永岡の幸せそうな笑顔を思い浮かべて、グラスを傾けるのであった。




