第二十六話 揺れる想いと途切れる調べ
「っあぁ〜、空きっ腹に効くぜぇ〜」
永岡が叫ぶ様に至福の声を上げている。
永岡は奉行所の帰りに、「ちょいと気になったんで顔見に来たぜぇ」と、みそのの家に顔を出したのだった。
みそのを助け出した後も、永岡は色々とやらねばならない事が有った為、松次にみそのを送らせていたのだが、やはりみそのの事がずっと心配で、気にかかっていた様だ。
出迎えたみそのも、今日のお礼を言うと、嬉しそうに永岡を中へと上げた。
そして、「この時刻にお茶もなんですから、お酒用意しますね」と、いそいそと酒の用意にかかり、永岡が冷やで良いと言う酒を出してやったところだ。
「あら、喉が渇いていたのですねぇ。やっぱりお茶の方が良かったかしらねぇ」
心配する様にみそのが永岡を見ると、
「あぁ、喉ぁ渇ぇてはいたが、オイラもこっちのがいいやな」
永岡は嬉しそうに猪口に手酌で酒を注いでいる。
「でも、本当に今日はありがとうございました」
みそのは改めて、丁寧に膝を揃えて頭を下げた。
「よせやい。大体こいつがオイラの仕事でぃ。それよか本当に大事無くて良かったじゃねぇかぇ。まぁ、首は暫くは痛むかも知れねぇがなぁ?」
永岡はみそのの首筋を覗く様にして、猪口に口をつける。
「はぃ、でももう痛みも無いんですよう?」
みそのは少し痛む首筋を触りながら、永岡に心配させない様に答えた。
「そうかぇ。そいつぁ良かったなぁ」
永岡は、みそのの気づかいがお見通しと言った具合で、ニヤリと笑った。
「でもまぁ暫くは無理するんじゃ無ぇぜぇ。オイラも明日っから、ちっとばかし忙しくなって来やがるんで、そういつも面倒は見てらんねぇかんなぁ」
「いやですよう、旦那ぁ。私は子供じゃないんですからねぇ? でもありがとうございます。無理はしませんから、旦那も気をつけてくださいね」
みそのは今日の事件で永岡達の探索が、いよいよ大詰めを迎えるかの如く、進み出したのだと思い、更に危険な事に遭うのでは無いかと心配していた。
「おぅ、オイラ達も気ぃ引き締め無ぇとなぁ」
永岡は何事か考える様に、酒の入った猪口を見て答えた。
「大丈夫なんですか?」
そんな永岡の様子を見て、思っているよりも余程大変な捕物になるのかと、みそのはまた心配になる。
「あぁ、悪りぃ悪りぃ。ちっとばかし見えて来た事もあるんだが、まだまだでなぁ。そん事ぁ考ぇちまってたみてぇだな。心配させちまったかぇ?」
永岡はみそのが心配そうに聞いて来るものなので、すまなそうに、「そう心配するねぇ」と、手をヒラヒラさせる。
「まぁ、とにかく明日っからなんでよぅ。オイラはそろそろ帰って寝るとするさぁねぇ」
そう言って、永岡はすっくと立ち上がった。
「だ、旦那ぁ…」
「どうしてぇ」
みそのは後の言葉に詰まってしまい、下を向いてしまう。
「………」
「どうしてぇってんでぇ」
永岡は下を向いて黙ってしまったみそのに近づくと、心配顔を覗かせた。
永岡の顔がみそのを覗き込んだ時、すっと吸い込まれる様にみそのは永岡の胸に飛び込んだ。
「………」
「……」
暫く二人は、無言でお互いの身体の温もりを感じながら、抱き合うでも無く無音の時を過ごす。
「ありがとう」
漸くみそのは、惜しむ様に沈黙を破る。
「お、おぅ…」
「ご、ごめんなさい」
そしてみそのが小さな声で謝ると、みそのはガバッと永岡に抱き寄せられて、ゆっくりと抱きしめられた。
「謝んねぇでいいんだぜぇ」
「………」
「オイラもこっちの方がいいやぃ」
暫く二人はそのまま抱き合い、心地の良い時を過ごすのだった。
*
プシュ
希美は江戸から戻ると、何よりの楽しみのビールを開けても、何処かぼんやりとしていた。
「はぁ〜」
先程から何度となく溜息をついている。
「永岡の旦那は、私の事どう思ってるんだろぅ……」
前にも同じ様に、何かあってもおかしくない空気になっていたのだが、今のところ永岡は一線を越えて来ない。
今日もあの後は、さらりと、「じゃぁ余り無理するんじゃねぇぜぇ」とだけ、言い残して帰って行ったのだ。
希美も一線を越えたい訳でも、越えたくない訳でも無い、複雑な想いを永岡に寄せているのだが、永岡が望めば希美は受け入れるであろう事は、自分でも想像が出来ていて、なんとなくそうなって欲しいとさえ思っているのだ。
「もう」
希美は永岡に焦れている自分に気がつき、ビールを飲んで誤魔化した。
「ん〜、美味しいっ」
やっと正気に戻してもらったかの様に、至福の飲み物をまじまじと眺めた。
「でも今日は本当に危ないところだったわよねぇ…」
ぼそりと言って、自分があのまま拐かされて、何処かに売られてしまいそうだった事を考え、背筋が寒くなった。
「私は江戸へ行ってていいのかなぁ…」
永岡達に助けられなければ、東京には戻って来られずに、突然行方をくらませてしまう形になり、夫や親兄弟、職場の人々に多大な心配をかけてしまうし、帰って来られたとしても、大怪我などしていたらと思うと、希美は江戸に行く事に対して、今更ながらずっしりとした重みを感じたのだ。
「でも止められそうにないよなぁ…」
希美はぽつりとこぼして、永岡の顔を思い浮かべながら、グラスを傾けるのであった。
*
「頼もう」
今日は新田も同伴して、永岡達は澁澤屋敷を訪れている。
昨日の新田の手配りで大目付けの許しを受け、お墨付きでの取り調べに朝からやって来たのだ。
「なんだかおかしな様子でやすねぇ?」
智蔵が新田と永岡に声をかけた。
「そうだなぁ。何かあったのかも知れねぇなぁ」
永岡も先程門番に訪いを告げてから、その慌てた対応と、返事が中々来ないのに訝しんでいた。
「一足遅れで何処かへ、逃げられちまったって事ぁ無ぇだろうなぁ?」
新田も不安に思っていた事を口にした。
漸く門が開いて、澁澤家の用人らしき初老の男が出て来た。
「本家は些か取り入った事がござったので、今日のところはお引き取り願いたい」
出て来るなり、その用人はにべもなく告げて来た。
「今日はお上の御用にて、大目付様の指示に従っての調べでござれば、その様な言い訳では済まされますまい」
新田が鋭く言い返すと、そう言われる事を予期していた様に、その用人はあっさりと観念した様な顔をして、覚悟を決めた様に口を開いた。
「これは当家の恥になる事でござって、そこの所を汲んでお聞き願いたいのじゃが」
用人が一度言葉を切り、永岡達の同意を求める様に見ると、それに永岡達が頷く。
「当家の主、澁澤暉一郎は昨、夜半に身罷り申した」
「げぇっ」「なっ」
永岡達は驚きの声と共に、唖然として言葉を失った。
「表向きには、今は暉一郎様が病床についている為、隠居を願い出ているところでござる。嫡男である晃一朗様が無事家督を継げる様に、取りはかっているところでござれば、何卒その様に含みおき願い申す」
暉一郎の悪業にはほとほと困り果てていて、利発で人品にも恵まれた嫡男である晃一朗に、早く家督を継がせたかったのだと、最後は泣き落とす様に縋り付いて来たのだ。
「わ、わかり申した。しかし、それでは事実をありのまま、お教え願えませぬでしょうか。そうして頂ければ今聞いたお話しは、ここだけの話しとして、我等の内で済ませる事としましょう」
新田は、「良いな」と言わんばかりに永岡達を見た。永岡達は頷いて、今の話しは他言無用との約定をする。
「では、これも同じ様に他言無用で願いたいのだが…」
永岡達に伺いを立てる様に見る。
新田が頷くと、ほっとした様に用人は口を開いた。
「実は身罷ったのは病気ではなく、昨夜屋敷を出ての帰り道で、辻斬りに遭うたのでござってな。その様な訳でござって、もしこれが公にでもなり申したら、お家は断絶も免れない状況になっているのでござる。しかも、殿が個人的に囲ってござった、浪人者の用心棒も一緒に消えていると言う事で、もしや使用人に斬り殺させていたのではと言う懸念もござって、流石に困り果てているのでござるよ」
用人は憔悴しきった顔で溜息をついた。
天下の旗本は本来、戦となれば将軍の側を守る徳川家の精鋭である。それが辻斬りごときに不覚を取ったとなれば、命が助かったとしても、日頃よりの武芸に対する不届きとあって、切腹は尚の事、それが辻斬りに殺されたとあれば、お家断絶も免れない。ましてや使用人に不覚を取るなど、話しにもならない事なのだ。
「それで澁澤様の亡骸は今御当家に?」
永岡は用人に詰め寄る様に問い質し、刀痕を検めさせて欲しいと願った。
用人は少しむっとすると、流石にそれは出来ないと、永岡の願いを突っぱねたのだが、丁度その時、
「良いではないか、山本」
と、いつの間にか利発そうな若侍が出て来ていて、声をかけて来たのだ。
「若、それは如何に若の命でも承知し兼ねますぞ」
山本と呼ばれた用人は慌てて窘める。
「どうしてだ。町方のお役人は、他にも辻斬りの刀痕を見てるのであろう。それと今回の父上の刀痕が、一致する様な事が判れば、下手人も絞られて来ようものだろう。さすれば当家としても願ったりではないか」
至極的を射た言葉を吐くと、「良いから入ってくださくれ」と、山本を無視して永岡達を屋敷に招き入れた。
「父上もあの浪人者を抱え込むまでは、金儲けこそ浅ましくしておりましたが、未だお家の事を思っての事と、某から見ても目を瞑っていられたのですが、あの浪人者を、用心棒として迎え入れてからというもの、屋敷には胡乱な輩が出入りする様にもなりますし、第一、父上の目つきも変わり、まるで人が変わられた様になってしまい、某や山本の進言にも、全く耳を貸さなくなってしまっていたのでござる。そんな時にこの様な…」
無念そうに晃一朗は下を向く。
「しかし、これも当家にとって、新たにやり直す為の吉兆と捉え、胡乱な者を一掃し、澁澤家再建の為にも、この機会を活かして行かねば成りませぬ。勝手を申しますが、どうかお力添えをこの通り」
そう言って深々と永岡と新田に頭を下げた。
「晃一朗様、お止め下さい。我々は暉一郎様が亡くなられた今、御当家を追求しようとは思ってもござりませぬ。それに先程山本殿に約定いたしましたので、それに二言はございません」
新田が慌てて晃一朗の頭を上げさせた。
永岡も新田も、不肖役人と蔑まれる町方同心を、決してその様な目で見ず、逆に先達の師の様に敬い、誠実に対応する晃一朗に好感を覚えている。最初に用人の山本が言っていた、晃一朗に早く家督を継がせたいとの思いにも頷ける。この利発な若君を、何とか無事に家督を継がせたいと、永岡達も思っていた。
「とにかく、晃一朗様。お父上の刀痕は先程お伝えした様に、我等が追っていた事件での、辻斬りの斬り口に酷似しております。晃一朗様が仰る様に、その浪人者の仕業かとも思われますので、我等はその線で、この事件の探索を続けて行こうと思っております。ですから必ずお父上を手に掛けた下手人を、捉えて進ぜますので、晃一朗様は家督を継ぐ事を最優先に、この事は我等にお任せ下さりませ」
新田が言い、永岡も一緒に頭を下げて下手人の捕獲を誓った。
*
「新田さん。やはり黒幕は、あの蔵の持ち主って事になりそうですねぇ」
永岡は門脇の供待ちの部屋で待っていた智蔵達に、澁澤暉一郎の斬り口の見立てを説明し、澁澤屋敷を出てから思っていた事を口にした。
「まぁ、そうなるだろうなぁ。澁澤様は使い捨てにされちまったってぇ事さぁなぁ」
新田も苦い顔をしている。
「とにかく、伸哉と留吉の報告を待つとしましょうかぇ」
永岡はそう言うと、先程見た凄まじい斬り口の澁澤暉一郎の亡骸を思い出し、その太刀筋を自分は見切れるのかどうかと考える。
しかし永岡が頭の中に思い描いたの物は、その架空の相手に、あっさりと斬られている自分の姿で、思わず身震いをしてしまう。
永岡は直ぐに頭を振ると、それを誤魔化す様に大きく伸びをするのであった。




