第二十四話 みそのの声
「旦那、奴の猪牙に横付けしやすかぃ?」
松次は父親譲りの漕ぎ手の名手だった様で、かなりの速度で前を行く猪牙舟を、永岡と智蔵の二人を乗せていても楽々とつけていた。
「ああ、そうしてぇ所だが猪牙ん中では何もするめぇ。あの様子なりゃ、こっちの事など気にも留めて無ぇや。このまま何処ぇ行くか、最後までつけて行こうじゃねぇかぇ」
永岡は今にでもとっ捕まえて、みそのであろう積荷の筵を引っぺがし、早く解放してやりたい気持ちを抑えながら、前を行く猪牙舟の男の背中を睨みつけていた。
「それにしても北山の旦那は、大した機転でやしたねぇ」
松次から経緯を聞いていた智蔵は、尾行がなんとか上手く行きそうな様子なのが、心の余裕に繋がり、改めて北忠に感心する言葉を吐いた。
「ああ、そうだな。あいつのおかげで巻かれねぇで、ここまで追って来れてんだかんなぁ。あいつもやる時ゃやる男ってぇ訳だな」
永岡の口元が少し緩む。
「本当に助かったぜぇ」
*
その時、前を行く栄吉が漕ぐ猪牙舟の中では、みそのが漸く意識を取り戻していた。
『あ、また私は何処かへ運ばれているんだわ』
みそのは心の内で思い、息を殺して周りの音に気を配った。
みそのは、お加奈と待ち合わせて善兵衛の店の初売りに出掛けていたのだが、途中で栄吉に見つかり、当身を食らわされて猪牙舟で、澁澤屋敷に連れて行かれていた。そして、澁澤屋敷に入る前にも、一度目を覚まして抵抗したのだが、栄吉に首を押さえつけられ、その時にまた気絶してしまっていたのだ。
みそのに聞こえる音は水音くらいで、誰かが助けに来てくれそうな気配は、特に感じられなかった。
『永岡の旦那ぁ』
みそのは心の内で、必死に永岡に助けを求めていた。
*
『みその?』
不意に永岡は、みそのの声が聞こえた気がして、前を行く猪牙に、みそのが乗っているのだとの思いを強めた。
「どうしやした?」
智蔵がそんな永岡の心の中を覗いた様に、声をかけて来た。
「いや、どうもみそのがあの猪牙に、乗ってる気がしてならねぇと思っちまってな…」
永岡は益々その思いが強くなるのを感じて、猪牙舟の男の背中を睨みながら答えた。
「あっしもさっきから、そう思えてならねぇんでやす。旦那ぁ、あの野郎が何処ぇ行こうが知らねぇが、余り泳がせねぇで、早ぇとこ、とっ捕まえやせんかぃ?」
抜け荷の拠点の屋敷なのか、拐かした女を幽閉する為の場所なのか、いずれにしても事件に何らかの進展があるはずなので、どうしても行き先を突き止めたくて、今まで猪木舟の男を泳がせていたのだが、永岡も同じ思いでいたので迷いが生じる。
「そうしてぇとこだがなぁ…」
「こんな事ぁ言いやしたら、他の娘さん達に申し訳ねぇでやすが、もし本当に猪牙に乗ってるのがみそのさんなりゃ、探索ぁ後回しにしても、無事に助け出す事が先決なんじゃ無ぇんでぇ? もし何かあった事を考ぇやすと、あっしは後悔すると思いやすんでさぁ。それに奴が行った先に、仲間がうようよいやがったら、あっしらは三人でやすし、無事に助け出せるって保証なんてねぇんでやすぜぇ」
もう伸哉と留吉は、先程から姿が見えなくなっている。
智蔵が自分の事を思って言ってくれているのを、ひしひしと感じ、永岡は胸が熱くなる思いで、何と答えて良いやら言葉が見つからなかった。
「まぁ旦那ぁ。あっしは、人助けになるしくじりだったら大歓迎ですぜぇ。大いにしくじりやしょうよ」
永岡の迷いを軽く取り払う様に、智蔵は明るく笑った。
永岡は、『良い親分さんと組めてオイラぁ幸せだぜぇ』と、言葉に出してはつまらない言葉を、心の内で噛み締めていた。
「オイラも手柄を急く訳じゃ無かったが、人の命にゃ代えられねぇやな。智蔵、ありがとうよ」
やっと智蔵に、そう言えた時、
「旦那、親分。そろそろ奴ぁ、猪牙を着けやすぜぇ」
流石に親父が舟乗りなだけに、松次はいち早く、前を行く男の動作に気づいた様だ。
「旦那ぁ」
智蔵が永岡を呼び、どうするか目で訴えると、永岡は大きく頷く。
「松次ぃ、速度あげて距離を詰めてくんなっ。猪牙ぁ着けたところでふん捕まえるぜっ」
「へい!」
松次は櫂に力を込めて漕ぎ出すと、一瞬突き飛ばされたかと思える程の揺れと共に、グイグイと速度を上げて、前を行く猪牙舟との距離が縮まった。
「行くぜぇ、智蔵っ」
栄吉の猪牙とほぼ並んだ松次の猪牙が、ぶつかる様に岸に着けた時、永岡は智蔵に叫んで陸へと飛んでいた。
完全に我を失って、必死に猪牙を漕いでいた栄吉も、流石にここまで迫られると、永岡達に気がつかないと言う訳にはいかない。
栄吉はやっと正気に戻り、懐から合口を抜き払った。
「て、手前ら、一体なんなんでいっ!」
栄吉は意外に喧嘩慣れした隙の無い構えで、迫る永岡と智蔵を睨みつける。
しかし永岡はお構い無しに、そのままの勢いで栄吉に駆け寄っていく。
「お、面白ぇ、ぶっ殺してやるぜぇ」
合口を腰溜めに構えて、栄吉も永岡に突っ込んだ。
走り寄った永岡は、寸でのところで身体を捻りざまに、腰に挟んだ十手で栄吉の小手を打つと、その勢いのまま栄吉の鼻頭へ、手首を返す様にして十手を叩きつけた。
「だ、旦那っ!」
一瞬の事で後ろから見ていた智蔵は、永岡が刺されたかと見紛う程の早技だった。
合口が地面に転がり、顔面を鼻血で汚してのたうち回っている栄吉に、駆け寄った智蔵が縄を掛ける。そして永岡へ頷くと、猪牙舟に目配せをした。
永岡も頷いて猪牙舟へ駆けて行くと、猪牙舟の荷に掛かった筵が、ゆっくりとめくり上がったかと思うと、みそのが勢いよく飛び出し、永岡に向かって駆けて来た。
「み、みそのっ」
永岡がみそのの名前を口に出した時、心地よい重みの衝撃が永岡の胸を襲った。そして自分の胸に飛び込み、そのまま泣きじゃくるみそのを、守る様に抱きしめていた。
永岡に抱きしめられたみそのは、漸く落ち着いたのか、今度は声も無く肩を揺らして泣き続ける。
すっかり永岡の胸の中で安心したみそのは、ゆっくりと頭を起こして離れると、
「な、永岡の旦那おそいょ」
泣き腫らした顔で見上げる。
「悪りぃ、悪りぃ。すっかり遅くなっちまったなぁ」
そう言って永岡は、みそのの涙を親指で拭った。
「ふふ」
「なんでぇ」
みそのが急にクスリと笑ったので、永岡は眉間に皺を寄せて訝しむ。
そしてみそのが可笑しそうにしながら、
「ふふ、ほら」
と、永岡の胸を指で差すと、
「あ〜あぁあぁあぁあぁ」
と、永岡は困った顔を作ってみそのを見る。
「今度は前に水溜りを作っちゃいましたね。私」
みそのは、困り顔の永岡に照れながら応えると、顔を少し赤らめて可笑しそうに笑った。
「ったく、しょうがねぇなぁ」
びっしょりと濡れた胸元を摘んで、永岡は嬉しそうな苦笑いを浮かべる。
「旦那、用意が出来やしたぜぇ」
智蔵が猿ぐつわを噛ませ栄吉を後ろ手に縛り、みそのが乗っていた猪牙舟に乗せ、筵を掛けていた。
「おぅ、ありがとうよ」
そして永岡は智蔵に振り返って手招きすると、「へい」と、側に寄って来た智蔵に何か耳打ちをしてから、みそのに向き直り、
「今日は飛んだ災難だったなぁ。善兵衛の店へ行くんだったんだろぅ? オイラが送ってやりてぇところだが、未だちっとばかしやる事があるんでなぁ。善兵衛んとこへは、松次も一緒なら行っても良いんだぜぇ。とにかく松次に送らせるんで、余り無理しねぇで今日は帰りな。わかったな?」
と、松次をつけて送らせる旨を伝えた。
みそのは素直にこくりと頷く。
「じゃぁ、ほら、松次の猪牙に乗りねぇ」
みそのは永岡の言うことを聞いて、松次の待つ猪牙舟へ歩きかけて振り向いた。
「どうしてぇ」
永岡が訝しむと、みそのは首を振って永岡を見つめる。
「私、舟で目が覚めてから、ずっと旦那の事を心の中で呼んでいたし、旦那が助けてくれると思って、旦那の声を探してたの」
少しその時の事を思い出したのか、薄っすらと涙を浮かべて永岡を見るみそのは、
「旦那、ありがとう…」
そう言うと、また泣き顔を見られまいと、ふぃっと振り返って、松次の猪牙舟へ小走りで駆けて行った。
みそのは松次の手を借りながら、危なっかしく猪牙舟へ乗り込み、永岡に手を振っている。
「ちっ、聞こえてたさ。そんなもん」
永岡は舌打ちと共にぼそりと呟くと、自分に手を振るみそのに、照れ臭そうに手をあげて応えるのだった。




