第二十三話 みその捉わる
「へっへへへへへ」
権三の卑猥に歪んだ顔が、栄吉が持ち帰った荷の筵を剥がすと、更に歪ませ、下卑た笑いを浮かべている。
「ひっひひひひひひ」
媚びる様に、栄吉も下卑た笑いで応えると、
「ほ、本当にあっしも、ご相伴に預からせていただけるんでやすかぇ?」
と、ニヤニヤしながら権三に擦り寄って来た。
「まぁ、考ぇてやってもいいがなぁ。へへっ、なんせ、お前の手柄でもある訳だしなぁ」
勿体振る様に、権三が卑猥に満ちた目で女の着物の裾を捲り上げ、その中を覗きながらニヤニヤとする。
「あっしにも見せてくだせぇよぅ?」
栄吉が更に権三へ擦り寄り、懇願していた時、誰かが近づいて来る気配に、権三は声を上げた。
「あっ、澁澤様…」
用心棒の浪人風の侍を引き連れて、この家の当主の澁澤暉一郎が現れたのだ。
「ほ〜ぅ、やっと次の献上品が届いたと見えるのぅ?」
ギロリと、彫の深い奥まった目を権三に向けてくる。
「へ、へぃ、たった今届きやしたんで、殿様にお伝えしようと、丁度思っていたところでごぜぇやす」
権三はビクビクしながら訴えた。
権三はこの非情で冷徹な目で見られると、恐ろしくなるのだが、それよりも尚、澁澤の後ろに控える浪人風の侍が、恐ろしくて仕方がない。
ある時、舟で出掛ける澁澤の足に、水をほんのひと飛沫飛ばしてしまった手下が、澁澤の目配せ一つで、この浪人風の侍に、目にも止まらぬ抜き打ちで斬り殺される所を、間近で見てしまった事があるからだ。
「ほぉぅ、そうか。それは感心ではないか。その方が先に手を付けたのでは、わしも気が進まんからのぅ」
またギロリと見られて、権三の背筋に冷たい物が流れる。
「め、滅相もごぜぇやせん。そ、そんな大それた事する奴は、ここにはおりやせんや。もしそのような奴が現れやしたら、あっしが必ず縛り上げてくれやす」
「ほっほ、それは手緩いのぅ」
笑ったのかどうかわからない声をあげて、ギロリと冷たい目を向ける。
「………」
権三は、もう声一つ出せない。
「くれぐれもその方の指が触れぬようにな。ほっ」
そして不気味に笑った澁澤は、浪人風の侍に目配せをすると奥へと戻って行った。
権三はほっとして脂汗を拭おうとすると、ギラリと何かが光ったと思った瞬間、自分の手が猛烈に熱くなった。
「がぁ〜っ! ててて、痛ぇっ」
そのすぐ後に激しい痛みが襲って来て、権三は悲鳴をあげながらのたうち回わる。
「この女を例の蔵へ運んでおけ」
栄吉は足元に転がる権三の小指を見て、ガクガクと震えながら男の言いつけに何度も頷いた。
いつ刀を抜いてそれを収めたか、栄吉にも見えなかったが、この男の凄まじさは、以前行動をともにして見ているだけに、十分過ぎるほど知っていたからだ。
*
「永岡の旦那、行かせてくだせぇ」
大名や旗本、寺社等は、本来町奉行所の管轄下にない為、町奉行所の人間が踏み込んだところで、中にも入れてもらえないのが現状で、そこを無理にでも乗り込むのであれば、一個人の仕業になってしまう。しかし同心である永岡の場合は、それだけでは済まされない。
それでも永岡は乗り込もうとしていたのだが、智蔵から必死に止められていた。そして先ずは智蔵以下、奉行所の人間では無い者が、奉公の口を探すふりをして潜り込み、みそのの安否を確かめようとの事になったのだ。
「それはいけやせんぜ、甚平さん。あんたは手下でも何でもねぇんでやすから、あっしらに任せておくんなさせぇょ」
先程から甚平が居残っていて、みそのの安否を確かめる役目を買って出ているのだが、先程から智蔵が優しく言い聞かせている。
「そうだ、甚平。お前の気持ちはありがてぇが、お前が思ってる以上に危険な役目なんでぇ。本来なりゃここにいる皆にも、行かせたく無ぇくれぇなんだぜぇ」
永岡は甚平に近寄り肩をたたく。
「それにまだ、みそのと決まった訳じゃ無ぇんだぜ?」
永岡は自分に言い聞かせる様に、甚平に優しく言うと、
「伸哉と留吉、やってくれるかぇ?」
と、済まなそうに二人に顔を向けた。
「へい、お安いご用でっ」「合点でぇ」
留吉と伸哉が、甚平に任せろと言わんばかりに永岡に答えた。
「ちょ、ちょっと待った旦那ぁ。あっしが行かなきゃ、示しがつかねぇでやすぜ。あっしと伸哉か留吉の、どちらか二人にしちゃくれやせんかぇ?」
智蔵が血相を変えて訴える。
「それを言っちゃぁ、オイラが真っ先に行かなきゃなんねぇぜ。こん中じゃ、年齢的にもこの二人が一番怪しまれねぇって、お前もそんくれぇ分かってんだろぅ? ここは二人に任せちゃくれねぇかぇ?」
永岡が智蔵に拝む格好で頼むと、
「任せてくだせぇ、親分」
伸哉と留吉も智蔵に頼み込んだ。
「わかりやした旦那。二人も探るだけで、無理するところじゃ無ぇのを忘れんなよ。状況がわかり次第抜けて来るんだぜぇ」
軽く目を閉じて一呼吸おいた智蔵は、永岡達を順番に見る様にして言って、最後に「頼んだぜぇ」と、二人の肩を叩くのだった。
「忠吾、ここはお前と松次に任せっから、しっかり頼むぜぇ」
永岡は伸哉と留吉の二人を、良い仕事の口を聞きつけて来たと言った具合で、澁澤屋敷に向かわせ、甚平には事の次第を書き記した手紙を、奉行所の新田に届ける様に頼んだ。そして自分と智蔵は、何かあった場合に備え、運河を渡った側で待機をし、北忠の合図で、すぐに乗り込める段取りを付けたのだ。
「承知致しました。ご武運をっ」
少々大袈裟だが、北忠もいつもの眠った様な表情では無く、戦へでも出るかの様な、引き締まった顔で永岡に応えていた。
北忠が板戸の隙間から覗いている前を、伸哉と留吉が通りかかった時、北忠は思いついた様に、外を覗きながら松次を呼んだ。
「へい、北山の旦那。どうしやした?」
「ここは二人も要らない気がするんだけどねぇ。松次は猪牙なんかは漕げるのかぇ?」
「へい。漕げるも何も、あっしの親父は猪牙漕ぐのが生業でやして、ガキん頃から、親父に教えられてやすから一通りは。へい」
「そうなのかぇ。尚更いいねぇ。ここは私一人で大丈夫だから、松次は、猪牙を怪しまれない所まで漕いで来ておくれよ」
「へ、へぃ、良いんですかぃ?」
「良いから良いから」
北忠は外を覗きながら、早く行けと言わんばかりに、手で追い払う様にして松次を急き立てた。
「じゃぁ、ひとっ走り行って来やす」
松次は持ち場を離れる不安も有りながらも、同心の旦那には逆らえない事もあり、勢い良く飛び出して行った。
伸哉と留吉は屋敷の裏口まで来ると、顔を見合わせ頷き合った。
そして、いざ訪いを入れようとした時、屋敷の水路口の戸が開いて、猪牙舟が出て来たので、思わず二人は慌ててしまう。それでも伸哉は怪しまれない様にと、とっさに声をかけた。
「ちょ、ちょいと兄さん、この屋敷の者かぃ。俺たちゃぁこの屋敷に良い仕事が有るって、聞いて来たんだけ…」
しかし、猪牙舟を漕いでいる男は、それどころでは無いのか、全く気付かずに、どんどん猪牙舟を漕いで行ってしまう。しかも漕いでいるのは先程と同じ男で、積荷も先程と同じ様に、筵にかけられた同じ様な大きさの積荷だった。
「あ、兄ぃ、あれはもしや」
伸哉が留吉に積荷を指差して確認する。
「ああ、もしかしたら違ぇ場所へ運ぶ様に言われたのかもな。あの男の様子も、どうもおかしいや。屋敷に乗り込むより、あの男を追った方が良さそうだぜ」
留吉が伸哉に応え、二人は戻って永岡と智蔵に指示を仰ごうと、引き返す事にした。
それを見ていた北忠は、板塀から身体を乗り出し、永岡達にそっちに猪牙舟が行ったと、形態模写の様に手振りで合図を送った。
「だ、旦那。あれ、北山の旦那がなんかやってやすぜぇ。ありゃ何してんでやしょう?」
智蔵は北忠が必死に猪牙舟がそっちへ行ったと、伝えようとしているに気がついて、首を傾げながら永岡に聞いた。
「ん? なんだろうな。流石にこんな時でぇ、ふざけてる訳じゃ無ぇとは思うんだがな…」
北忠は板塀から身体を乗り出して、時折ずり落ちているのか、ひょこひょこと見えなくなったりしながらも、両手の先をくっつけた格好で前に突き出したり、手をゆらゆらさせて、前に伸び上げる様に突き出したりしている。
「あんな合図ぁ、打ち合わせに無ぇんだがなぁ。あいつの事ぁ良くわからねぇぜぇ」
と言った時、永岡達の前に猪牙舟の男が現れた。
「ちっ、そう言う事かよっ」
永岡と智蔵は、隠れる所が無いながらも、立ち話しをしてる風でやり過ごす。
「親分、永岡の旦那ぁ」
すぐに伸哉と留吉が、駆け寄りながら声をかけて来た。そして男はさっきの男で、積荷も同じ様に見えたので、積荷を他へ運んでいるのではないかと、屋敷には入らず追って来たのだと、矢継ぎ早に報告をした。
「そうかぇ、良い判断でぇ。まずお前達の考ぇは、当たっているだろうよ。積荷がみそのかどうかは別として、何処か他所へ運べと、命じられたってぇところだろうな」
永岡達は話しながらも猪牙舟を追っている。
ただ、猪牙舟は意外に速く、四人は駆け足になっているのだが、段々離されて行く状況だった。
「だ、旦那、あれ!」
伸哉が息を弾ませながらも、目敏く猪牙舟で現れた松次を見つけて指を差した。
「おっ」
永岡は、北忠と一緒に見張っているはずの松次が、突然猪牙舟で現れた為、一瞬戸惑ったのだが、松次もこちらに気づいて猪牙舟を寄せて来たので、智蔵と一緒に猪牙舟へ飛び乗り、前を行く猪牙舟を追う様に松次に声をかけた。
松次はそれに短く応え、必死に猪牙舟を漕ぎ出した。
みそのが乗っているかも知れない猪牙舟を、永岡と智蔵を乗せた松次の猪牙舟が追い、その影を見失わない様に、必死で伸哉と留吉が走っている。
「みその、無事でいてくれよ」
未だ積荷がみそのと決まった訳では無いのだが、永岡は心の内で必死で呼びかけていた。




