第二十二話 みその来ず
「最近永岡の旦那ったら、めっきり顔見せないなぁ〜」
希美は先程から同じ様な独り言を言って、ビールを飲んでいる。
ここ数日の間、希美は仕事の時を除いては、永岡が顔を出すのではないかと気にかかり、外出する事も無く夜も常に江戸の家で時を過ごしていた。
そんな日々を過ごしていた希美は、今日は久しぶりに東京の家に帰ってビールを飲んでいる。
「私、かなり好きになっちゃったみたいねぇ……。どうしよぅ…」
項垂れながら希美は、携帯のメールのチェックをしている。
夫からのメールは、今日は学会の打ち上げで飲みに行く事になり、帰れなくなったとの連絡だった。
夫から数日前に、今日は久しぶりに学会なので、早く帰れそうとの連絡をもらっていた為、希美も今日は江戸では無く、東京で夜を過ごしていたのだった。
希美は、先程からその文面を何度も読み返しながら、夫を想い、永岡の事も想い、溜息を吐いている。
希美はその溜息が肴になってしまう様な、切ない宴を、大好きなビールに慰められながら、眠りにつけるまで独り続けるのだった。
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「みそのちゃん、みそのちゃん居るんだろぅ。ねぇ、みそのちゃん」
お菊の声がして玄関口まで出て行くと、お菊が煮染めを持って立っていた。
「最近家にこもって、外にも出ないもんだから、心配してたんだよぉ。この煮染め、多く作っちゃって、余らせちまったから食べておくれよぅ。本当に身体、大丈夫なのかぇ?」
どうやらみそのが、家にいる様子があるのに出て来ない物なので、心配していてくれたらしい。この煮染めも、元気にしてるのか確かめる為の口実だろう。
「お菊さん、ありがとうございます。ちょっと書物に夢中になったりしていて、出ないだけなので、病気とかでは無いのですよ。心配させてしまってごめんなさいね」
みそのはお菊の思いやりに、感謝しながら頭を下げる。
「それに今日は鳥越の方にお呼ばれして、久しぶりに出かけて来るんですよ。本当に大丈夫なんですからねぇ」
今日は善兵衛の店の握り飯が、いよいよ売り出される日で、みそのはお加奈に誘われて、野次馬をしに行く約束をしていたのだ。
これは昨日、甚平がお加奈の使いで現れて、今日が初売りと聞かされ、両国まで回るのは遠回りになるので、今日のお昼に、善兵衛のお店で待ち合わせようとの、連絡をしに来てくれての事だ。
善兵衛もここ何日か、近隣や浅草御蔵の方まで行って、無料で人に試食させ、今度店で売り出すので贔屓にしてくれる様に、歩き回っているとの話しだった。これもみそのの勧めであった為、みそのが言う事なら間違いないとばかりに、善兵衛は初売り前から精力的に動き回り、余程力が入っているとの事だった。
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「少し早過ぎたかしらねぇ…」
みそのはそう呟きながらも、握り飯の初売りを見られるのが嬉しくて、少し浮き浮きしてしまい、つい足の運びも軽やかに速くなってしまっている。
みそのは時計の無い江戸での生活で、時の鐘を頼りに時間を計るのには、未だ感覚が慣れないでいるので、常に早目に行動しようと心掛けていた。
最も現代とは違い、日の出から日没を基準にした不定時法であった為、お日様の動きで刻の長さも、夏場は長く冬場は短くと言った具合に、日々刻の長さが変わって来るので、みそのにとっては尚の事、慣れるのに難儀するのかも知れない。
そんな善兵衛のお店の事を思い、気分良く歩いていたみそのだが、その後ろから周りを気にする様に、一人の男が近づいて来ているのには、全く気がついてはいなかった。
*
「なかなか動きが無ぇでやすねぇ」
あれから澁澤屋敷の水路口への出入りは、舟での行商の者くらいで、特に変わった様子を見せていなかった。
勿論その行商の後をつけて裏は取っていて、皆一様に怪しい者では無いとの事だった。
「でも、みそのさんを狙ってたってぇ奴が、出て来ねぇてのは腑に落ちやせんよねぇ。まぁ、夜中に出て行かれたり、表から出て行かれたりしてりゃぁ、見落としもあるんでやしょうが、出て行ったにしても、また入ってくるんでやしょうし、どうなっちまってるんでやしょうねぇ?」
流石に智蔵からも、少しぼやく様な言葉が突いて出た。
「まぁ、オイラ達も年がら年中、目を光らせてもいられねぇんだし、偶々気づかねぇ時に出入りされてたんなりゃ、その内引っかかんだろうよ。大変だが、気長にやろうじゃねぇかぇ」
永岡が智蔵の肩を叩いた。
「すいやせん。なんだか、ぼやいちまったみてぇでやしたね。へぃ、あっしもそのつもりでさぁ旦那」
智蔵が頭を掻いて恐縮した。
「あっ」
その時、戸板の隙間から外の様子を伺っていた松次が声を上げた。
「どうしてぇ、松次ぃ」
永岡と智蔵が同時に声をかけると、松次は覗き穴から目を離さず、右手を上げて手招きする様に呼んでいる。
永岡と智蔵はすぐさま駆け寄ると、松次の横の板壁の隙間から外の様子を見た。
「おっ」「あっ」
永岡と智蔵も、少し上気した様な声を出す。
二人が板壁の隙間から外を覗いた時、丁度猪牙舟が目の前を通り過ぎ、澁澤屋敷の水路口に入って行くところだったのである。その猪牙舟には、筵をかけた荷物が積まれていた。
「あいつぁ、例の男でやしょうねぇ」
目つきは悪いが、比較的端正な顔立ちの男を目にすると、智蔵がぼそりと言う。
「まぁ、間違ぇ無ぇ様な気がすんなぁ。格好を商家の若旦那風にして、愛想笑いでもしてりゃぁ、存外好感持てそうな面ぁしてっからなぁ」
永岡も最初に感じた印象を言って、智蔵の感が正しい事を匂わせた。
「でも荷はなんでやしょうかねぇ。木箱にしちゃぁ、嵩が無ぇ様な気がしやしたが」
松次が疑問を口にした。
「それもそうだなぁ。もしかしたら、また神隠しでもやりやがったかぇ?」
松次の疑問を聞いた永岡は、筵の膨らみが、丁度、人一人寝かせてる様にも見えて口にした。
「ど、どうしたのですか、永岡さん」
永岡が入って来た時に、入れ違いで厠へ行っていた北忠が戻って来て、三人の様子から、何か他ならない雰囲気を察して声をかけて来た。
「忠吾、来やがったぜぇ。今、荷を積んだ猪牙が入って行きやがった」
「ま、誠で御座いますか。やっと進展が御座いま…」
途中まで言うと、北忠は申し訳無さそうに、片手で拝む様にしてから、腹を押さえ小股でくねくねしながら、また厠へとすっ飛んで行った。
「ったく、何だありゃぁ」
永岡が呆れて智蔵を見ると、智蔵も困った顔で首を振った。
北忠は実家が見張りの拠点になって、泊まり込みで詰めていたのを良い事に、普段の同心身分の暮らしでは口に出来ない、自分の好物を母親に用意させ、それをしこたま食べていた。要はそれが災いして、今朝から腹を壊しているとの事だった。
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「あれぇ。本当どうしたんだろうねぇ…」
お加奈は約束の刻限を過ぎても、みそのが姿を見せないので、先程から心配でそわそわしていた。
みそのへ使いにやった息子の甚平の話しでは、それはもう楽しみにしていた様子で、必ず行くので、お加奈に宜しく言って欲しいと、聞いていたから尚更だ。
そして、居ても立っても居られなくなったお加奈は、善兵衛に声をかけると、両国の自分のお店まで戻る事にしたのだった。
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「みそのさん、居ますかぇ。みそのさん」
戸を叩きながら甚平が声をかけていると、
「あれ? この前のぉ」
お菊が後ろから声をかけて来た。
「あっ」
甚平は呼び掛けたのがお菊だと判り、少し身構えながら、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「何も取って食おうなんて思っちゃいないよぅ。ふぁっはははははは」
お菊は面白がって甚平を笑う。
「みそのちゃんかぃ?」
甚平は恐々と小刻みに頷く。
「ふふっ、みそのちゃんなら、今朝少し遅めだったけんど…あぁ〜、そうそう、鳥越の方だ。何だかお呼ばれしてるんだと言って、鳥越まで出かけちまったよぅ?」
お菊は甚平が滑稽に見えて、面白がりながらも、今朝の会話を思い出して教えてやった。
「ほ、本当ですかぇ?」
「本当も何も、私ゃ、みそのちゃんから直接聞いたんだしねぇ。それに出掛けるところも見かけて、声をかけられてんだよぉ」
「す、すいやせん。じゃぁ、出掛けたのって言うのは何刻くらいの事なんで?」
「そうさねぇ。四つを少しばかり回ったくらいだったかしらねぇ」
「そ、そうですかぃ。それは間違いないんですかい?」
甚平は四つ(朝四つは午前10時くらい)くらいに出ていたら、待ち合わせの時刻には充分に間に合うし、むしろ早いくらいなので慌てて聞き返した。
「間違いないかって言われるとねぇ。でも私ゃいつも、四つの鐘が鳴った頃に洗濯を始めるんで、洗濯しだしてそう時が経ってない頃に、みそのちゃんが出掛けてったはずなんだよねぇ」
「あ、ありがとうごぜぇやした」
甚平はお礼の言葉を残して、慌てて走り出していた。
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「そ、そうなのかぃ甚平。それじゃみそのちゃんは、とっくにここに向かってるって事だねぇ」
お加奈が息子の話しを聞いて、青くなっている。
お加奈は一旦お店に帰り、甚平をみそのの家に走らせ、自分はまた善兵衛のお店に引き返していた。
お加奈は善兵衛のお店に引き返して来てから、善兵衛から未だみそのは現れていないと、聞かされていたので、気が気では無く、ジリジリしながら甚平を待っていた。なので一人で現れた甚平を見た時から、嫌な予感がしていたのだ。
「甚平、これは何かあったんだよ。急いで番屋へ行って、この事を知らせて来るんだよ!」
甚平もそのつもりだった様で、真剣な顔で頷いて素早く走り出した。
「あっ、待ちなさい、甚平。待ちなさいっ」
慌てて息子を呼び止めたお加奈は、番屋に知らせたら、すぐに永岡に知らせる様にと付け足したのだ。
永岡は澁澤屋敷を見張る傍、茶会に集まる輩の探索もしていたので、手下との打ち合わせをしに、良く善兵衛の店の前を通っていた。その折に善兵衛が握り飯の試食を勧めると、永岡はこれは丁度良いと気に入り、他言無用と釘を刺された上で、北忠の実家である畠山屋敷に詰める仲間に、差し入れを頼んだ事が有った。しかし、他言無用も、そこは身内という事で、お加奈がお店に着いて早々に、善兵衛が自慢気に話していたので、お加奈は永岡の居場所を知っていたのだ。
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「な、永岡さん。た、大変ですぅ」
漸く腹の調子も治まった北忠は、来客だと家の奉公人に知らされ、何用かと訝しみながらも、客に会いに行っていたのだが、程なく甚平を連れ、慌てて駆け戻って来たのだ。
「な、何ぃ。みそのが行方知れずになったってぇのかぇっ」
甚平の話しを聞いて、永岡は思わず大きな声をあげていた。
それは先程見た、猪牙舟の荷の事が頭をよぎったからに他ならない。
「で、みそのが四つくれぇには家を出て、善兵衛の店に、九つになっても現れなかったんだな」
甚平が大きく頷く。
永岡は、みそのが朝四つに出て、昼九つ(正午)になっても姿を見せない事に、最初の嫌な予感を確かな物にしたようだ。
「あっしも、それを聞いておかしいと思いやして、慌てておっ母さんの所へ、引き返してきたんでさぁ」
少し興奮しているのか、甚平は遊び人時代に戻った様な口調で荒々しく答えた。
「智蔵っ」
「へいっ」
永岡と智蔵は目を合わせると、すでに同じ思いの様に頷き合った。




