第二話 イケメンくんの決意
「で、誰?」
笑いすぎて目尻の涙を小指で拭っていたみそのは、急に不安を覚えて男から一歩後退る。
「いやいやいやいや」
男は両手を突き出して左右に振りながらみそのに近づいて来る。
「あっしは怪しいかも知れやせんが、決して怪しいもんではござんせん……。お察しの通り、ちょいとばかし訳ありでやして、ちょいとね、ここを」
男は自分が先ほどまで潜んでいた戸口の隅を指差して言い募る。
そして暗がりから出て来た事によって男の顔に光が当たり、漸くみそのにも男の顔が見えて来た。
「あら……」
男の顔が思いのほか整っていたので、思わず声を出してしまうみその。
「なもんで、本当あんたさんには申し訳ねえというか、助かったというか」
男は話しながらみそのに近寄ってくる。
江戸時代の屋内は昼間でも薄暗い。更に近づいて来たおかげで男の顔がはっきりと見えて来た。
そしてその男の顔が現代ならばアイドルや役者にでもなれそうな男前だと気付き、みそのは更に後退ってしまう。
「ま、まぁ私は……」
みそのが応えようとした瞬間、みそのは上がり框に足を引っ掛け大股開きで後ろに倒れてしまった。
「で、で、大丈夫でやすかいっ!?」
みそのは男が駆けつけて来た気配を覚え、大股開きではだけた着物の裾をなんとか合わせたが、恥ずかしさのあまり思わず気絶したふりをしてしまう。
恥ずかしくて時間の感覚がなくなっていたのか、本当に長い時間が経ってしまったのか分からないが、男は側で黙って見つめている気配だ。
みそのがとても長く感じた芝居を終えてゆっくりと目を開けると、みそのを覗き込む様に見ていた男がほっとした顔で微笑んだ。
「なんだか恥ずかしいところを見られてしまって……」
みそのは豪快に転んだ自分を思い返し、恥ずかしさで顔を赤らめながらも何とか言葉を発した。
「本当に大丈夫なんでやすかい?」
男は座り直して正座をすると、みそのを覗き込む様にして心配そうに聞いて来る。
「えぇ……」
みそのは芝居なので、とも言えずに畏まって応えると、男から以外な言葉が飛び出した。
「あ、あの、あんたさんは許嫁だったり、あ、いや、も、もういい人がいるんでやすかい?」
「ひへ?」
みそのはポカンとした顔で何と言ったか聞き取れない裏返った音を出す。
「わ、私は………一人です……」
少し間を開けながら答えるみその。言ってみてバツの悪い思いがしたのか、顔を引きつらせている。
「そ、そうですかい……うん、そしたらあっしが責任取るしかねぇ!」
男は意を決した様にみそのを見つめ直し、
「あっしは両国で丸甚ってぇ古着屋を営んでおりやす甚平と申しやす。まだ親父が健在で跡は継いじゃあいやせんが、これを機に心を入れ替え、あっちの方はきっぱり辞めて立派に跡を継いでみせやす」
手でサイコロを振る格好をしながら言う甚平。
そして、キリリとみそのに目を向けると、
「なもんで、あっしの嫁に来てやってくだせぇ!」
と、いきなり求婚の言葉が飛び出した。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよっ……」
驚いたみそのは頭が上手く働かず、それ以上言葉を紡げずにいると、甚平と名乗る男が、
「見ちまったんでごぜぇやすよ」
と、もう観念したと言った様子で話し出した。
「さっきあんたさんが転んだ時の事でさぁ。その時にこのあっしの両の目が、あんたさんの大事なところを見てしまったんでやす。そう言う事なんでやすよ?」
甚平は更に思い詰めた様に続ける。
「あっしは、あんたさんの事は初めて会ったばかりでなんも知らねぇ。器量好しのあんたさんを、こんな形で傷ものにしちまったのも、全てあっしのせいでごぜぇやす。それにあっしはね、女の大事なところは嫁のしか見ねぇと決めてるんでさぁ」
甚平の鼻息が見える様だ。
「あんたさんもそうでござんしょう?」
甚平は同意を求める様に真っ直ぐみそのを見て、今度は優し気に声音を落として言う。
「こんなあっしが器量好しのあんたさんを嫁にするのは、どう考ぇてもあっしばかりが得する様で算盤が合わねぇ。合わねぇとは承知の上でも、これも何かの縁ってこってぇ。あんたさんもそう思ってーー」
甚平は声音に力を込めて言うと、間をおいて決意の顔を向けて来る。
「この通りだ、あっしの嫁になっておくんなせぇ!!」
床に頭を擦り付ける程の土下座で、甚平はみそのに懇願した。
「………」
『なんでこうなるのよ〜』と、みそのは心の内で叫ぶ。
みそのは漸く頭が働き出して来たものの、見ず知らずの男からのいきなりの求婚で、またまた整理がつかなくなる。
そして冷静に考えようと、目を瞑りながら「ふぅー」っと息を吐き出して心を落ち着かせる。そうして一呼吸おいたみそのは、ゆっくり目を開けると話し出した。
「甚平さん、でしたよね?」
「へ、へぃ」
「私はみそのと申します。甚平さんが見てしまったと言う……」
「みそのさんって言うんだな。うん、いい名前だぁ。うんうん……」
甚平はみそのの名前が相当気に入ったのか、みそのの話しも聞かず一人悦に入りぼそぼそと何か言っている。
「甚平さん!」
みそのの少し苛立ちまじりの大声で、甚平は夢から覚めた様にこちらを向いた。
「甚平さんが見てしまった物ですが、女性の大事なところと言うのは分かります」
甚平はゴクリとまた喉を鳴らして、ゆっくりと頷いた。
「それは分かりますが、見ただけで傷物云々は大袈裟です」
甚平が驚きの表情で自分を見ているのも構わず、みそのは続ける。
「それに下着も着けていましたし、恥ずかしい思いはしましたけどお嫁に行く程の事でもありません」
「いや、あっしの事が信用ならないのは合点がいきやすが、あっしは下帯なんかじゃなく、その、なんて言いやしょうか、な、中身をねぇ。えへ、本当に見てしまったんでやすよ?」
これだけは信じてくれと言わんばかりに、甚平はしどろもどろになりながらも必至の形相で訴えた。
「……だって黒かったんでやすょ」
甚平が今度は恥ずかしそうに少し顔を赤らめながら小声で言う。
「着けるのを忘れたんでしょう……うん、そうに違ぇ無ぇ。こいつぁ正しく縁に違ぇねぇ。この通りっ」
甚平はまたも深々と床を舐めた。
みそのは甚平が土下座しているうちに慌てて着物の中を確かめる。
そして『あ〜、この人きっと黒いパンティ見て感違いしたんだわっ』と、やっと謎が解けた心持ちになった。
この時代の下帯は大抵白と決まっている。時に赤などもあるが、黒はまず無いだろう。それに女は着けていないのが殆どだったりもする。
みそのもそれは弁えていて、江戸に来た時は下着を着けない様にしようとしていた。
しかし、ブラジャーは無しでも平気だったが、どうも下はスースーするし、なかなか慣れないでいて、どうせ見えないのだからとパンティだけは履いていた。
「こんな事になるんだったら、せめて白にしとくんだった…」
思わず口に出して慌てて手で口を覆うと、「へ?」っと甚平が素っ頓狂な声を出す。
「白じゃありやせん、黒でやしたょ」
信じてくれと言った必死な顔を向ける甚平。
「まあ、もうお見せしませんが今日の私は黒の下着を着けているんですっ!」
もういい加減にしてくれと言わんばかりに、みそのは強い口調で言って甚平を睨む。
「なのでお嫁になんか行きませんし、もうこの事は忘れてください!」
「…………」
甚平は何か言おうとして引っ込める。
「それにしても甚平さんはお幾つなんですか? 私を歳だと思ってからかっているのですか?」
みそのは開き直れたせいか、甚平を少し苛めてやろうと言う気になり、怒り口調で問い詰める。
「いやいや、そんな滅相もねぇ。あっしは今年で二十一になりやす。みそのさんは若くはねぇが、一つや二つの歳の差なんて、あっしは気にしやせん。みそのさんが良けりゃ本気で嫁に来て欲しいって……」
甚平はここまで言って目に潤ませたのを見せまいと下を向いた。
みそのは『私は今年で37歳だっつーの。一回り以上違うんですけどっ』と思いはしたが満更でもない。いや、むしろドキドキして来る。
この時代だとそうでも無い様だが、現代に甚平を連れて行ったら、きっと誰もが羨む年下の彼だ。みそのは一瞬想像してみたが絶対にあり得ない。
「ごめんなさいね、私も意地悪を言うつもりじゃなかったのよ」
みそのは心の内で舌を出したが、それを悟られまいと甚平に少し優しく語りかける。
「でもね、本当に私は黒の下着を着けているし、甚平さんは良い人なのかも知れないけど、だからと言ってすぐにお嫁さんに行くのはちょっと違うと思うの。それに、何より肝心のところが感違いだったんだしね?」
最後にみそのが笑いながら強調して言うと、甚平も落ち着いて来たのか少し平常に戻った表情になって聞いている。
「とにかく、これも縁と言う事でしたらお友達になりましょう?」
みそのが言うと、床に視線をやって考えていた甚平が「決めたっ」と独り言の様に小さく言ってみそのを見る。
そして、少しばかり改まった口調になって話し出した。
「わかりました。でも先ほど言った言葉は本当です。これからは立派に親父の店を継げる様に励みます。そして、そしたらまた……いや、みそのさんとの縁を大事に励みます!」
甚平は言い終わると決意を固めた様な希望に満ちた笑顔をみそのに向けた。
『おいおいおいおい、なんだこの展開は〜』っと内心思いながらも、最後の甚平の笑顔が映画のワンシーンの様で、自分もその映画のヒロイン気分になっているのに気付き、はっとする。
「では…励んでくださいね。私も両国へ行く事がありましたら、寄らせていただきますよ」
みそのは、なんとか澄ました顔を装って言うのだった。
*
「あ〜何これ、急展開すぎるんですけど〜」
甚平がまた会うことを約束して帰った後、一人になったみそのは安心して声に出して呟いた。
「でも性格も案外良さそうだし、おまけにかなりのイケメンだし、お友達ならいいよね……?」
これもあえて口に出す事によって、罪悪感なのか背徳感なのか良く分からない感情を軽い物へと転換させた。
「.なんか江戸っていいなぁ」
みそのは思った事を口にすると、東京の街が何処か遠くの小さい街に思えて来る自分に可笑しくなり、クスッと笑ってしまう。そして、段梯子を登り、屋根裏の小部屋に向かった。
屋根裏は二畳かそこいらの物置き的な広さで、隅に戸棚が置かれている。
みそのはおもむろに戸棚を開けると、その戸棚の中へと消えて行った。