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第十六話 江戸を歩けば破落戸に



 屋根裏部屋の暗闇では、衣摺れの音と甘い息使いだけが呼応する様に聞こえる。

 希美は江戸から戻るも、楽しみのビールへは中々辿り着けなかった。



 プシュ


 着替え終わった希美は、やっとビールを開けてグラスに注いだ。

 その白い泡を暫く眺める。


「本当どうしちゃったのかしら私…」


 希美はこんな事など、今までには無かった事に戸惑いながらも、そんな自分が少しだけ心地よく、それがかえって後ろめたさにも繋がっている。


「ふぅ」っと溜息を吐いて、気を取り直す様にビールを飲んだ。


「あぁ〜、でもこの子は偉いわ〜。どんな時でも私の美味しい味方ねっ」


 無理やり自分を盛り上げ、希美は事件の事を考える様にする。


『全部が嘘だと流石に無理が来るし、あの言い方でとりあえずは良かったのよねぇ』


 希美は永岡に心配させない為にも、そして大目玉を食らわない為にも、一人で歩き回って調べていた事を隠す為、少し話しを着色して伝えていた。


「小目玉くらいはいただいておかないとね。ふふっ、でも、お菊さん達に確かめられたら、すぐばれちゃうけど…。ま、その時はその時だなっ」


 希美は、その時の永岡反応を想像して、首を竦めている。


「永岡っちは、抜け荷が絡んだ事件って言ってたけど、要は何かを外国から輸入してるって事よねぇ」


「あの時代は、主に何が密輸されてたんだろう?」


 希美はスマホで『江戸時代 抜け荷』と検索してみた。


「ヘぇ〜、密輸もこの時代だと大変なのねぇ〜。みんな死ぬ覚悟なんじゃん!」


 敢えて処刑せずに、密偵として使ったりもしたようだが、この時代の密貿易は、捕まったら皆が死罪の大罪だった。


「だいたいは美術品や、調度品に朝鮮人参とかの高級薬材かぁ〜。それにお酒なんかなのね。阿片もお薬として使用されていたので、これもある意味高級薬材なのかぁ」


「って言うか私、江戸時代のどの辺りに行ってるんだろう…ふふっ」


 今更ながら希美は自分の手薄さと言うか、無関心さに可笑しくなった。

 意外に重大な関心ごとではあるのだが、希美にとっては小さな事だったらしい。

 希美も後に知るのだが、今、希美が往き来している江戸の町は、享保六年、徳川幕府は第八代将軍の徳川とくがわ吉宗よしむねが、治世を治めている時代である。


「ま、いっか、江戸は江戸なんだし。その内わかるだろうしねっ」


「でも、私も気をつけなきゃなぁ。うっかり何かを持ってちゃって、それが人に見つかったら…。うわっ、怖っ」


 二杯目のビールを注ぎながら、囚われの身となった自分を想像して、希美はぶるっと身体を震わせた。


「いやいやいやいや、気をつけないと…」


「しかし、いくら命懸けで密輸してるからって、若い娘を誘拐して、売りさばくなんて許せないわっ。早く永岡っちに、捕まえてもらわなくっちゃね〜」


「私は何をすればいいんだろぅねぇ」


 希美は色々と考えながら、スマホ片手にビールに口をつける。


「そうだ。地図を見ながらの方が、良い考えが浮かぶかしら」


 そう思い立ち、みそのは隣の部屋にでも行く様な気軽さで、江戸の町へと江戸の絵図を取りに行くのだった。



 *



「永岡さ〜ん。ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ〜」


 北忠きたちゅうこと北山忠吾きたやまちゅうごは、ヨタヨタ歩きながら情けない声を上げている。


「ちっ」


 先ほどから永岡は、何回舌打ちをした事か分からない。


「おめぇいい加減にしやがれぃ。町廻りってぇのは、歩くのが仕事ってぇ相場は決まってんでぃ。おめぇは、親父さんに言われて来なかったのかぇっ!」


 永岡は堪らずにどやしつけてしまう。


 町奉行所の同心は一代限りと決まっている。だがそれは形だけの建前で、代々新たに登用される形で、ほぼ世襲制と言って良い。なので同心の子供は、同心になる事が約束されているので、子供の頃から嫡男ともなれば、父親から同心の心得なる物を叩き込まれるのだが、北忠こと北山忠吾はそうでも無かったらしい。


「私は養子なのですから、しょうがないじゃありませんかぇ。本当だったら旗本の三男坊として、悠々自適に書を楽しみながら、暮らせて行けたのですからねぇ。永岡さんも、少しは私の身にもなってくださいよぉ。だ、だから、もう少し脚を緩やかに、ね? 緩やかぁに、お願いしますよぉ〜」


 北忠の実家と言うのは、千五百石の大身旗本の畠山家で、北忠はこの畠山家の三男として産まれていた。

 本来、大身旗本とは言え、三男坊ともなれば俗に言う部屋住みで、養子先が決まらなければ、一生兄夫婦のお荷物として、肩身を狭くして暮らさなければならない。そんなお家の厄介者として扱われる為、大抵は躍起やっきになって養子先を探すものだが、北忠は奇特な男で、一生部屋住みのお荷物として、暮らして行く事を望んでいたようだ。むしろ、大好きな書をして遊んで暮らせるのだから、これ以上無い幸せだとも思っていた節がある。

 それでもやはり、そこは千五百石の大身旗本としての格式がある為、随分と養子先からの縁談話しが持ち込まれた様だが、それをことごとく断りを入れ、悠々自適に暮らしていた。

 それは北忠の母親が北忠に甘く、北忠が何かを言えばなんでも聞き入れ、養子の縁談話しさえも北忠が嫌だと言えば、母親はことごとく断って来たのだ。しかし、いよいよ見かねた父親は、それを許さず、勝手に養子先を決めて来て、有無を言わさず家を出したのだ。


「それも何遍も聞いて耳にタコだぜぇ。おめぇの、義理の親父から聞いてるだろってぇんだよ。ったくよぅ」


 永岡は腹立たし気に立ち止まって言った。


「ま、永岡の旦那、北山の旦那が言うのも最もでやすよ。旦那の脚ゃ滅法早ぇんでやすぜぃ。未だ見習い期間じゃありやせんかぇ? 北山の旦那にゃ、徐々に慣れて貰いやしょう」


 隣で苦笑していた智蔵が、助け船を出してやった所に、やっと北忠が追いついて来た。


「流石は親分、分かってますねぇ〜。私もやっと町廻りと聞きまして、やってやろうと浮き立つ思いで、随分と意気込んでいたんですがねぇ。しかししかし。まさか、こんなにも歩き回されるとは思いもよらず、木戸様に言って、例繰方かなんかに配置替えをお願いしようかなんて、本気で思ってしまったくらいですからねぇ。そもそも私は、書類関係の仕事が合っていると思うのですよぅ」


 にこにこ眠っている様に語る北忠に、流石に智蔵は苦笑いを返すしか出来ない。


「おきゃあがれってぇんでぇ! ったく、ぬかしてんじゃねぇやぃ。行くぜぃ」


 もう面倒で怒る気にもなれない永岡は、さっさと歩き出す。智蔵もそれに続いて歩いて行く。


「ちょ、ちょっと、まだ休んだばっかりじゃありませんかぁ〜。ほ、ほら、永岡さん、お昼。そろそろ昼餉にしましょうよぉ〜」


 北忠は情けない声で懇願しながら、またヨタヨタと永岡達を追うのだった。



 *



「この辺もやっぱり似た感じの雰囲気ねぇ…」


 そう独り言ちたみそのは、今日は少し遠出をしていて、浅草からほど近い安倍川町までやって来ていた。


「まぁ、川があって、みんな木造建築なんだから当たり前かっ」


 町家か武家屋敷かは、見ればすぐにわかる程の違いはあるのだが、町家は町家、武家屋敷は武家屋敷で、それぞれの中での違いは然程無い。町並み街の違いと言えば、町家と武家屋敷の割合の違いくらいで、江戸初心者のみそのには何処も同じ様に見えるのが、江戸の建物の現状かも知れない。

 武家屋敷に至っては表札すら無いので、尚更みそのにはどれも同じに見えるのだった。

 川辺を歩くみそのは、何気なく町の様子を見ながら、器量の良い娘がいないか目を配る。

 しかし、あまり町には娘の姿を見かけない。基本どの町もそうだが、娘の一人歩きはそうそう見ない。


「やっぱりこの感じは似てるわねぇ」


 みそのはまた同じ様な独り言を言い、キョロキョロと町の様子を見ながら歩いている。

 そして、それがよそ見をしている形になり、前から来た人にぶつかってしまった。


「す、すみませんっ」


 急いでみそのは頭を下げて謝ったのだが、なにやら様相がおかしいことに、頭を下げながら気づいた。

 何やら酒臭いのである。

 恐る恐る頭を上げると案の定、昼間からほろ酔い気分の、図体の大きい浪人風の破落戸ごろつきが、ニヤニヤとみそのを見下ろしていた。

 少し後退りして、みそのはもう一度謝った。

 その大柄な破落戸は、相変わらずニヤニヤしている。そこへ人足風の破落戸仲間が、二人後ろから出て来てみそのに絡んで来た。


「やいやいやいやい、謝ったらそれで終わりだってぇのけぇ」


「そうだそうだ。そんなこたぁ、お天道様が許さねぇぜい。まぁ俺たちがいくら寛大かんでぇでも、そいつぁ道理が合わねぇってもんよぉ」


 ヘラヘラしながら、酒臭い息で顔を近づけて来る。


「なぁ、そうでやしょ、兄貴?」


 人足風の破落戸が、最近にぶつかってしまった大柄な男に、ヘラヘラ同意を求める様に振り返る。


「そうだなぁ、無礼打ちに叩き斬ってもいいんだがな? それじゃあ、ケツの穴ぁ小いせぇみてぇで、なんとも締まらねぇしなぁ」


 相変わらず破落戸共は、ニヤニヤしながらいやらしい目を向けて来る。


「まぁ、袖触れ合うのも何とかってぇ言うじゃねぇか。それもぶつかって来やがったんだから、相当な縁よぅ。ちょっくら戻って、酒でも付き合ってもらうとするか? そうやって、親交を深めるのも良いかもなぁ」


 浪人風の破落戸が人足風の破落戸仲間に、今来た道を目顔で指してニヤニヤしている。


「お、兄貴は寛大かんでぇだぁ」


「おめぇ、兄貴もあぁ言ってくだすってんだ。謝りてぇならついて来ねぇ」


 騒ぎに気づいたらしい町の人たちも、遠目で気の毒そうな顔で見るだけで、皆助けようとはせず、関わらない様にと、そそくさと遠去かって行く者ばかりだ。

 みそのはじりじりと後退りしていたのだが、小柄な人足風の破落戸に手を掴まれ、力任せに引っ張られた。


「い、痛い、止めてくださいっ!」


 痛がりながらも必死で抵抗したが、普段は力仕事をしているのだろうその男は、小柄な割に物凄く力が強く、みそのは抵抗しようもなかった。


「い、痛いです。や、止めてくださいっ」


 手が引き千切られそうな勢いで、みそのは引き摺られるように連れられて行く。


「本当に止めてくださ…」


 と、みそのが叫び声をあげかけた時、急に手の痛みが消えて解放された。

 誰かが一瞬で、みそのの手を掴んでいた破落戸の手を捻り上げ、同時にもう一人の破落戸を蹴り飛ばしていたのだ。

 みそのが気づいた時には、既に二人の破落戸は地面に転がされていた。

 見れば転がる破落戸の横には、こざっぱりとした浪人風の男が立っている。

 この浪人風の男が助けに入ってくれたのだ。

 それにしても、何があったか分らない様な早技だ。しかも、最初にぶつかってしまった大柄な浪人風よりも、更に大柄な逞しい身体をしている。

 兄貴と呼ばれた浪人風の破落戸も、最初は怯んだ様だが、


手前てめぇ何様でぇ! 自分が何やってんのか分かってんだろうなぁ!」


 と、子分の手前か刀を抜く仕草で凄んで見せた。そしてジリジリと近づきながら、今にも刀を抜きそうな気を出して迫ってくる。


「お、元気がいいねぇ?」


 捻り上げていた破落戸を、更に力を込めて捻り上げ、道に捨てる様に投げ飛ばすと、その男は涼しい顔で対峙した。


「おめぇらは、なんか勘違いしてねぇか? ワシはただ、娘さんに破落戸が絡んでるのを見たんで、助けに入っただけさぁ。これでも自分のやってるこたぁ、分かってるつもりだがなぁ。おめぇらの方が、よっぽど分かってねぇんじゃねえかい? 自分の状況すりゃ分かってねぇとは、気の毒な話しよなぁ」


 のんびりとした口調で両手を広げて言うと、地面でもがいている破落戸二人を、爽やかに笑いながら見やった。

 それを隙だと見て取った浪人風の破落戸は、一気に刀を抜き払って斬りかかった。思った以上の早さだ。白刃が男の額に迫る。


「きゃー」


 みそのは思わず斬られたと思い、目をつぶって叫んでいた。

 そして次の瞬間、「ドンッ」と鈍く重い音がしたかと思うと、「ドサッ」っと人が倒れる様な音とともに呻き声が聞こえた。

 みそのは咄嗟に目を開くと、地面には大柄の破落戸が倒れ、苦しそうに呻いていた。

 その傍らには、こざっぱりとした浪人風の男が立っていて、どうやって奪ったか分からないが、手には相手の刀をぶら下げ、困った様にみそのを見ていた。


「あ、危ない所をありがとうございました」


 みそのは急いで頭を下げてお礼を言う。

 こざっぱりとした浪人風の男は、みそのに手をひらひらとさせて見せ、つかつかと遠目で見ていた野次馬に近づくと、その中から知り合い風の男を手招きして奪った刀を渡し、自身番へ走る様に言う。そして、自分は何事も無かった様に歩いて行ってしまった。

 呆然としているみそのは、名前も聞けなかった事にも気づいて無かったが、「流石、しんさん!」「よ、日本一っ」との声が、野次馬からいくつもかかっているのを耳にすると、


『新さんって言うのねぇ。それにしても、江戸にはあんな強い人がいるものなのねぇ』


 と、呆然としながらも感心するのだった。



 *



「むふぅ〜、美味いですねぇ〜。この天婦羅、サクサクした所なんか、もう最高ですよぉ〜」


 さっきまで泣き言ばかり言っていた北忠きたちゅうが、眠りながら食べてるんじゃないかと見紛う様な顔で、ニコニコと天婦羅を頬張りながら唸っている。

 先ほどは、おのりが拐かしに遭った神社へ行き、その周辺を聞き込みしている智蔵の手下から、様子を聞いて来たところだった。

 何人かの話しでは、お目当ての男を見たとの事だったが、『怪しそうには見えないが、最近良く見る見知らぬ男』と、特徴が有るのか無いのか判らぬ男を捜しているだけに、特定は難しく、未だそれらしい男は見つかっていないとの事だった。

 そんな報告を聞いてから、少し打ち合わせをしての帰り道で、いよいよ北忠が腹が減ったと煩く、今にも泣き出しそうな顔にうんざりした永岡は、先日の蕎麦屋で天婦羅蕎麦を頼んでやったのだ。


「でも、この汁に浸して、たっぷりと蕎麦の出し汁を吸った、このしんなりのも堪りませんねぇ〜。くぅ〜っ、町廻りも捨てたもんじゃあ無いのですねぇ〜」


 北忠の人が変わった様な、しゃべりっぷりと食べっぷりを、酒を舐めながら眺めていた永岡は、


「ちっ」


 っと、今日何度目かわからなくなった舌打ちをした。


「永岡さん、食べないなら私いただいときますね」


 と言って、こんな時だけは永岡も驚く様な箸さばきで、さっと天婦羅を口に放り込む。


「あっ、手前てめぇっ…」


 永岡は言いかけるも、怒るのも馬鹿馬鹿しくなり、この先を思いやって流石に頭を抱えてしまう。

 北忠はそんな永岡を尻目に、もりもりと美味そうに天婦羅を食べていた。



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