第十一話 江戸の残り香
トントン、トントン
「みそのさん、甚平です、みそのさん」
「あんた、また来てんのかぇ。みそのちゃんは最近見ないねぇ」
「何処へ行っちまったのやらねぇ。お菊さんは本当に何も聞いちゃいないのかい?」
「それにしてもちゃんと食べてるのかねぇ」
ここのところ甚平は、みそのから借りていた二両の借金を返しに、毎日みそのを訪ねて来ていた。しかし、みそのはここ八日ばかり、お菊達、裏店のおかみさん連中にも知らされずに、行方知れずになっている。
「永岡の旦那も知らないみたいだったしねぇ」
お若が心配そうな顔をする。
「そうそう、それにしても永岡の旦那は本当いい男だねぇ。一度でいいから私も可愛がって欲しいもんだよぅ」
「何言ってんだい。あんたなんか誰が相手にするもんかい。そんな物好きはあんたの亭主くらいのもんさぁ」
「あっはははは〜」
お静にお菊が応えて大笑いしている。
「そんなんだったら、永岡の旦那は私が可愛がってやるってぇのさ〜」
なんだか話しが下世話な方向へ向かいそうなので、甚平はそっと逃げ出そうとゆっくりと後退り、恐々とその場を後にした。
「あんたも今度、永岡の旦那の代わりに可愛がってあげるよ〜」
「あ〜っははははは〜」
甚平の背中に浴びせて、お菊達は賑やかに笑い合っている。
「そしてさぁ、こうやって…」
「あれぇ、そんな事まで…」
「へぇ〜、あんたいつもそんな…」
お菊達は声を落として、益々下世話な話しに乗り出した様子だ。
「ふぅ〜、食われちまうかと思ったわ…」
お菊達が追いかけて来ないのは分かってはいたが、思わず全速力で走って逃げて来た甚平は、膝に手をやり、体をぶるっと震わせた。
「それにしても、みそのさんは何処へ行っちまったんだろうなぁ」
甚平がそう独り言ちながら歩いていると、
「おぅ、甚平じゃねぇか。こんな所で珍しいじゃねぇかぇ」
「あっ、永岡の旦那」
黒羽織りに尻っぱしょりの、南町奉行所、町方同心である永岡が声をかけて来て、甚平は慌てて頭を下げた。
「へぃ、ちょいとみそのさんの所に用事がありやして」
「で、あの姐さんは居たのかい?」
甚平は首を振り、永岡にみそのが何処へ行ったか、本当に知らないのか問い質す。
「オイラはあいつの母親じゃねぇんだから、知らねぇやな。そのうち帰って来んだろうょ。まぁ、あいつを見かけたら、お前が会いたがってたって伝えてやるぜっ」
甚平は慌てて手を振り、
「いやいやいや、そんな、会いてぇとかじゃねぇんでやす。用事がその…」
永岡はニヤっと笑う。
「まぁいいやな。とにかく伝えといてやっからよぉ。それにしても、あいつぁ一体、何処ぇ行ってやがんのやらなぁ」
永岡が遠くの空を見ながら言ったのが、甚平には寂し気に見えた。
*
「どうしようかしらねぇ」
社食で天ぷら蕎麦とおいなりさんを食べながら、希美は先ほどからブツブツ言い、時折溜息をついている。
ここのところ希美は江戸には行っていない。お園さんから受け継いだあの家にも、二日に一度は風を入れに掃除をしに行くが、夜は自分のマンションへ帰っている。
『あまり考え過ぎなくてもいいのかなぁ…』
実は希美、夫への想いの隙間に、江戸の永岡が顔を覗かせている。
自分では無いと思っていたはずだが、最近多くの時間、永岡の事を考えている事に気づき、それが想いに変わり、恋に発展してしまわないかと、自分の事ながら心配しているのだ。
希美は今、自分の中で色々な思いを整理している。それもあって、ここ一週間程は江戸へは行っていない。しかし、行っていない事で、また変に永岡への想いが募るようで、なんとも訳がわからなくなっても来ている。
『変に考え過ぎるから、余計な心配しちゃうのかなぁ。とにかくそれを確かめる為にも、明日にでも行ってみようかしら』
希美はそう心で思いながら、のび気味になってしまった蕎麦を急いで啜ると、仕事に戻って行った。
*
「おぅ、今日は居たのかい?」
抵抗なく戸が開いた為、意表を突かれた様な顔で永岡が入って来た。
「あら、永岡の旦那」
みそのは、その声を聞いて出て行くと、惚けて何も無かったかの様に振る舞う。
「あら、じゃねぇだろ、あらじゃ。それよか、お前は一体、何処ぇ行ってやがったんでぃ」
永岡は意外に心配していてくれていたのかもと、みそのは少し嬉しくなったが、落ち着いた調子で顔には出さない。
「何か事件でもあったのですか?」
それには応えず、いつもの様にお茶の準備にかかった。
永岡も調子が狂った様で、少し落ち着かせる様に座ると、
「また薬でも貰いに行ってたなんて、下手な嘘ぁつくんじゃねぇだろなぁ?」
先ほどとは声を落ち着かせて言って来る。
「それに、ほら、あの甚右衛門とこの甚平も、毎日の様にお前に会いに来てたぜぇ。お前も罪な女だなぁ。あいつ、相当お前に惚れてるみてぇだぜぇ」
みそのは漸く入ったお茶を差し出すと、
「旦那ぁ、私がお薬をもらいに行ってたのなんか、なんでわかったんですか?」
みそのはわざと悪戯っぽく永岡を見た。
「てぇめぇ…」
「甚平さんは何しにいらしたのですかねぇ? 後で行ってみようかしら」
永岡が何か言おうとした所に、被せる様に楽し気に言って、みそのは嬉しそうにして見せる。
「ま、薬の話しゃどうでもいいや。そう言やオイラぁ、甚平に請けあったんだったわ。早ぇとこ行ってやれよ」
永岡は不味そうにお茶を啜る。
「あら旦那、お茶の味があいませんでしたか?」
「美味ぇに決まっていらぁな。いつもと変わらねぇぜ」
小さな声で応えた永岡を見て、みそのは何か思いついた様に立ち上がると、黙って奥の部屋へ入って行く。
「何でぇ、あいつ」
永岡は急に座を立ってしまったみそのを見送り、茶を啜った。
奥から戻って来たみそのは、思い詰めた目で永岡の前に座ると、おもむろに永岡の首筋を撫でた。
「………」
永岡はみそのの異様な物腰に押されて、ゴクリと唾を飲み込み言葉が出なかった。
「旦那、これはどうかしら?」
そう言ってみそのは永岡の目を見ると、顔を更に近づけて行く。
永岡はどぎまぎとしていたが突然、
「ぐわぁー、い、痛ぇ〜、な、な、何でぇ〜、ゔゔうぅ」
最後は何て言ったか分からない音を吐いて、狂った様に永岡が転げまわる。
みそのは思いの外良い反応を見せた永岡を見ると、流石に堪えていた笑いも堪りかねて、ゲラゲラと笑ってしまう。
「お、お前何しやがったんでぃ!」
永岡は漸く落ち着いて来て、顔を歪めながら、みそのを恐ろしい物を見る様に見てくる。
「だって旦那ぁ、信じちゃいなかったみたいですから、南蛮渡りの薬をお裾分けしてあげたんですけど、ふふ、思いの外効いちゃったみたいですねぇ?」
みそのは目尻に涙を溜めながら言い訳した。
みそのは、以前腰を痛めた時の打身薬を、永岡に良く効きそうだと言われていたので、お裾分けする為に、もっと強力な打身薬を薬局で購入して用意していた。
そしてみそのは、先程それを思い出して、取りに行っていたのだった。しかもその打身薬は、怪しまれない様に蛤の貝殻に、軟膏を移し変えての用意周到さだ。
それを今し方指に取って、永岡の首筋に擦り付けたのだが、永岡は日々の町廻りで汗疹になっていた所へ、更に町廻りで着物の襟が擦れ、少し傷になっていたらしい。
まだ沁みるのだろう、永岡は首を片方に竦めながら、怒った様にみそのを睨む。
「お、お前、効いちゃったじゃねぇだろぅよっ。殺されるかと思ったぜぃ」
永岡がずんずんみそのに詰め寄って来る。
みそのは、「ごめんなさい」とばかりに小さくなっていると、
「ゔぁっ」
と、声を上げながら永岡が襲いかかって来た。と言うより動転していて、上り框の段差に躓いたのだ。
はっと気づくと、みそのの上に永岡の大きな身体が覆い被さり、みそのは永岡の首筋へ顔を埋める形になっていた。
その時、戸がガラガラと開き、
「な、永岡の旦那ぁ?」
と、間の悪い事に、甚平がみそのの家に入って来た。
永岡は我に返り、さっと、みそのの身体から離れると、甚平の方を見てしどろもどろになる。
「ご、誤解しちゃぁいけねぇぞ。甚平、こ、これはだな…」
永岡が言い終わらぬ内に、永岡の下に居たみそのに気付いた甚平は、猛烈な勢いで永岡に飛びかかって来た。
「なっ、やめろって、こっ、こらっ」
永岡は流石に剣術の使い手なのか、さっと身を横に交わして、甚平を後ろ手に捻りあげた。
「い、痛てててててっ」
甚平が痛がるとすぐに放してやった永岡だが、甚平はまた直ぐに向かって行く。
「いい加減によさねぇかぃ」
永岡がまた難なく交わして、今度は甚平を後ろ手にして床に押し付けた。
永岡は甚平が落ち着いた頃合いを見ると、
「いいな、もう馬鹿な真似ぁしねぇな?」
甚平は痛みを堪えながら、小刻みに頭を縦に振っている。
「じゃあ放すからな。いいな?」
そう言って永岡が甚平の手を放してやると、甚平はさっと庇うようにみそのの前に立ち、永岡を睨みつけている。
「おいおい、誤解さぁね。お前完全に感違ぇしてるぜぇ?」
「町方だからと言って、言い逃れは許されませんよ旦那ぁ」
甚平は睨みつける。
「みそのさん、泣いているじゃぁありやせんかぃ。旦那が何かしようと思ってたんに違ぇねぇや!」
永岡は驚いてみそのを見ると、本当にみそのは泣いている。
「お、おいおいおいおい、お前、こっちが泣きてぇくれぇなのに、なんでお前が泣いてんでぇ」
永岡が困った様に言うと、
「甚平さん、ち、違うの」
と、やっとみそのが口を開いた。
みそのはまだ目を瞑ったまま泣いている。
「永岡の旦那はそこに躓いて転んだだけで、何も悪く無いの」
みそのが見えないながらも、躓いたらしい段差を指差して言うと、
「じ、じゃあ何でみそのさんは泣いてるんで?」
思いがけないみそのの言葉に訳がわからず、甚平はそう言うと、みそのを不思議そうに見る。
「私がいけないの。私が永岡の旦那の首に軟膏を塗ったもんだから、旦那はびっくりしちゃって……。そしたら旦那がそこで躓いて、私の上に倒れて来た時に、丁度旦那の首に塗った軟膏が、私の目に入っちゃったみたいで、痛くて涙が止まらないのよぅ…」
みそのはまだ目を瞑ったまま涙を流している。
「馬鹿な事ぁすっから、自分に返って来るんでぇ。ざまぁみろぃ」
永岡はカラカラ笑い出した。
「もぅ」
みそのは目を瞑ったまま涙を流し、眉間にしわを寄せる。それを見て更に永岡は面白がっている。
「ちょいと目を洗って来ますっ」
怒った様にみそのは立ち上がり、両手で探りながら、水瓶のところへとよろよろと歩いて行く。永岡はそんなみそのの姿を見て、また益々笑い声をあげた。
*
「…という訳だ」
笑いが治った永岡は、甚平を睨みつける。
みそのが目を洗って漸く落ち着いたところで、永岡は二人を並べて、最もらしく説教を始めていた。
「甚平、誤解をするのもしょうが無ぇから、今日のところは勘弁してやるが、あんまり早とちりしちまうと、オイラじゃなかったら、怪我するところだったんたぜぃ。これからは、ちゃんと人の話しを聞きやがれってぇんでぇ。な?」
甚平は小さくなって、神妙に頷いている。
「それに、お前だっ!」
永岡は、みそのがビクッとするほどの大きな声を出す。
「お前が一番いけねぇ。悪戯にも程があるってもんでぇ。オイラも死ぬほど驚ぇたわ痛ぇわだし、おまけに甚平がオイラに怒られるってぇ、とばっちりまで食わされてんだからなぁ」
永岡は怒った様に少し声を落として言うと、
「ま、最後は、お前が一番痛ぇ目にあったってぇ、オチがついてるんじゃあ、しょうがねぇがな?」
そう言って最後は先ほどの光景を思い出したのか、永岡はまたゲラゲラと笑った。
「はぁ〜、面白ぇ」
笑いが収まった永岡は少し真剣な声で、ジロリとみそのを見ると、
「もう絶対ぇ、あんな真似するんじゃねぇぞ」
と、釘をさすが、当のみそのは目を笑わせて永岡を見ている。永岡は、『こいつまたやるな』と、苦笑いをしそうになったが、更に念を押す様に、
「わかったなっ」
と、最後は睨みつける様にして話しを締めた。
*
プシュ
「あぁ〜、まいう〜」
希美が江戸から戻って、最初にする事がこれだ。
今日もビールを飲んで、一日の幸せを締めくくっているところだ。
「でも、さっきはドキドキしたなぁ〜」
「やっぱり永岡っちはいい男だねぇ〜。甚平っちもイケメンだけど、やっぱ永岡っちでしょ!」
希美は今日永岡にハプニングとはいえ、覆い被さられて、一瞬抱き竦められる形になった事を思い出していた。
少し汗臭い永岡の重みを思い出す。
「あぁ〜、永岡の旦那とはどうなっちゃうのかねぇ…」
希美は恥ずかしさと背徳感を、洗い流すかの様にビールを一気に飲むと、少し身体が火照って来ているのを感じた。
「本当にどうなっちゃうのかねぇ…」
永岡の男の体臭が蘇り、また希美の中が熱くなってくる。
「やだ、私…」
言葉とは裏腹に、希美の手はそっと下へと伸びて行った。
希美の甘い吐息が部屋に木霊している。




