第十話 お園さんの手紙
「希美、本当にこの家売りに出して引き払っちゃおうか?」
今日は久しぶりに夫が帰って来て、一緒に夕食を摂っていた。
「だってあれだろ? 俺が帰って来れない日は、ほとんど向こうの家に泊まってるんだろ? なんかそれじゃ、ここももったいないしさぁ」
確かに普段の希美は、お園さんから引き継いだ家に居るのがほとんどだ。
「まぁ、あなたが帰って来ないと、お店からも近いし、ついあっちに泊まっちゃうのよねぇ。でも、あのお家はここより少し手狭なのがねぇ…」
希美のマンションは、ファミリー用なだけあって100平米程ある。二人で住むにはかなりゆったり目だ。
実際一日の内に一度も入らない部屋や、物置きになっている部屋もあり、年に数回しか出入りしない部屋もあるくらいだ。
「ここの荷物をあっちに持って行くとなると大変だし、あの細い通路を運ぶのなんて、絶対無理な物もあるしねぇ」
「まぁ、そうだよなぁ。あの通路はあり得ないよなぁ」
夫は思い出して笑った。
お園さんから家を引き継いで程なく、夫とは連れだって、一緒に家を見に行っていた。その後、夫は二度程しかあの家には行ってはいないが、そこそこ気に入っているらしい。
「俺もその事が心配で、色々考えてはいたんだよね。例えばレンタルスペースなんかの倉庫とかに、普段使わなそうな物は預けちゃってさ。必要な物だけあの家に持って行って、必要な時期に入れ替えるとかさぁ。まぁ少し面倒くさいけどね」
夫は色々と考えていた様だが、希美は実は気が進まないのである。
「折角手に入れたマイホームなんだし、私とあなたの家はここなんだから、決めるのはもう少し考えてからにしましょうよ。それに、老後の為にあのお家を取っておくってのも、有りだと思うし素敵じゃない?」
希美は最初は夫と同意見で、どうせならこの家を引き払って、移り住んだ方が良いとの思いだったが、お園さんからの手紙を読んでから、その気持ちも変わっていったのだ。
「まぁ、それもそうだな。折角買ったんだし、家賃二重に払ってる訳じゃないんだから、慌てて売ったりすることもないよな。老後の楽しみに取っておくってのもいいなぁ」
夫はこういう所が素直で、希美は好きなのだ。
「じゃあ、そろそろ寝るかな。ーー希美はルービーだろ? 俺、明日早く出ないとだから、悪いけど先寝るわ」
希美と違って夫はあまりお酒が飲めない質で、ほんのビール一杯で、十分酔って寝てしまう。それでも希美が飲むところが好きな様で、晩酌には良く付き合ってくれるのだが、今日は流石に明日早い事もあるが、とにかく疲れているらしい。
「じゃあ、おやすみぃ」
希美が夫の背中に声をかけると、夫は手を挙げて欠伸をしながら、「おやすみ」と寝室へ入って行った。
「行ってらっしゃい」
希美は明日の朝に言えなそうな言葉を、小さな声で口にしてからキッチンへ向かった。
プシュ
「あんな事があったなんて知っちゃうとねぇ」
綺麗に立ったビールの泡を見ながら考える希美。
「ここで暮らすのが一番なのよねぇ」
夫を気遣った控え目な独り言と一緒に、綺麗な泡の乗ったビールを口にすると、希美はあの日の事を思い出した。
*
お園さんの最後を看取った後、しばらく呆然としていた希美は、懐のお園さんからの手紙を思い出し、封を開ける事への恐怖から解放された様に、躊躇う事無く封を開けると、静かに手紙を読み進めた。
お園さんが寝息を立てる事ももう無いので、希美の手にしたお園さんからの手紙の、その紙が擦れる音しか部屋には聞こえない。
希美ちゃん
私はあなたに出逢えて、楽しくて本当に充実した時間を過ごせましたよ。
でも本当はね、私は昔からずっとあなたを捜していたの。
それはね、小さな頃のあなたを偶然見かけた時からの事なのよ。
語り口調に書かれた、お園さんの綺麗な優しい文字を読み進めてすぐに、お園さんの思いもかけなかった告白に驚いてしまい、先程最後のお別れをしたお園さんを一瞥すると、希美はまたその先を読み進めた。
あなたには、私の夫は早くに亡くなって、夫との間には子供がいないと言いましたが、あれは少し違っていたのよ。
夫はね、私より先に、江戸への入り口のあの戸棚の秘密を知っていて、私の知らない内に、江戸の町へと遊びに行っていたのよ。
私はそんなことも知らずに、ある日あの部屋の存在を知って、良い物置きを見つけたと、張り切ってお掃除していましてね。その時にあの戸棚を開けちゃったのよ。
何故だか私、その時は吸い込まれる様に、戸棚の中へ入ってしまいましてね。それで初めて江戸の町へ行ってしまったの。
本当にそれはそれはびっくりしましたよ。
私は帰って、早く夫に知らせなくてはと思い立ちましてね。急いで戻ったまでは良かったのだけれど、その日から夫が行方不明になってしまったの。私はあの戸棚の事なんか忘れて、必死になって夫の事を探していたたのよ。
もう、あっという間の事でね、気付いたら五年も経っていたのですよ。そして、必死に夫を探していた私は、その頃になってやっと思いついたの。もしかしたら夫は江戸にいるんじゃないかとね。
それからの私はね、毎日江戸の町へ行っては、色々な町を歩きまわったのよ。
気付いたのが五年も経ってからでしたから、夫には本当に悪い事をしましたよ。
私が夫と会えたのは、それからまた更に五年もかかってしまったのよ。
夫は思いの外近くにいたのには驚いたわよ。何せ夫は、日本橋の呉服屋の番頭をやっていたのですからね。
でも夫は、もうその時には、その呉服屋の娘さんとの祝言が決まっていたの。偶然再会出来た私を見た夫は、私にそれまでの話しをしてくれて、その祝言を取りやめて、お店を辞めてくれるとも言ってくれましてね。その日は、二人でこのお家で一晩過ごしてしまったの。
でも私はどうしても、自分が生まれ育った現代にこだわってしまいましてね。その夜なんとか二人で帰れないか試したのだけれど、私は往き来出来るのに、夫はどうにもならなくてね。
そして話し合った結果、夫とは結局お別れして、別々の道を歩む事を選んだのよ。
夫はその後、予定通りに、決まっていたお店の娘さんと結ばれたわ。私はそれが一番良かったのだと思い、そっと見守って行く事に決めたのよ。
でも神様は意地悪な事をするもので、しばらくすると、私のお腹に赤ちゃんがいる事がわかったの。夫とはあれから会ってなかったので、伝えようにも伝えられないし、伝えてはいけない気もしてね。夫との大事な授かりものとして、私は一人で育てて行く事に決めたのよ。
そしてだんだんお腹も大きくなって来た頃に、夫がお店の娘さんとの間に、子を授かった報告だけでもと突然現れましてね。随分と悩んだそうだけれども、私にだけは直接言って、そして謝りたかったみたいだったの。そこで私のお腹にも気がついて、私達の子供の事を知ったのよ。
それから夫と私は、また話し合ったのですよ。その上で、私と産まれてくる赤ん坊の面倒をみたいとの、夫の思いを受け入れる形で、私のお妾さんの様な生活が始まったのよ。
元の本妻がお妾さんなんて面白いでしょ。でもね、その時の私はとても幸せだったの。だって、一時は死んでしまったと思っていた夫と、また会えて、子供まで授かったのですからね。
でも、夫の方は大変な思いをしたのよ。お妾さんなんて、そうそう隠しきれるものではないのですからね。私達の子供が産まれて間も無く、お店の人達にも知られてしまいましてね。それからの夫は、辛い状況になってしまったのですが、私と子供の事は譲れないと、言い張ったみたいでしてね。夫はお店の仕事では余程信頼されていた様で、大っぴらには出来ないけれど、結局、夫が押し切る形で、私達は許される事になったの。
それからは時折訪れる夫と、子供との生活を送る様になって、とても幸せな日々を過ごせたのよ。
でもね、子供が六つになった冬に、流行り病にかかってしまって、色々と現代からお薬も持って来て、飲ませながら看病したのだけれど、一月余りで亡くなってしまったの。
私は現代で暮らしていたら、普通に病院で診てもらえて助かったんじゃないかと、悔やんでしまってね。どうしても三人での思い出の残った、江戸での生活が堪えられなくなってしまって、夫と話し合った末に、江戸から去る事に決めたのよ。
それから江戸へは、娘の命日にだけお墓に手を合わせに行くだけで、すっかりと私は現代で暮らす様になってしまったの。
そして夫にも会わずに、現代で暮らす様になって五年程経った頃に、ご両親とお兄さんと楽しそうに歩く、あなたを見かけたのよ。
最初はびっくりしたのですよ。それはね、あなたが私の娘の生まれ変わりの様に、そっくりだったからなの。
私は違うとわかっていながらも、思わず声をかけてお名前を聞いてしまったの。だからあなたとは、丸越のお店で会ったのが初めてではなかったのですよ。黙っていてごめんなさいね。
あなたは元気な声で、希美と言うの、と教えてくれたわ。とても優しくて、涙が出そうになったのを覚えていますよ。
その名前を心に刻む様にしながら、帰途についてて、ふと思ったのよ。私の娘は美園。みその と のぞみ は、反対から読むととても似ている事をね。何かの縁で繋がっている心地がして、それからというもの、街を歩くとあなたを捜す様になっていたの。
でも、あなたとは縁があるものだと思っていたので、いつかまた縁が結ばれた時に会えるのだと信じて、無理に捜す事なく何年も経ってから、本当に偶然丸越で再会したのよ。
そして丸越で希美ちゃんと再会出来た事を、美園のお墓に報告へ行った時に、偶然夫と出逢えたの。あの人はすっかりと弱々しくなっていましてね。それでも一年程は一緒にいられたのよ。
それもあなたが導いてくれた事だと思っているの、ありがとうね。
本当の事を話さずに、あなたの事を みそのちゃん と呼んでいてごめんなさいね。
でも、娘の様にも孫の様にもあなたを、大事に想っていた事は本当ですよ。
こんな形で伝える事になって、本当にごめんなさいね。江戸であなたとまた会える事を、楽しみにしていますね。
あなたと出逢えて幸せでしたよ。本当にありがとうね。
園
思ってもみなかったお園さんの過去と、自分との縁に驚愕し、最後の楽しみにしているとの言葉が、希美の胸を締め付ける。
『お園さん、遅くなってごめんなさいね』
希美は心の内で囁いて、安らかに眠っているお園さんを、ぽんぽんっと叩くと、静まり返った部屋に、再び希美の咽び泣く声だけが響き続けるのだった。




