第一話 ちょいと江戸まで
「みそのちゃん、みそのちゃんはいないのかい」
「いつも何処いってんだろうねぇ」
「臥せってるんじゃないのかねぇ」
「あれだから、やっぱり大変なんだよぅ」
「なんでも言ってくれりゃいいのにねぇ」
裏店のおかみさん連中が賑やかにやってきて、最後にはしめやかに囁き合いながら帰って行く。
こんな光景がここ三月ばかりの間、この仕舞屋でしばしば見かけるようになっていた。
この仕舞屋は日本橋からも程近い呉服町にあり、以前はその昔吉原から何処かの大店の旦那にひかされた、との噂もちらほらとあった老婆が一人で暮らしていた。
しかし、その老婆は一年程前に風邪をこじらせて亡くなり、暫くは空家同然で手付かずにいたのだった。
何故手付かずのままだったかと言うと、亡くなった老婆の遺書が見つかったからだ。
その遺書には直に孫が来るので家屋は孫に譲る旨が記され、少なからぬ金も遺されていたのだった。
そんな訳で差配もその周辺住民も、暫く様子を見ようということで、さして気にもとめずに過ごしていたのだった。が、今から三月程前に、ひょっこりと一人の女がいつの間にか住まう様になっていたのだ。
あまりにもひっそりと人付き合いもせずに暮らすものなので、噂好きの裏店のおかみさん連中などは、「本当は盗賊の隠れ家で、あの女は盗賊の頭のあれなんじゃないか」「いやいや、闇の仕事をしているので顔を見られたくないんじゃないか」などと、言いたい放題言う者さえあった。
しかしこれはほんの最初の内の話しで、その女の容姿がそんな噂を一掃する少し風変わりな事から、今では一転して、裏店のおかみさん連中の同情を買っているのだった。
その女の名は『みその』
特別器量良しというほどではないのだが、形の良い眉にぱっちりとした大きな目、小ぶりな鼻の下の楚々として整った口元が、なんとも男好きする様にも見えなくもなく、小娘にも年増にも見える年齢不詳な魅力が器量を上げているのか、男共は一目見たさに競って覗きに行く始末。
ここまで語ると、おかみさん連中の同情を買うどころか悋気を買ってしまいそうだが、そうはさせない決定的な要因があった。
それは、時折姿を見せる『みその』の髪が短いざんばら頭だったからだ。
悋気を起こしかけていたおかみさん連中などは、みそのが無口で少し挙動不審なところも見受けられた為、きっと家族がみんな流行り病で亡くなってしまったのだの、亭主が酷い男で逃げて来たのだの、どちらにしても一度尼寺に入り剃髪し、そこから出てきたのだと好き勝手に解釈していて、みそのを気の毒に思い、少しでも力になろうとしているのだ。
江戸の人々はそんな早合点で世話好きな者が多い。
しかしみそのはそんな江戸の人情には些か不慣れな様子で、言葉を交わす事すら数える程でしかなかった。
それも致し方ないというしかない。実はみそのは江戸の人間ではない。
いや、正確に言うと、みそのは、江戸時代の人間ではないのである。
*
「いらっしゃいませ〜。あー、園さん! いらしてくれて嬉しいです!」
希美は久々に来店した、和装が美しい老婆に明るく声をかけた。
何故か希美はこの園さんと呼ぶ老婆が大好きなのだ。
「最近は寒い日が多かったからねぇ? だからなかなか外に出るのもねぇ……。でも今日は少し暖かいし、あなたに妙に会いたくなってしまいましてねぇ」
老婆はとても品のある笑顔で希美に話しかける。
「そうなんですよね。最近めっきり寒くなってきたので、風邪とか引いてないといいなって、ちょうど園さんの事を考えていたところだったのですよ?」
仕事だから言っているのでは無く、希美は本当に今しがた思っていたところだった。
老婆は最初の来店の日から希美の事が気に入ったのか、自分の事を名前で呼ぶように頼んで来たのだった。
フィーリングというものかも知れないが、希美もすんなりと老婆の要望通り「園さん」と呼ぶようになり、週に一、二度程の来店の度に様々な話しをし、時には知人への贈り物だとか何かと理由をつけ、希美のお店で洋服やら小物を買って行くのが通例となっていた。
希美にとっては上顧客である。
しかし希美は、何故か初対面から肉親に近い親しみを覚えている老婆に対し、上顧客以上の特別な感情で接していて、近頃では「園さん」に会える事が密かな楽しみでもあったのである。
希美が働いている日本橋丸越の婦人服売り場は、そんな上品な老婆や婦人が多い。そんな中でも「園さん」は格別な存在で、希美にとっての癒しでもあった。
「今日は希美ちゃんに、お願いも有って来たのよぅ?」
園さんは殊更幸せそうな笑顔で言った。
「お願いってなんですか? 園さんのお願いなら、訳なんて聞かなくても何でもやっちゃいますよ!」
いつも控え目な園さんの珍しい願い事に、希美は嬉しくなって間髪入れずに応えていた。
「いやね、そうたいした事では無いのですけれど、そのうちお家に遊びに来て話し相手をしてくれないかしら、とね?」
微かに頬を赤らめて言う園さんが少女の様にも見えて、希美はほんわり暖かい気持ちになり、
「私も以前からお店では無くて、ゆっくりとお話ししたいと思っていたんですよ。はい、是非お伺いします!」
と、希美は何の衒いもなく応えて微笑んだ。
「では都合が良ければ、今度の希美ちゃんのお休みの日なんかどうかしらね?」
益々少女の様な表情で園さんは言う。
「大丈夫です、楽しみです!」
四日後の希美の休みの日に園さんの家へ遊びに行く約束を交わすと、大抵は何かしらお買い物をしてくれる園さんだったが、その日は何も買わずに帰って行った。その足どりも軽い。
新たな楽しみを手にした嬉しさが、園さんのその日のお買い物だったのかも知れない。
*
「みそのちゃん、みそのちゃんは居ないのかい?」
「本当いつも何処行っ…」
ガラガラガラと引き戸が開き、みそのが顔を出した。
「お菊さん、お静さん、お若さん、どうしましたか?」
みそのは少し臆する様な物言いだ。
「どうもこうもないよっ、あんた大丈夫かい?」
お菊とお若が同時に言うと、「そうだよぉ、何でも話していいんだよぅ。なんせ、あんたは大変なんだからさぁ」とお静が続く。
もう三人の中では、みそのの過去は勝手に出来上がっているようで矢継ぎ早に声をかけてくる。
「ちゃんと食べてるのかい?」
「煮炊きをしてる様子もないみたいだしねぇ。雑炊くらいは炊いたげるから遠慮なく言っておくれよぉ?」
お若がお菊の問い掛けにかぶせる様に言ってくる。
「あの…私…大丈夫です……あ、ありがとうございます…」
みそのは深々と頭を下げるしか出来ない。
それでも当初に比べれば、一言二言でも話す様にはなって来ているのだが。
「まあ顔色もそんなに悪くない様だし、あたしゃ煩い事言うタチじゃぁないからこれで引きあげるけどさぁ。本当に何でも言っておくれよ?」
十分煩いお菊が言うのを、お若とお静が顔を見合わせて笑いを堪える。そして自分達も同じかと心に思ったのか、二人して肩を竦めると、今日のところはあっさりと帰って行ったのだった。
*
「あー喋りたい! 本当だったらお菊さんがひくくらいの超マシンガントークしてやるんだからっ!」
三人が帰って一人になったみそのは思わず叫ぶ様に独り言ちると、しんみりと溜め息をついた。
初めてここに来た時は恐る恐る格子窓から外を眺め、外には夜になってから周りを少しばかり歩く程度で、人には出来るだけ見られない様に気をつけていた。
しかし、好奇心もありその頻度が増すと、流石に周りの住民が気がついたのである。それに、お菊達がみそのの気配を感じて、盗賊の仲間だとか女だとか、在らぬ噂をし始めたのにも閉口していた。
そして、みそのもこのままでは噂が一人歩きして下手に大事になっては敵わないので、わざと姿を晒し、目が合えば笑みを浮かべて会釈して、自分が怪しい者ではないのだと、さりげなく訴える作戦に出ていたのだ。
江戸言葉にも慣れていないのもそうだが、あまりこの時代の人間と関わりを持ってしまうと、歴史が変わってしまうのではと大袈裟に考えていた事もあり、最初の内は殆んど口も聞かずになるべく目立たぬ様に振る舞っていたが、それが髪型と相まってお菊達や周辺住民はかえって興をそそり、新たな噂が生まれ、それが根付きつつあるのは言うまでもない。
「何でこういう展開になるかな〜」
また独り言ちたみそのは今度は可笑しくなって、一人笑ってしまった自分に気づき、そういえばこんな暖かい気持ちで笑ったのは、いつの事だっただろうと記憶を辿る。
「お園さん…」
みそのはポツリと口に出すと、自分で涙が溢れるのがわかった。
お園さんが亡くなってから一年程、鬱ぎ込むまでには至らなかったが、何かを見てな可笑しくなったりする様な心持ちにはなれず、周りが心配するほど元気がなかったのだ。
「お園さんも、ここの人達に元気をもらってたのね…」
こちらで見聞きした威勢の良いやりとりや、暖かい人の心遣い等を思い返しながら、自分も元気をもらってるんだと実感するのであった。
と、みそのがそんな感傷を抱いていた時、俄かに表から慌ただしい足音が聞こえ、戸をたたく音がしたかと思った次の瞬間には誰かが入って来る物音がした。
『誰か入って来たのは間違いなさそうなんだけれど、ここにはそんな知り合いは居ないし、一体誰なんだろう?』
そう思ったみそのは、恐々としながらも音のした勝手口まで様子を見に行ってみる事にした。
意を決して柱の陰から覗いてみると、戸口に蹲って隠れている男が外の様子を伺っていた。
みそのは思わず、
「誰?!」
と、口に出してしまった。
それは思いの外大きな声だった様で、その男はびくりとしてこちらを振り返りみそのと目を合わせる。そして泣き出しそうな顔で、口に指を当て拝む格好をしきりに繰り返す。
みそのはやっと『ははーん、この人は誰かに追われてるんだわ』と思い、そして『本当にこんな事があるのねぇ』と少し可笑しくなって笑ってしまった。
男は何故みそのが笑ってるのかがわからず、目を丸くして唖然とする。そして、ふと気づいた様に、またみそのを拝んでから外の様子を伺っている。
みそのも一緒に息を殺し外の様子を気にしていると、数人の足音が通り過ぎ、また帰って来たりと、誰かというよりも正にこの男を探し回っている様子である。
「あの野郎、何処ぇ行きやがったんでぇ?」
「あっこの角をこっちへ曲がって行ったとこは見たんでやすがねぇ…」
そんなやり取りが戸を挟んだ目の前から聞こえて来る。
「ちょっくらこん仕舞屋当たってみやすか?」
「ここぇ逃げ込んだってーのかぇ?」
「あっしはあっこの角を曲がんのを見たんでやすよぉ。こんだけ探して見当たらねぇんでやすから、こん仕舞屋に逃げ込んだんに違ぇねぇでやすよ」
みそのと男は顔を見合わせる。
男がごくりと生唾を飲み込むのが暗がりでもわかった。
その次の瞬間、ガラガラと戸が開く音と同時に「邪魔するぜっ!」と、いかにも破落戸ですと言わんばかりの髭の濃い大柄な男と、その子分らしい狐目の小柄な男が入って来た。
みそのはびっくりはしたが、これもまたいかにもという展開に可笑しくなり、堪えきれずに怖さも忘れてゲラゲラと笑ってしまった。
勢い込んで入って来た破落戸達は、足元にお目当ての男が蹲っているにもかかわらず、ざんばら髪の女がゲラゲラと笑い出して止まらない様に釘付けになると、お互いの顔を見合わせて何か冷たい物でも感じた様に、ぶるっと一つ身震いさせ、すぐさま「じゃ、邪魔したな…」と、戸も閉めずに出て行ってしまった。
漸く笑いが収まったみそのが目を開けると、戸口で尻もちをつき、ぽかんと口を開けてこちらを見ている男と目が合った。