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酸いも甘いも噛み分けて  作者: 篠原 皐月


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35/128

(35)広がる疑惑ととばっちり

 公私混同はしないと宣言した友之は、付き合いを止めて以降も、対外的には全く態度を変えずに沙織に接していた。


「それじゃあ、関本。この情報を、製品開発部に伝えておいてくれ」

「分かりました。……ところで課長。ちょっとお伺いしたい事があるのですが」

「何だ?」

 書類を渡して業務連絡が済んだと思ったら、沙織が何やら付け加えてきた為、友之が何事かと思いながら聞く姿勢になると、彼女は声を潜めて彼にだけ聞こえる声でお伺いを立ててくる。


「うちに置いてある、あのマグカップです。使うのならお渡ししますけど、どうしましょう?」

 大真面目にそんな事を言われてしまった友之は、内心で挫けそうになりながらも、何とか平静を装って答えた。


「……邪魔にならなければ、そのまま置いておいてくれ」

「分かりました。必要になったら言って下さい。それでは失礼します」

 そこであっさり一礼して席に戻した沙織は、手早く外出の準備をして隣席の佐々木に声をかけた。


「佐々木君、お待たせ。それじゃあ行きましょうか」

「はい! 今日もしっかり、商談を纏めましょう!」

 打てば響くように応じた佐々木を従えて、沙織が予定されている商談先に出向いていくと、それを見送った同僚達は苦笑いしながら、口々に言い合った。


「佐々木は頑張っていますね。関本に指導役を任せた当初は、それほど面倒見が良いタイプには見えなかったので、大丈夫かと心配していましたが」

「確かに関本は必要以上に手をかけないが、手抜きは一切しないタイプだからな。佐々木はどうもシスコンだったみたいだし、素直に何でも吸収して良かったんじゃないか?」

「違いない。最近は関本に恋人を作って貰おうとして、合コンに引っ張りこもうと頑張ってるしな」

「本人に軽くかわされてるが、本当に姉弟みたいに仲が良いよな」

 何人かの部下達が、微笑ましそうにコメントしている横で、友之が恨みがましく呟く。


「羨ましい……。と言うか、合コンのセッティングをする時間があるなら、その分働け」

「うん? 課長、今何か言いましたか?」

「……いや、何でもない。独り言だ」

 不思議そうに振り向いて尋ねてきた部下に、友之はしらを切って、手元の資料に目を落とした。

 そんな一見いつもと変わらない日常が続く中、沙織は土曜日の夜に自宅マンションで薫を出迎えた。


「いらっしゃい。今度は事前にちゃんと連絡を入れた事は、誉めてあげるわ」

「それはどうも」

「夕飯も準備してあるから、さっさと食べるわよ?」

 玄関で靴を脱ぎながら、余計な靴が無い事を見て取った薫が、さり気なく問いかける。


「週末なのに、あいつは居ないのか?」

「居ません。ほら、さっさと上がって」

 弟を促した沙織は手早く準備しておいた料理を並べて、二人で夕飯を済ませた。それからソファーに移動し、向かい合ってお茶を飲み始めてから、沙織が彼に探るような目を向ける。


「それで? いきなりあんたが出向いてきた理由を、そろそろ聞かせて欲しいんだけど。単なる観光じゃないわよね? 仕事絡みだったら良いんだけど」

「残念な事に、プライベートだな」

「そう……」

 面倒事の予感しかしなかった沙織は無言でお茶を飲んだが、薫は面白く無さそうに話を続けた。


「結論から言うと、沙織の男を見る目は節穴だって事だ」

「藪から棒に何を言い出すの」

 本気で呆れ返った沙織だったが、薫は持参した鞄から大判の封筒を取り出して、彼女に押し付けた。


「これを見ろ」

「はぁ? 何が入ってるのよ?」

「あの野郎の事を興信所で調べさせたら、沙織にちょっかい出しながら、年増女にも言い寄ってやがったぞ。しかもその女、年の離れた死にかけの老人とよりを戻したばかりの、恥知らずの節操なしときてる」

 如何にも不愉快そうに薫が口にした内容を聞いて、沙織は無地の封筒を急いで開けて中身を取り出した。その内容を読み進めつつ、同封されていた写真にも目を通して、さすがの沙織も驚きで顔色を変える。


(この報告書……。課長の相手って、まさか例の不倫相手の、恩師の奥さん!? そう言えば最近、恩師が余命宣告を受けたって、言ってた気がするけど……。その人を捨てた元妻と、再度入籍したって事? え? これって一体、どういう事?)

 ひたすら茫然とした沙織だったが、ここで薫が益々気分を害したように声をかけてきた。


「……何だ、沙織。何か言う事は無いのか? お前、二股かけられてるんだぞ?」

 そこで漸く我に返った沙織は、この事態を何とか穏便に収めようと口を開いた。


「あのね薫、それは誤解だから」

「誤解? どこが?」

「課長とは、先月半ばに別れているし。だから二股かけられているとか、そういう事は無いから」

 そう言い聞かせた沙織だったが、それを聞いた彼は益々表情を険しくした。


「……別れただと?」

「そう。だから」

「沙織をあっさり捨てて、こんな訳あり節操なし恥知らず女に、手玉に取られていると?」

「だからそうじゃなくて、別れたのは確かだけど、課長に限って手玉に取られるとか、そういう事は無いかと」

 徐々に不穏な気配を増してきた弟に、沙織は焦りながら弁解したが、薫は完全に腹を立てて叫んだ。


「ふざけんな! 入院中だろうが何だろうが、その女はれっきとした夫持ちで、不倫関係だろうが! どこまであいつを庇う気だ!? 惚れた弱みか!? 情けないぞ、沙織!」

「別に、盲目的に庇っているつもりは無いんだけど!」

「あのゲス野郎……。徹底的に調べて全て公にして、吠え面かかせてやる!!」

 盛大に歯ぎしりをして友之を罵倒し始めた薫を見て、沙織は完全に説得が失敗した事を悟った。


(拙い。今現在の事だけじゃなくて、課長の過去の事までほじくり返される可能性も! どうしよう。何とか薫を宥めないと……)

 そして内心では狼狽しながらも、沙織はできるだけ平静を装いながら薫に告げた。


「薫、あんた私を路頭に迷わせる気?」

「は? 何の事だ?」

「課長は、私の直属の上司だって知ってるわよね?」

「それがどうした」

 睨み返しながら応じた薫に、沙織が淡々と話を続ける。


「それに加えて、課長は勤務先の社長の息子なの。そんな人の醜聞が公になって、万が一それが原因で会社の業績が落ちたり、評判が悪くなったりしたら、当然社としては犯人を追及するわよね?」

「分からなければ、支障は無いだろう」

「私の身内のあんたがネタ元だって、本当に分からなかったら、確かに支障は無さそうだけど。でもそんな事をしたら、課長と別れた私が裏で糸を引いて暴露したとか、絶対社内で勘ぐられるわよ。冗談じゃないわ。あんた、私の顔を潰す気?」

「…………」

 精一杯気合を込めて睨み付けると、薫が面白く無さそうに押し黙った為、沙織は冷や汗を流しながら相手の反応を待った。


(本当は社内には秘密だったから、勘ぐられるわけは無いけど、薫にはそこまで分からないだろうし。ここで中途半端に引き下がったら駄目よ、沙織!)

 そして、先に目を逸らした方が負けとでも言わんばかりに、沙織が凝視していると、薫は渋面になりながら物騒な事を呟く。


「……公にしなくとも、潰す方法はあるよな」

「ちょっと薫! あんた何する気!?」

「分かった。間違っても沙織の不利にならないような、やり方を考える」

 何やら一人で納得したらしい薫は、そこで静かに立ち上がり、沙織は慌てて尚も言い聞かせた。


「だから、何もしなくて良いって言ってるでしょう!」

「風呂に入って寝る」

「薫! 人の話を聞きなさい!」

 しかし姉の言う事など丸無視で、薫はそのままリビングを出て行き、そこに一人残された沙織は頭を抱えた。


「うわ……、本当にどうしよう。薫は私の言う事なんか聞かないし、母さんを含めて滅多な人には相談できないし……」

 予想外の事態に、本気で困ってしまった沙織だったが、効果的な対策を思いつかないまま、ただずるずると時間が過ぎていった。



 薫が持ち込んだ話のせいで、悶々と悩む事数日。

 沙織は偶然再会した大学時代の友人と、イタリアンレストランで夕食を共にしていた。


「本当に久しぶりね。須藤君と顔を合わせるのは卒業以来?」

「そうだな。まさか商談先で関本と出くわすとは思ってもいなかったぞ。それにしても、このタイミングで会えるとはラッキーだった」

 その台詞を聞いた沙織は、不思議そうに首を傾げた。


「再会するのに、何か時期が関係あるの?」

「実は俺、もうすぐ結婚するんだ」

「あら、おめでとう。良かったらご祝儀代わりに、ここの支払いは奢る?」

「こら。別に結婚間近だから、奢って貰おうと思ったわけじゃないぞ? ここの支払いは割り勘だ」

「それじゃあ、どういう事?」

 益々訳が分からなくなった沙織に、須藤が笑いながら答える。


「そりゃあ、結婚してから仕事上の付き合いもない女と会って飲んだりしたら、俺の結婚相手が面白く無いだろう? 俺も気を遣うし」

「そんな物かしら? 須藤君とは本当に同級生ってだけなんだけど」

「俺だってそうだが、そんな事は彼女には分からないだろう?」

「それはそうかもしれないけど……。須藤君って思ったより真面目なのね」

「何だよ、思ったよりって」

 そう軽口を叩きながら食べ進めた相手に、沙織はちょっと考えてから問いを発した。


「……ちょっと変な事を気いても良い?」

「何だ?」

「例えば須藤君が、上司の奥さんと不倫関係になったとするわよね?」

「……は?」

 いきなり予想外、かつ不穏な仮定話を持ち出されて、須藤は動揺のあまりナイフを派手に滑らせ、皿が耳障りな音を立てた。しかしそんな彼には構わず、沙織は淡々と話を続ける。


「それで一人で盛り上がっていたら、実はその奥さんが他の男ともデキてて、そっちと駆け落ちしちゃったとするわよ?」

「お、おい……、関本?」

「そのまま何年も音信不通だったと思ったら、いつの間にか病に倒れた上司の所に奥さんが戻って来ていたのが分かったの。その場合須藤君は、その奥さんとよりを戻そうと思う?」

 大真面目に意見を求めた沙織だったが、須藤は両手からナイフとフォークを離し、血相を変えて問い質してきた。


「ちょっと待て、関本。何だそのあまりにも荒唐無稽過ぎて、逆に具体例を挙げているようにしか聞こえない、物騒極まりないシチュエーションは? お前まさか保険金殺人とかに、巻き込まれているんじゃないだろうな!?」

 それを聞いて、今度は沙織が目を丸くした。


「え? 保険金殺人? どうしてそんな物騒な話になるの?」

「だって、あり得ないだろう!? 自分をコケにした上に、あっさり捨てた女だぞ? 相当良い女だって、余程の理由が無ければ近付かないだろうが。だからその女と組んで病気の夫に保険金をかけた上で、病死に見せかけて殺して、保険金を手に入れる算段じゃないのか?」

 真剣にそう訴えられて、沙織は思わず反射的に答えてしまった。


「その可能性は無いんじゃない? その人、別にお金に困って無いし」

「やっぱり実話なのか!?」

「あ、いや、そうじゃなくて……、本当にたとえ話だから。何にも巻き込まれたりしてないって。変な事を言って悪かったわ」

 慌てて誤魔化しつつ謝った沙織だったが、須藤はまだ納得しかねる顔付きで念を押してくる。


「本当に、本当に大丈夫なんだろうな!?」

「勿論よ。驚かせてごめん。やっぱりここの支払いは、私がするから。結婚したら今までのように、自由にお金を使えないでしょうしね」

「嫌な事を思い出させるなよ……」

「ほら、気持ち良く飲んで帰りなさいって! さっさとグラス出して!」

 さり気なく既婚男性の懐事情を口にしてみると、須藤もそれは懸念していたらしくがっくりと項垂れた。それに苦笑しながら沙織がワインのボトルを持ち上げつつ、明るく声をかける。それで気を取り直したのか、須藤が苦笑いしながらワイングラスを持ち上げ、沙織に向かって差し出した。


「分かった。就職してからどれだけ酒が飲めるようになったのか、証明してやろうじゃないか。サークルの飲み会で酒を強要させられた時、飲めない俺の分まで飲んで先輩三人を返り討ちにした、あの時のお前の男ぶりにはマジで惚れた。本当に懐かしいぞ」

「……同じ事を桐島君と安達君にも言われたわ。お願いだから、あまり思い出させないで」

 今度は沙織が項垂れ、須藤が楽し気に笑い声を上げた。


(やっぱり課長が例の女に接近してるのって、何か思惑がありそうよね。さて、どうしたものかしら? やっぱり下手に騒ぐと、それを邪魔しかねないし)

 何とか話を逸らして誤魔化す事に成功し、友人と昔話に花を咲かせて楽しくひと時を過ごしながらも、沙織は困惑しながら密かに考えを巡らせていた。

 しかし動揺していたのは沙織一人ではなく、偶々友之を誘って同じ店で食事をしていた正彦は、向かい側に座っている従兄弟が、先程から表情を消して黙々と食べ進めているのを見て、生きた心地がしていなかった。


「ええと……、友之? 一応確認させて貰うが、あれって、お前の部下だよな?」

「……ああ」

 離れたテーブルで、須藤と一緒に良い雰囲気で食べている沙織を目線で示しながら正彦が問いかけると、友之が素っ気なく答える。その声の低さにひやりとしながらも、正彦は問いを重ねた。


「確か以前に見かけた時、部下には女性が一人しかいないって言っていて、少し前に修から、『友之さんが店に、部下の女性を連れてきた』とか言っていたんだが……」

「……そうだな。それが?」

 自分と視線を合わせないまま告げてきた友之に、正彦は本気で頭を下げた。


「すまん。よりによって今日、この店に連れて来て。気分悪いよな? 彼女が他の男と、仲良さげに食事をしていたら」

「別に、彼女じゃないから。今は付き合っていないし」

「……え?」

 淡々と告げられた内容を耳にした正彦は絶句してから、いつの間にか友之の眉間にシワがくっきりと刻まれているのを認めて、再び勢い良く頭を下げた。


「本当に、二重の意味ですまん!」

「だから……、お前が謝る筋合いはない」

 もう外面を取り繕う気も無くした友之は、それ以降は仏頂面のまま無言で食べ続けた。



「おはようございます、関本先輩! 須藤さんとの食事はどうでしたか?」

 翌朝、出社するなり佐々木が元気よく尋ねてきた為、沙織は笑顔で返した。


「おはよう、佐々木君。昨日は懐かしい話で、随分盛り上がったわ」

「そうですか。でも取引先で偶然出くわすなんて、運命ですよね!? 俺もその場に出くわして、驚きましたけど」

「おい、佐々木。一体何の話だ?」

 二人が声高に話していると、周りから不思議そうに尋ねられた為、佐々木が笑顔のまま説明した。


「少し前に商談先で、先輩の同級生の方と遭遇しまして。卒業以来音信不通だったそうですが、連絡先を交換したんですよ」

「へえ? 案外、在学中に付き合ってた男とか?」

「違いますよ。確かに、かなりつるんでいた相手ですが」

 茶化すように口を挟んできた同僚に、沙織が笑って手を振る。しかしハイテンションの佐々木は、上機嫌に話を続けた。


「でも田崎技工にお勤めですし、真面目そうな方ですよね! ああいう人だったら安心できるし、もうこの際、須藤さんとお付き合いしてみても良いんじゃありませんか!?」

「だから佐々木君。須藤君は」

 そこで「もうじき結婚予定だから」と続けようとした沙織の台詞を、友之の怒声が遮った。


「佐々木! まだ就業時間前だが、今日まで提出期限を遅らせた販売計画書はできているのか? 完成しているなら、さっさと持って来い!」

「はっ、はいっ! 今お持ちします!」

 瞬時に顔色を変え、慌ただしく作っておいた資料を手にして課長席に向かった佐々木を見送りながら、先程常には見せない剣幕で怒鳴った友之について、同僚達が囁き合った。


「……何だ? 課長、朝から機嫌が悪くないか?」

「年度末で決算日も控えてるし、色々揃える書類が多くて大変なんだろう?」

「来期の事業計画とかで、上から何か言われている可能性もあるしな」

「業務が落ち着くまで、あまり課長を怒らせないようにしようぜ?」

「そうですね」

 そう結論付けた彼らは、些か釈然としないものを抱えながらもおとなしくそれぞれの席に戻り、各自の業務に取り組み始めた。


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