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酸いも甘いも噛み分けて  作者: 篠原 皐月


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25/128

(25)大型犬の思案

 週末を実家に戻って過ごした沙織は、特に精神的疲労感が抜けきらないまま、月曜の朝出勤した。


「おはようございます」

「おう関本、おはよう」

(変な事になっちゃったけど、取り敢えず課長と付き合う事は課内には内緒だし、由良にも当面黙っている事にしよう)

 別に悪い事はしていない筈なのに、何となく内心びくびくしながら、しかし一見普通に出社した沙織だったが、机に落ち着くとすぐに背後から声をかけられた。


「やあ、おはよう、関本」

「……おはようございます」

(無駄に爽やかなオーラを纏って出勤して来たわね。人の気も知らないで)

 背後を通り抜けながら、いつも通りさり気なく挨拶してきた友之を、彼女は軽く見上げながら、幾分恨みがましい視線を送る。それをしっかり感じ取ったらしい友之は、苦笑しながら自分の席へと歩いて行った。

 

「おはようございます、先輩」

「おはよう、佐々木君」

 次に彼女に声をかけて来たのは隣の席の佐々木だったが、彼は挨拶もそこそこに予想外の事を言い出した。


「早速ですが先輩、合コンしませんか?」

「……はい? 何で?」

「だって先輩は、今現在お付き合いしている人は居ませんよね?」

「まあ、それは……、居ないわね。一応」

 課長席まで聞こえていないでしょうねと心配しつつ、冷や汗を流しながら沙織が応じると、佐々木が真顔で主張し始めた。


「先輩は一見隙が無さそうに見えて変な所で抜けているのが、この前、ストーカー野郎が現れた事で明らかになりましたから」

「佐々木君、あのね」

「ですからやはり、先輩にはしっかりした相手を紹介して、その人に面倒を見て貰わないといけないと思ったんです」

「どうしてそこで、合コンで新しい男を見繕う話になるの……」

(昨日の今日で、しかも課長の前でこんな話……。佐々木君、間が悪過ぎるから)

 何となく周囲の視線を集めてしまっている気配に、沙織は頭を抱えたくなったが、佐々木は思いつめた表情で話を続けた。


「姉が結婚詐欺の被害にあって、『もう結婚なんかしない。独りで雄々しく生きていくから、何かあった時の為に終活する』と言い出しまして。だからせめて先輩には、もっと人生に前向きでいて欲しいんです」

「終活って……」

「お前の姉さんなら、まだ若いだろう?」

「それに独身なのに」

 途端に周囲から困惑の声が上がったが、ここで沙織は声のした方に向き直り、不思議そうに反論した。


「別に若いうちから終活をしても、構わないんじゃないですか? 寧ろ独身だからこそ、何かあった時にできるだけ周りに迷惑をかけないように、備えておく必要があると思いますし。私も終活位してますよ?」

「はぁ?」

「何言ってんだ?」

 怪訝な視線が沙織に集まる中、彼女は机の引き出しから一冊の薄い手帳を取り出し、佐々木に向き直って真顔で説明し始めた。


「因みにこれが、職場版の終活ノート。もし万が一、私がぽっくり逝った場合、これに沿って宜しくね? 多分佐々木君が頼まれる事が多いと思うし、職場で倒れた時の緊急時連絡先とか、私物で処分して欲しい物と実家に送って欲しい物を、この中にリストアップしてあるから」

「うわぁぁぁ――っ!! ねぇちゃあぁぁ――ん! しぬなぁぁ――っ!」

「へ? ちょ、ちょっと、佐々木君!?」

「おい、佐々木!?」

「落ち着け! 何やってるんだ!」

「お前本当に、最近情緒不安定だよな!?」

 説明の途中でいきなり佐々木が泣き叫び、椅子に座ったまま抱き付いてきた為、沙織は面食らった。周りが呆れて立ち上がり二人を引き剥がそうとする中、いつの間にか歩み寄っていた友之が、拳で十分手加減しながら佐々木の頭を叩く。


「佐々木、朝っぱらから錯乱するな」

「いてっ!!」

「ちょっと顔を洗って来い。男にハンカチを渡すのは初めてだが、好きに使え」

「……すみません。行って来ます」

 呆れ顔で差し出された白いハンカチを素直に受け取った佐々木は、項垂れて部屋を出て行った。沙織が溜め息を吐きながらそれを見送っていると、頭上から呟き声が降ってくる。


「終活ノート……」

「何か?」

 思わず見上げると、自分の手元を眺めている友之の視線とぶつかり、沙織は不思議そうに尋ねたが、彼は僅かに口元を歪めてコメントした。

「……いや。準備の良い事だと思ってな」

 その後は余計な事は言わずにそのまま席に戻った為、沙織も特に気にすることなく、その日の業務に取り掛かった。


 その日、少し残業をしてから指定された駅まで移動して改札口の外で待っていた沙織は、十分程で友之と合流し、彼の案内で歩き出した。


「やあ、待たせたな」

「いえ、それほどでも……。でもどうしてこんな中途半端な場所で、待ち合わせだったんですか?」

「社内では俺達の事は秘密だから、退社時間はずらした方が良いし、あまり会社に近い所で飲んだりすると、誰に見られるか分からないだろう? それにここからなら、沙織のマンションに随分近いと思うが」

「確かにそうなんですけど……」

(何か、それだけでは無いような気がするのね)

 機嫌の良さそうな彼と並んで歩きながら、沙織は首を傾げたが、それ以上問い詰める事はせずに大人しく歩いて行った。


 そして駅から程近い繁華街の一角にある小料理屋に二人が足を踏み入れ、小上がり席に落ち着いて早々に友之が手慣れた様子で注文を済ませたが、ここで沙織は妙な視線を感じた。

(何だかさっきから、カウンターの中からチラチラ見られているような……。別に、変な恰好はしていないわよね?)

 あからさまな物では無かったものの、何となく気になった沙織は、手早く酒とお通しが運ばれて来てから、友之に囁いた。


「あの、松原さん?」

「友之」

「……友之さん。私、どこかおかしい所がありますか? さっきからカウンターの中から、見られている気がするんですけど」

 それを聞いた友之は、一瞬不思議そうな顔になってから、おかしそうに笑った。


「ああ、心配要らない。沙織がどこかおかしいわけじゃ無くて、ここに俺が女連れで来たのが初めてだから、気になっているんだろう」

「主語が抜けてます。誰が気になってるんですか?」

「カウンターの中の店主、俺の従弟だから」

 事も無げに言われた内容を聞いた沙織は一瞬考え込み、納得して頷く。


「社長が『板前の修業中に、その料亭の一人娘に手を出して駆け落ちした』と仰っていた従弟さんですね」

「正解。本当に記憶力が良いな」

「だから売上貢献の為に、ここに連れて来たんですか?」

「それと立地条件と酒と料理が美味いからだな。特に最後の条件は、お前を丸め込むには必須条件とみた」

「何だか、餌付けする気満々の態度が、妙にムカつくんですけど」

 そこで手にしていたぐい飲みの中身を煽ってから、沙織は疑わし気に尋ねた。


「そもそも先週の金曜に奢って貰ったばかりなのに、『食べながら話したい事があるから付き合ってくれ』って、何ですか?」

「純粋に、土日の沙織の首尾が気になっていたから、ゆっくり聞かせて貰おうと思っただけだ。早速土曜の朝にデートに誘ったら、『泊りがけで実家に行くから』と、すげなく断られたし」

「……根に持ってるんですか?」

「まさか」

 頬杖を付いた友之は爽やかに笑って返したが、その胡散臭い笑みを見た沙織は盛大に顔を引き攣らせ、グラスを座卓に置きながら喚いた。


「そんなに聞きたいんですか? ええ、酒を手土産にして、頑張りましたとも! 和洋さんはガン無視して良いから、相手のご両親には笑顔で挨拶しましょうよと、二日がかりで情理を尽くして、何とか説得しましたよ! 母には効果は無いだろうけど、泣き落としして玉砕しようかと言うところまで、精神的に追い込まれましたよ!」

 最後は涙目で声を荒げた沙織に、近くのテーブルから「何事?」と訝しげな視線が集まったが、友之は周囲を綺麗に無視し、彼女に明るく笑いかけた。


「兄夫婦の為に、全力で良く頑張った。今日は好きなだけ飲んで良いぞ」

「当たり前です! 大体、こんなに疲労困憊しているのは、半分は友之さんのせいですからね!? 月曜に豊が会社に押しかけて、水曜に誕生日で和洋さんとご飯食べて、木曜に押し倒されて乱闘騒ぎになりかけて、金曜にとんでもない話を聞かされて、土日で母親相手に神経戦ですよ!? 何て濃い一週間! もう本当に、どうしてくれるんですか!」

「ああ、俺が悪かった。謝るから、ほら飲め」

 差し出された瓶を見て、素直にぐい飲みを近づけた沙織は、そこに注がれる酒を見ながらボソッと呟いた。


「友之さん……。私には取り敢えず美味しいお酒を飲ませておけば良いとか、思っていませんか?」

「思っているが。お前にはブランド物より美味い酒、ワインより日本酒、熱燗より冷酒。違うのか?」

「違いませんよ! 悔しいぃぃっ! さっき言っていた通り、お酒も料理も美味しいじゃないですかぁぁっ!」

 そう叫んで猛然と飲んで食べ始めた沙織を見て、友之は楽しげに笑った。


「やっぱり面白いな、お前。だが色々あった後なのに、先週末、無理に実家に戻らなくても良かったんじゃないか?」

「今週の土曜は、真由美さんと一緒にメイドカフェに行く約束をしてるんですよ。ずらしても良かったんですが、延び延びになりそうで……」

「そうか……。色々申し訳無い。宜しく頼む」

「それは構いませんから」

 そこで急に二人で真顔になり、微妙な空気が漂ってしまった為、友之は気を取り直して話を続けた。


「それなら、日曜が空いているな。ドライブにでも行くか。どこか行きたい所はあるか?」

「いえ、特にはありませんが……」

「分かった。じゃあ俺が決めておく」

「行くのは決定ですか」

 もう何を言っても無駄だと諦めた沙織は、飲む事に集中した。そして新たな酒を注文したが、それを済ませたタイミングで、友之が唐突に言い出す。


「そう言えばあの後、ジョニーはちゃんと来ているのか? 俺の家に泊まっていた時、『あまり留守にすると、ジョニーに来て貰えなくなる』と気にしていただろう?」

「ちゃんと定期的に、来てくれていますよ?」

「そうか。それならそこに、今度は偶に大型犬が一頭ふらっと行っても、別に問題はないな」

「大型犬?」

「大型犬。野良猫よりはるかに役に立つぞ? 高い所に手が届くし、力仕事もできる」

 怪訝な顔をした沙織に、友之が満面の笑顔で自分を指差しながら告げる。それを目の当たりにした沙織の顔が、盛大に引き攣った。


「……大型犬は野放し厳禁で、ちゃんと鎖に繋いでおく必要は無いんですか?」

「俺は賢い大型犬のつもりだから、鎖に繋がれていなくとも、行き先や家を間違える事は無いが?」

「他人の家に勝手に上がり込んだ事のある駄犬が、どの口で言っているんだか」

「それを言われるとな」

 暗に過去の事に言及していると分かった友之は苦笑いの表情になったが、そんな彼を見た沙織は小さく肩を竦めた。


「今日はあと一時間は飲むつもりですし、それから帰ると、就寝時間まで一時間あるかないかですから、短時間でやる事をやれるなら止めはしませんが。時間になったら叩き出すので、そのつもりで」

「言ってみただけだ。月曜だし、また今度にするさ」

「まあ……、来たいなら今度、都合が良い時にご招待しますよ。ふらっと来るのは、できれば止めて下さい」

「分かった。怒られたくは無いからな。それで、終活の事だが」

「はい? 何ですって?」

 いきなり変わった話題について行けず、沙織が唖然としていると、友之が大真面目に言い出した。


「終活ノートを作っているとか、会社で言っていただろう?」

「ええ。それが何か?」

「それはそのうち捨てさせるか、二人一緒に新しい物を作るから。そのつもりでいてくれ」

「……はい?」

「ところでお母さんは、やはり相当気難しい人なのか?」

「だから、コロコロ話題を変えるのは、止めて欲しいんですけど!?」 

 再び沙織が声を荒げたところで、友之は苦笑いした。それから彼は実家での母親とのあれこれに関して、沙織がひたすら愚痴りまくる内容に、笑いを堪えながらおとなしく耳を傾けたのだった。


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