(110)ちょっとしたとばっちり
「私達はあの事件が起こるまで、事実婚の事実を社内にも秘密にしていたじゃない? だから必然的に、子供を作るのは先送りにしていたわけ」
それだけで由良は、沙織が言いたい内容を理解した。
「なるほど。そうなるとそれが明らかになった現状では、特に出産を控える必要はなくなったわけだし、良かったじゃない?」
「それは確かにそうだけど、少し前から友之さんが『仕事の進捗状況がどうだ?』とか、一人でうだうだしていて苛々するのよ」
「沙織、話の流れが分からない。もう少し分かり易く、簡潔に話を纏めようか」
「だから、妊娠出産となったら当然私は産休に加えて育休を取得して、ある程度の期間、現場から離れる事態になるじゃない? それを私が嫌がるんじゃないかとか一人で変な方向に心配した挙げ句、子供についての話をどう切り出そうかと、悶々と悩んでいる気配がしているわけ」
「…………」
僅かに渋面になりながら面白くなさそうに沙織が告げると、それを聞いた他の者達は一様に無言で顔を見合わせた。そんな彼女達を代表して、由良が溜め息を吐いてから呻くように言い出す。
「沙織……。あんたね、独身女性ばかりを集めた席で、なんて微妙なネタを提供してくれるのよ……」
「そう言われても……。丁度話の持って行き方をどうしようか考えていたところだったし。この際、広く他人の意見に耳を傾けてみようかと」
「確かにあんたの性格や行動パターンから考えると、考えなしに松原課長とそんな微妙な話をしたら、お互い感情的になって下手をしたらこじれそうね」
「そこまで直情的な性格ではないつもりだけど?」
由良が真顔で頷き、沙織が憮然とした表情になる。するとこの間口を閉ざしていた周囲から、次々と声が上がった。
「でも、松原課長が悩むのも分かる気がしますよね」
「うん。関本先輩って傍から見ると、いかにも仕事一筋って感じだし」
「現に、職場に骨を埋めるとかなんとかの発言、以前にしていましたよね?」
「下手に話を持ち出したら怒られるか、嫌われるかするかもって本気で心配している感じがします。確かに関本さんは喜んで産休育休に突入するタイプには見えないし」
「だけど関本さんは、『自分ばかりキャリアが中断するのが嫌だから、子供は産みたくない』と主張するタイプでもないと思いますけど……」
「そうよね。まずはそこら辺を、先輩本人がどう考えているのか聞かせて欲しいです」
そこで沙織の発言に耳を傾ける為に周囲が再び口を閉ざすと、沙織は困惑顔で考えながら意見を述べた。
「うぅ~ん、改めてそう聞かれると、この場ではっきり答えられないかな? 今まで子供が好きとか嫌いとか特に意識していなかったし、出産育児で仕事に支障が出るとかも考えた事もなかったから」
「昔から『案ずるより産むが易し』とは言うけれど、こればかりは第三者の立場から軽々しく言えないわよね」
由良が難しい顔で呟くと、ここでどこからか声が上がる。
「でもこの場合の当事者って、関本先輩だけじゃなくて松原課長の問題でもありませんか? 今時、家事育児全般が女性だけの負担になるなんて、絶対おかしいですよ」
その若手からの疑問の声に、由良を筆頭にその場全員が一瞬顔を見合わせてから口々に言い始めた。
「それはそうよね! うちの会社だと女性の産休取得に関しては問題ないし育休取得も進んでいるけど、社内男性の育休の話って聞かないよね?」
「たまに聞くけど、何日かとか何週間とか短期間の話だと思うわ」
「しかも松原課長は創業家の人間で現社長の息子だしここは一つ男性社員の模範となるべく、寧ろ率先して育休を取得するべきじゃないの?」
「同感。関本先輩、ここは一つ松原課長と真正面から向き合って、出産育児について熱く語り合うところですよ。これからの松原工業の発展のためにも!」
「そうよね。それを踏まえて吉村さん。男性の育休取得に関して、どう思われます?」
そこで由良が唐突に話の矛先を向けてきたことで、吉村は面食らった。
「は? え? なんで俺!?」
「だってこの場に男性は吉村さんだけだもの。是非、忌憚のない本音を聞かせて貰いたいなと思って」
「いや、いきなりそう言われてもだな……」
全く自分の事として捉えていなかった吉村は、本気で困惑した。そんな彼に、由良が質問を重ねる。
「それなら吉村さんは、家事育児は全面的に女性がする事で、女性の社会進出はそもそも間違っているいう、旧時代的な思考の持ち主なんですか?」
若干目を細めながらの由良の問いかけに、吉村は内心焦った。更に周囲の女性達から冷ややかな視線を向けられているのを実感してしまい、慌てて弁解する。
「誤解するな! 間違ってもそんな風には思っていないぞ! 男だろうが女だろうが、活躍する場は平等にあるべきだろうし!」
「それなら、家事育児を女性任せにするのはおかしいと思っていますか?」
「ああ、当然だ! 出産するのは女性にしかできないが、その分男が育休を取得したり、普段の生活でも積極的に家事育児をサポートするべきだと思うぞ!」
吉村がそこまで口にしたところで、由良が先程までの険しい表情を綺麗に消し去り、満面の笑みで宣言してくる。
「やった、嬉しい! 吉村さんが理解のある人で! 吉村さんが全面的にサポートしてくれるなら、私頑張って二人でも三人でも働きながら子育て頑張りますね!」
「どうしてそうなる! 俺は一般的な話をしただけで、あんたとどうこうって話はしていないよな!?」
「もう! 人目があるからって、そんなに照れなくっても良いのに!」
「照れてない!」
「由良、ふざけるのはそこまで。下手をすると、皆に危ないストーカー女だと思われるから」
どう見ても悪乗りしている由良と狼狽している吉村を見て、沙織は呆れながら言い聞かせた。しかし周囲からは、楽しげな声が上がる。
「あ、関本さん、皆分かってるから大丈夫よ」
「そうそう、新川さんが吉村さんを一方的に狙っているだけよね」
「でも纏まってくれたら会長の座が空きますし、早めにカップル成立して欲しいんです」
「本当にそうよね。私達で全面的にサポートしようか」
「新川先輩、頑張って下さいね!」
「吉村さん、新川先輩は良い方ですから是非!」
「本当になんなんだあんたら! 勘弁してくれ!」
そこで吉村の悲鳴じみた声が上がり、その場に和やかな笑い声が満ちた。
結局それから沙織と吉村を散々からかい倒してから会はお開きとなり、店を出てから沙織は由良と吉村と共に、最寄り駅に向かって歩き始めた。
「今日は楽しかったわね!」
「そうだけど、由良は痛飲したわね……。明日が休みでも、少しは加減しなさいよ」
「だってワインが美味しかったんだもん! これくらい、全然平気だし!」
「うん、まあ……。一応、平気に見えるけどね……。あれ?」
進行方向に佇んでいる人物を認めた沙織は、不審そうな顔つきになった。しかし隣を歩く由良は、嬉々としてその人物に手を振りながら声をかける。
「あ、松原課長! 沙織のお迎え、ご苦労様です!」
「……吉村さん?」
そこで沙織は、一歩後ろを歩いていた吉村を軽く睨む。
「お開きを知らせた。そこまでが、俺が頼まれた内容だからな」
「本当に過保護なんだから……」
「お前が無頓着すぎるだけだ」
「うん、私も吉村さんに1票!」
「諸悪の根源のお前が言うな!」
由良と吉村が漫才じみた掛け合いをしている間に友之が距離を詰め、二人に挨拶してきた。
「新川さん、こんばんは。吉村、今夜は遅くまですまなかったな」
「いえ、大丈夫です。特に問題はありませんでしたので、安心してください」
「そうか。ありがとう」
「俺は少々絡まれただけでしたが……」
「吉村?」
そこで微妙な表情になって口を閉ざした吉村を見て、友之が怪訝な顔になった。そんな友之に、吉村が真剣に語りかけて頭を下げる。
「課長、これから色々頑張ってください。現時点で俺に言えるのは、残念ながらこれだけです。仕事以上に、プライベートでの課長の奮闘をお祈りします。それでは俺はこれで失礼します。お疲れさまでした」
「え? あの……、吉村? 今の話は一体どういう意味で」
慌てて吉村を問いただそうとした友之だったが、二人の間に由良が割り込み、明るく声をかける。
「吉村さん、一緒に帰りましょう! 路線は同じですものね! 本当に運命ですよね!」
「違う! 絶対に近々、引っ越ししてやる!」
「またまた~、そんな照れ隠しを言っちゃって!」
「照れてない!」
「あ、引っ越しするって、私の部屋にですか!? それとも二人で暮らす部屋を探すとか!?」
「違うに決まってるだろ!! あ、おい! 腕を組むな! くっついてくるな!」
二人が声高に揉めながら歩き去るのを、友之は唖然としながら見送った。その横で、沙織が呆れ気味に呟く。
「騒々しいわね……」
「沙織。さっき吉村が言っていたのは、どういう事だ?」
真顔で友之が尋ねてきたことで、沙織は一瞬考え込んでから事も無げに答える。
「別に、大した事じゃないのよ? 世の中の共働き夫婦が直面する課題について、独身女性達が熱く議論を交わしただけだし。そこで友之さんの今後の身の振り方についても、色々意見が出ただけよ。吉村さんみたいに、皆から熱いエールを貰ったわ」
「……俺が?」
「ええ。私も貰ったけど」
「具体的な内容は?」
「そのうち分かるから。遅くなるからさっさと帰るわよ?」
「話す気はないのか……」
「今はね」
すっきりしないものの、沙織の態度からここで聞き出すのは無理らしいと判断した友之は、諦めて歩き出した。そしてすぐに、話しておかなければならないことを思い出す。
「そう言えば、来月の予定だが。以前、八月に一緒に休みを取って、内密に新婚旅行にでも行こうかと相談していただろう? だが事件や入院があった上に、後処理で色々煩わしい事もあるし、先延ばしにしようかと考えているが」
「それで正解よ。十月に決まったしね」
「何が十月に決まったんだ?」
不思議に思った友之が尋ねると、沙織が意外そうに問い返した。
「あれ? お義母さんから聞いていないの?」
「何を?」
「私達の結婚披露宴よ。結婚の事実が社内外に明らかになったし、早々に設定するからと言っていたでしょう? その日程が決まったからと、私は昨夜聞いたけど」
それを聞いた友之が、茫然自失になりながら言葉を返す。
「それは初耳だ……。しかも十月って、あと三ヶ月あるかないかだよな?」
「でも、どうにでもやってしまうわよね……。『玲子お義姉さんと清人君に、ものすごく頑張って貰ったの! 近いうちに三人で、直にお礼を言いに行きましょうね!』と、それはそれは嬉しそうにお義母さんが言っていたから……」
「ええと、その……。沙織、色々とすまない」
この段階で披露宴が、平凡かつ平穏無事に終わりそうもない気配を察した友之は、神妙に沙織に向かって頭を下げた。対する沙織は既に諦めていたのか、淡々とした口調で応じる。
「良いのよ。ただそうなると、どうしてもスケジュールがタイトになるから、夏はその準備に専念する事になりそうだし、必然的にのんびり出掛けている暇はないと思うの」
「その通りだな。分かった。旅行は、秋以降に落ち着いたら考えよう」
「そうしましょう。それからその披露宴について相談する為に、明後日の日曜日に豊が家に来るから」
「……お義兄さんが家に? どうしてだ?」
話題が変わった途端、友之が警戒する表情になった。そんな彼に、沙織が冷静に言い聞かせる。
「披露宴だから、準備は松原家と関本家の両家で確認しながら進めないとまずいじゃない? 母は名古屋だし、殆どこちらで準備するにしても、建前はそうしないと」
「それはそうだな」
「そうは言っても、母だけに相談したら和洋さんが拗ねるし、都内在住だからといって和洋さんにだけ相談するのも、母が激怒するから論外。両親が顔を揃えるのはもっとあり得ないし。そうなると選択肢としては、関本家の代表として都内在住の豊に頼むしかなくなるわけ」
そんな懇切丁寧な解説を聞かされた友之は、強張った顔つきのまま了承した。
「良く分かった……。明後日までに、心の準備をしておく」
「何か、見るからに苦手そうな顔つきになっているんだけど……」
「大丈夫だ。日曜日は笑顔で歓待する」
「……お願いね」
(二人が顔を合わせるのは、友之さんが頭をまともに踏まれて入籍した日以来か……。変なトラウマになっていなければ良いけど。本当に豊ったら、変なところで容赦がないんだから)
自分自身に言い聞かせるように何やらぶつぶつと呟いている友之を横目で見ながら、沙織は最寄り駅に向かって歩き続けた。




