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(11)転機

 決行当日、定時を過ぎて残業をしていた沙織は、時計で時刻を確認しつつ静かに腰を上げた。


(うん、そろそろかな? 課長の残業を中断させるのは申し訳無いけど、後から謝ろう)

 そう心の中で謝罪しながら課長席に歩み寄った沙織は、神妙に席に着いている友之に声をかけた。


「課長、今宜しいですか?」

「ああ、どうした?」

「少々、お付き合い頂きたいのですが」

「何だ?」

「移動をお願いします」

 唐突過ぎる申し出に、瞬時に友之の表情が怪訝な物に変化する。


「……どこに付き合えと?」

「一階のエントランスホールです。人一人の人生がかかっているので、ぐちゃぐちゃ言わずに付いて来て頂けると非常に助かりますし、今度食事を奢ります」

 すこぶる真面目にそんな事を言われた彼は、数秒彼女の顔を凝視してから小さく溜め息を吐き、諦めて席を立った。


「分かった、付き合う。これまでの経験からすると、下手に断ったらもの凄く面倒な事になりそうだ」

「快諾して頂き、ありがとうございます」

 そして連れ立って歩き出した友之だったが、廊下に出るなり沙織を問い質した。


「それで? 俺に一体、何をさせる気だ?」

「誠に申し訳ありませんが、茶番の当事者になって下さい」

「はぁ? もう少し具体的に」

「これまでの経験で、課長はフェミニストだと信じています。信じても良いですよね!?」

 並々ならぬ気迫で自分を見上げて確認を入れて来た沙織に、友之は若干引きながら答える。


「あ、ああ……、これまで人並み程度には、女性に敬意を払ってきているとは思うが……」

「それでは今日も、その方向で宜しくお願いします」

「関本……。お前、絶対説明する気が無いよな?」

 それを悟った友之は顔を引き攣らせたが、退社する為にエレベーターを待っている社員達の集団と遭遇した為、変な事は口にできないと思い直した。それから少々時間を要して一階まで下りた二人は、迷わずエントランスホールを横切り、明里が待っている場所まで歩いて行った。


「木曽さん、お待たせしました」

 すると明里は、連れ立って来た二人を、苦笑いで出迎える。

「本当に、松原課長を連れて来ちゃったのね……」

「はい。連れて来ちゃいました」

 そうして女二人が微笑み合っているところに、友之が控え目に声をかけてみた。


「ええと……、確か、経理部の木曽明里さん、だったかな? もしかして、俺に用があるのは君かな?」

「はい、お仕事中に個人的な事でお時間を頂いて、申し訳ありません。ですが所属の他に、私の名前まで覚えていて下さったとは、思ってもいませんでした」

 軽く頭を下げてから、少し意外そうに述べた明里に、友之が弁解するように答える。


「それは……、うちの関本が色々お世話になっていたみたいですし、彼女から何かの折に聞いたのを記憶していましたから」

「そうですか。それでは余計なお時間を取らせるのは申し訳ありませんので、さっさと済ませる事にします」

 そこで明里は、嬉しそうに綻ばせた顔を引き締め、真剣な面持ちで真正面から友之に申し出た。


「松原さん。私は入社以来、ずっとあなたの事が好きでした。私と結婚して下さい」

「…………え?」

 明里は絶叫などはしていなかったが、不思議とその落ち着き払った声音は二人の周囲に響き渡った。その途端、付近を歩く者達のざわめきが止み、足を止める者も続出して、二人に視線が集中する。


(木曽さん、偉い! 良く言った! さて、向こうの方の仕込みも、上手くいったかな?)

 二人から数歩離れた所から、沙織が心の中で声援を送ると、周囲から困惑気味の囁き声が伝わってきた。


「あれは何?」

「今、『結婚して下さい』とか聞こえなかった?」

「あれは営業部の、松原課長だろ? あの人と付き合ってたのか?」

「でも確か松原課長は、社内の人間とは付き合わないって言ってたよな?」

「じゃあ、どういう事なんだ?」

 ざわめきは一向に収まらず、真正面から明里に見つめられたままの友之は密かに狼狽し、彼女の斜め後ろに立っている沙織に向かって、目で訴えた。


(おい、関本! どういうつもりだ、これは! この事態を俺にどうしろと!?)

 その訴えに沙織は拳を握って、無言のまま力強く頷いてみせる。


(課長、この場を丸く治めて下さい。信じてますから!)

(全く! 今度と言わず、今日夕飯を奢って貰うからな!)

 彼女が全く助ける気のない事だけは分かった友之は、完全に諦めて再び明里に向き直った。そして慎重に口を開く。


「あの……、木曽さん? 好意を持ってくれた事は嬉しいんだが、俺は君に恋愛感情を持った事は無いし、当面誰とも結婚する気は無いので……」

「はい、分かりました」

「え?」

「松原課長がそう仰るのは当然です。付き合ってもいない人間からいきなり『結婚して下さい』と言われて、『はい、結婚しましょう』なんて承諾する人はいませんから」

「はぁ……」

 あっさりと返された上に穏やかに微笑まれて、友之は安堵しながらも、少々茫然としながら相槌を打った。


「ですからこれはあくまでも、私なりのけじめの付け方なんです。こんなつまらなくて個人的な事にお付き合いして頂いて、本当に申し訳ありません」

「そうですか……。それで、あなたの気は済みましたか」

「はい、ありがとうございました」

「それは良かった」

 そう言って笑顔で深々と頭を下げた明里だったが、再び顔を上げたその時、顔は笑ったままながら、両眼から涙が一筋ずつ零れ落ちていた。それを見た友之が、さり気なくジャケットの左のポケットからハンカチを取り出し、彼女に向かって差し出す。


「それではこれを使って下さい」

「え? あの、でも……。松原課長がこれからまだ、使うかもしれませんし……」

 困惑して瞬きしながら遠慮した明里だったが、ここで友之は苦笑しながら、右のポケットからもう一枚ハンカチを取り出しつつ説明を加えた。


「俺は普段から、ハンカチは二枚以上持ち歩く事にしているんです。それでこちらは今日使いましたが、これは未使用のままですので」

 そう言って左手で持ったハンカチを再び差し出してきた為、明里は反射的に受け取りながら、不思議そうに尋ねた。

「松原課長はどうしていつも、ハンカチを複数枚持ち歩いているんですか?」

 その問いに、彼は苦笑を深めながら答える。


「実は昔、とある知り合いから『女性が泣いたり怪我をした時に、咄嗟にハンカチの一枚も出せなくてどうする』と薫陶を受けまして。それ以来ハンカチは常に複数枚持ち歩くのが、習慣になっているんです。ですから、遠慮せずにどうぞ」

「それでは遠慮無く、使わせて頂きます。洗ってお返ししますので」

「ああ、返さなくて良いですよ。良かったら差し上げます」

「……分かりました。今日の記念に頂きます。ありがとうございました」

 そして軽くハンカチで頬を押さえて涙の後を消した明里は、再び頭を下げてから明るい笑顔でその場を立ち去って行った。すると一部始終を見守っていた沙織が、如何にも感心した様子で上司に歩み寄る。


「さすが課長……。あそこですかさず綺麗なハンカチが出てくるとは、侮れませんね。できる男はやっぱり違うわ……」

「それはともかく、何がどうなってこんな事態になったのか、是非納得のいく説明をだな」

「松原! 貴様、こんな公衆の面前で、何を言って彼女を泣かせた!?」

「貴島さん?」

 どうやら少し前から人垣の向こうにいたらしい貴島が、野次馬をかき分けるようにして現れ、友之に迫った。それを見た沙織が、再び感嘆の呟きを漏らす。


「うおぅ……、タイミングばっちりじゃないですか」

「関本。お前、これにも関わってるのか?」

 驚いて友之が問い質している間に貴島は距離を詰め、彼に掴みかかった。


「松原、答えろ! 事と次第によっては、今度こそ容赦しないぞ!!」

「ちょっと待って下さい。俺にも正直、何が何だか」

「木曽さん、仕事を辞めて実家に戻ってお見合いして、結婚するそうなんですよね~」

「はぁ!? なんだそれは!」

 さらりと沙織が口にした内容を聞いて、貴島が動揺し、友之も驚いた表情になった。しかしそんな男二人には構わず、沙織が冷静に話を続ける。


「それで心機一転して新しい人生に踏み出す為に、心残りをすっぱり断ち切ろうと、木曽さんは敢えて人前で松原課長に人前でプロポーズして、あっさり振られたんですよ」

「何だと? 貴様……、彼女に恥をかかせたのか?」

「いえ、そう言われましても、了承するわけには」

 途端に怒りの形相で凄んだ貴島だったが、友之は必死に弁解しようとした。しかしここでさり気無く、沙織が感想を述べる。


「でも木曽さんは勇気がありますし、立派ですよね? 大勢の人の前で恥をかいても、ちゃんと自分の気持ちを伝えましたし」

「…………」

 暗に自分の意気地の無さを責められたように感じた貴島は、思わず黙り込んだ。そこをすかさず、沙織が追い詰める。


「確かにちょっと泣いてしまったかもしれませんけど、とてもすっきりした顔で送別会会場に向かいましたよ。あれならとんとん拍子にお見合いして、結婚しちゃうかもしれませんね。実家の両親が厳選した相手みたいですし。因みに、その送別会会場はここなんですが、私もこれから行こうかどうしようかと」

 そう言いながら、沙織が何気無くポケットから取り出した一枚のメモ用紙を、貴島が必死の形相で奪い取った。


「寄越せ!!」

「貴島さん!?」

 そして奪ったメモ用紙片手に、勢いよく外に向かって走り出した彼に、友之は慌てて声をかけたが、その横でのんびりとした声が響く。


「あ、そう言えば、当初は送別会の予定だったんですが、木曽さんが退職して実家でお見合いしたりしないで、こっちで働きながら婚活するって決心したのが判明したので、名称が激励会に変わったんですよね……。あれ? いつの間にか貴島課長がいなくなっていますが、どこへ行かれたか分かりますか?」

 わざとらしく首を傾げてお伺いを立ててきた沙織を見て、友之の顔が盛大に引き攣った。


「……白々しいぞ、関本。後から盛大に文句を言われるのが、俺だと言う事は分かっているよな?」

「課長は本気で怒ると、本当に迫力ありますよね」

「まだ仕事中だ。さっさと戻るぞ」

「はい。ご迷惑おかけしました」

 一応しおらしく頭を下げた沙織を引き連れて歩き出した友之は、忌々し気に悪態を吐く。


「全く……。あと一時間以内に、仕事に区切りを付けろ。今日は晩飯を奢って貰うからな。そこで洗いざらい聞かせて貰おうじゃないか」

「了解しました」

 本気で腹を立てている上司に逆らう事などできず、それから職場に戻った沙織は集中して仕事をしていたが、三十分程経過した頃にスマホに由良から電話がかかってきた為、席を立って廊下で応答した。


「ごめん、由良。ちょっと課長に責められて激励会に顔を出せないから、皆に謝っておいて欲しいんだけど」

 てっきり、さっさと来いとの催促かと思った沙織だったが、その予想はあっさり外れた。


「それは良いから。もう激励会はお開きになったし。その報告よ」

「どうして? 予定より随分早いよね?」

 思わず問い返した沙織だったが、由良は幾分咎めるような口調で告げてきた。


「あんた、貴島さんに大嘘吐いて焚きつけたでしょう? 激励会の最中に乱入して『実家に帰る位なら、俺と結婚してくれ』ってやらかしてくれたのよ。もう大騒ぎの大盛り上がりよ。木曽さんなんか真っ赤になっちゃって、気の毒な位だったわ」

「分かった。心の中で貴島課長をヘタレ呼びするのは、今後は止める事にするわ」

 沙織がそう冷静にコメントすると、電話越しに由良が溜め息を吐いた気配が伝わる。


「本当に容赦ないわね。それから周囲の目なんか全く気にしないで、猛然とアピールし始めたから、馬鹿馬鹿しくなって二人を残して、全員店を出て来たってわけ」

「二人だけで大丈夫かしら?」

「どちらも三十過ぎた大人だし、大丈夫でしょう? とにかく、そういうわけで激励会は終了したし、後から貴島さんに大嘘吐いた事で文句を言われても、甘んじて受けなさいよ?」

「了解。連絡ありがとう」

「じゃあ残業頑張って」

 最後は互いに苦笑しながら通話を終わらせ、沙織はスマホを元通りしまいながら歩き出した。


「やれやれ、一件落着かな? でも本当に色恋沙汰で人生が変わるって、凄い事よね」

 ちょっと自分には無理だなと思いながら、彼女は無言で自分の席に戻った。


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